日本クラウン
日本クラウンが近づくにつれ、世間の熱狂は日ごとに膨れ上がっていった。
一生に一度。
競駆に生きる者なら、誰もが夢見る舞台。
雨月賞とはまた違う意味で、三歳駆人の価値を決定づける頂点の戦い。
日本クラウン。
その名が新聞の一面を飾り、テレビの特集で語られるたびに、競駆界全体が巨大なうねりとなって動いているのが分かった。
現地入りしたベルアマードは、その光景に思わず息を呑んだ。
富士国立競駆場の周囲には、朝早くから人の波が押し寄せていた。
広大な通路は埋め尽くされ、広場には色とりどりの応援旗が揺れている。
家族連れ、年配のファン、誰もが今日という日を待ち望み、興奮を隠しきれていなかった。
遠くには富士山が静かにそびえている。
その雄大な静寂とは対照的に、競駆場の内側では巨大な熱が渦を巻いていた。
このレースは、ただのGRではない。
歴史であり、夢であり、伝説の始まりだ。
ベルアマードは改めてそれを実感した。
室内練習場にいても、その熱は壁を突き抜けて伝わってくる。
低く響く歓声。
遠くで鳴るアナウンス。
観客たちの期待が空気そのものを震わせていた。
走者たちはそれぞれ最後の調整を行っている。
だが、その表情には普段とは違う緊張があった。
誰もが知っている。
今日という日は二度と来ない。
ベルアマードも身体を動かしながら、その空気を受け止めていた。
雨月賞の時のように飲み込まれてはいけない。
葉桜記念の時のように慎重になりすぎてもいけない。
母との特訓で何度も感じた、背後から迫る圧倒的な存在感。
怖かった。
今も怖い。
だが、その恐怖から目を逸らさない。
逃げない。
一つ一つの動作を確かめながら、自分の走りを身体に刻み直していく。
やがてインタビューの時間になった。
ベルアマードが会場へ向かうと、ちょうどベストセンスの取材が終わったところだった。
ベストセンスは記者たちに囲まれながら出口へ向かい、そこでベルアマードを見つけた。
視線が交わる。
静かな時間だった。
周囲の喧騒だけが遠くに聞こえる。
ベストセンスがゆっくり近づいてくる。
その瞳は雨月賞の時と変わらず静かだった。
だが、その奥には燃えるような闘志が宿っている。
勝者としてここに立つ誇り。
そして再びベルアマードを打ち倒す覚悟。
ベストセンスが口を開こうとした。
しかし、その前にベルアマードが言った。
「今日はお前に勝つ。」
自然だった。
考えて出した言葉ではない。
胸の奥から、そのまま出てきた。
虚勢ではない。
怒りでもない。
ただ、今ここで伝えなければならないと思った。
ベストセンスはわずかに目を見開いた。
雨月賞で敗れたあの日。
何も返せなかったベルアマードとは違う。
負けを知り、恐怖を知り、それでも前へ進もうとしている男がそこにいた。
やがてベストセンスは小さく笑った。
「そう言うなら、走りで証明してみろ。」
そして真っ直ぐに言った。
「俺も負ける気はない。」
短い。
だが、それ以上の言葉は必要なかった。
ベルアマードは静かに頷いた。
その瞬間だった。
会場の奥から、ひときわ大きな声が響いた。
「It’s SHOW TIME!!」
歓声が爆発する。
ベルアマードとベストセンスが振り向く。
そこにいたのはルーレットショーだった。
まるで舞台俳優のように堂々と立ち、無数の視線を一身に集めている。
スポットライトなどない。
それでも彼だけが光って見えた。
「今日の芝も、風も、歓声も、全部僕の味方です!」
会場が沸く。
ルーレットショーはさらに続けた。
「今日、僕は憧れを超えてみせます!」
憧れ。
その言葉にベルアマードはふと過去を思い出した。
春時雨杯の前。
初めて会った日のこと。
ルーレットショーは屈託なく笑いながら言った。
――僕はアマルティアみたいに走ってみせます。
ベルアマードにとって母の名は重かった。
比較されるたび苦しくなった。
超えなければならない壁だった。
だがルーレットショーにとっては違う。
憧れだった。
追いかける光だった。
いつか届きたい夢だった。
そして今、その夢を超えると宣言している。
「皆さん!」
ルーレットショーは両手を広げた。
「伝説を超える最高のショーを見せます!」
歓声が競駆場を揺らした。
フラッシュが連続して光る。
観客たちは笑顔で叫び、記者たちは必死にシャッターを切る。
その中心でルーレットショーは心から楽しそうに笑っていた。
ベルアマードは黙ってその姿を見つめた。
ベストセンスは家族の無念を背負って走る。
ルーレットショーは憧れを超えるために走る。
では、自分は。
胸の奥に問いが浮かぶ。
母を超えるため。
自分の名を証明するため。
先頭の景色を取り戻すため。
どれも間違いではない。
だが、それだけではない気がした。
負けたまま終わりたくない。
逃げたまま終わりたくない。
怖さを知ったからこそ、前に立ちたい。
震えていてもいい。
格好悪くてもいい。
それでも前へ進みたい。
アマルティアとの特訓でも、まだ答えは見つからなかった。
けれど一つだけ分かっている。
もう逃げない。
「次、ベルアマードさん。お願いします。」
係員に呼ばれる。
ベルアマードはインタビュー会場へ足を踏み入れた。
熱気が肌を打つ。
ルーレットショーの宣言で会場は最高潮に達していた。
正直、やりづらい。
だが逃げる理由にはならない。
マイクが向けられる。
カメラが並ぶ。
無数の視線が集まる。
雨月賞で失った視線。
葉桜記念で少しだけ取り戻した視線。
そして今、日本クラウンという舞台で再び向けられる視線。
ベルアマードはその全てを受け止めた。
質問が飛ぶ。
雨月賞からどう立て直したのか。
葉桜記念で何を得たのか。
ベストセンスへの雪辱は。
ルーレットショーの宣言をどう思うか。
そして――
アマルティアの子として、日本クラウンをどう走るのか。
その言葉に胸がわずかに重くなる。
だが以前ほどではない。
アマルティアの子。
その事実は変わらない。
受け入れるにはまだ時間がかかる。
それでも否定し続けるだけでは前へ進めない。
ベルアマードは静かに息を吸った。
「俺は母じゃない。」
会場が静まる。
「父でもない。」
誰も言葉を挟まない。
ベルアマードは真っ直ぐ前を見た。
「でも、二人の子であることから逃げるつもりもない。」
一拍置く。
そして言った。
「今日は、俺の走りで勝つ。」
その瞬間、不思議と胸が軽くなった。
派手ではない。
会場を沸かせる言葉でもない。
誰かの心を震わせる名言でもないかもしれない。
それでも、それが今のベルアマードの本心だった。
記者たちがざわめく。
フラッシュが光る。
ベルアマードはそれ以上語らなかった。
深く一礼し、その場を後にする。
通路へ戻ると、再び歓声が聞こえてきた。
日本クラウンが始まる。
一生に一度の舞台。
恐怖から逃げるためではない。
怖くても前に立つための舞台。
ベルアマードは黒いユニフォームの胸元を握った。
鼓動が伝わる。
生きている。
戦える。
そして――勝ちたい。
遠くから大歓声が響いた。
その先にあるターフは、まるで運命そのもののように輝いて見えた。
ベルアマードは顔を上げる。
もう迷わない。
一歩。
また一歩。
未来へ向かうように。
日本クラウンの舞台へ向かって、力強く歩き出した。
通路を抜け、ベルアマードがターフに立った瞬間、世界が変わった。
葉桜記念で見た景色など、ただの序章だったのだと思い知らされる。
観客席は、果てまで人で埋め尽くされていた。
幾重にも重なる人の波。
風に翻る無数の旗。
空そのものを揺らすような歓声。
そのすべてが、生き物のように脈打っている。
雨月賞とも違う。
デザイアトロフィーとも違う。
同じGRであるはずなのに、熱気の密度が違った。
ここは日本クラウン。
競駆に人生を捧げた者たちが辿り着く頂。
勝者は伝説となり、敗者でさえ歴史の一頁になる。
その舞台の中心に、今、自分がいる。
ベルアマードは静かに息を吸った。
肺を満たした空気が熱い。
胸の奥には緊張がある。
怖さもある。
だが、その恐怖はもう自分を縛る鎖ではなかった。
怖い。
それでも進める。
怖いからこそ、前へ行く。
アマルティアとの特訓の日々が脳裏をよぎる。
何度も抜かれた。
何度も追い詰められた。
何度も心が折れそうになった。
それでも走った。
逃げなかった。
だから今、ここにいる。
最後の調整を終えた時、武田トレーナーが近づいてきた。
「練習通りに走ってこい。お前なら勝てる」
短い言葉だった。
だが、その一言には何百日もの積み重ねが詰まっていた。
ベルアマードは視線を落とし、自分の脚を見る。
この脚で負けた。
この脚で勝った。
この脚でここまで来た。
そして呟く。
「勝てるか」
弱音ではない。
願望でもない。
確かめたかった。
雨月賞で崩れた自分を越えられたのか。
葉桜記念の先へ進めたのか。
この日本クラウンで、本当に戦える存在になれたのか。
武田は即座に頷いた。
「ああ」
迷いのない声だった。
「今のお前は雨月賞の頃とは別人だ。走ることから逃げなかった。負けた理由を見つめ続けた。だから勝てる」
その言葉とともに、武田は背中を叩いた。
乾いた音が響く。
強くもなく、弱くもない。
送り出すための一撃。
ベルアマードは一度だけ振り返った。
武田の表情はいつも通り厳しい。
だが、その奥には揺るがない信頼があった。
「……行ってくる」
そして前を向く。
もう振り返らない。
係員の誘導で出走者たちがゲート前へ集まっていく。
ベストセンス。
静かな瞳の奥に鋭い闘志を宿している。
雨月賞の王者。
ベルアマードが最も意識する相手だった。
ルーレットショー。
観客の歓声を浴びながら、まるで祭りを楽しむように身体を弾ませている。
だが、その笑顔の裏にある勝負勘をベルアマードは知っていた。
レクルース。
相変わらずいやそうな顔をしている。
しかし葉桜記念で最後まで食らいついてきたあの末脚は、本物だ。
誰一人として侮れない。
全員が揃った。
その瞬間。
富士国立競駆場にファンファーレが鳴り響いた。
重厚で。
華麗で。
誇り高い。
日本クラウンだけに許された音色。
観客席から拍手が湧き上がる。
それは瞬く間に歓声へ変わり、巨大な渦となって競駆場全体を包み込んだ。
音が押し寄せる。
身体を震わせる。
鼓膜ではなく、骨に響く。
だがベルアマードは静かだった。
心の中心だけが、不思議なほど澄んでいる。
やがてファンファーレが終わる。
歓声が少しずつ収束していく。
数万人の視線が、一点へ集まる。
ゲート。
そこからすべてが始まる。
ベルアマードは自分の枠へ入った。
扉が閉まる。
外界が遠ざかる。
狭い空間。
前方の扉。
自分の呼吸音。
それだけ。
静寂の中で、過去が顔を出す。
雨月賞。
十三着。
期待を裏切った日。
迫ってくる後続の影。
何度も抜かれた特訓の日々。
胸の奥がざわつく。
弱かった自分が囁く。
本当に勝てるのか、と。
その時だった。
武田の声が蘇る。
練習通りに走ってこい。
お前なら勝てる。
ベルアマードはゆっくり息を吐いた。
恐怖は消えない。
消す必要もない。
怖いままでいい。
震えたままでいい。
それでも前へ出ればいい。
視線を扉へ向ける。
余計なものを捨てる。
見るのは未来だけだ。
静寂。
一秒が永遠のように伸びる。
そして――
ゲートが開いた。
ベルアマードは弾かれた矢のように飛び出した。
完璧だった。
迷いがない。
躊躇がない。
一歩目。
二歩目。
三歩目。
芝を掴む感触が鮮烈に伝わる。
身体が軽い。
風を切る。
誰よりも早く先頭へ躍り出る。
観客席が爆発した。
ベルアマードだ!
そんな歓声が聞こえた気がした。
背後ではベストセンスが即座に反応する。
無駄のない加速。
王者の走り。
ルーレットショーも続く。
レクルースも離れない。
だが先頭は譲らない。
ベルアマードだった。
以前の自分なら違った。
恐怖に追われるように飛ばしていた。
誰にも追いつかれない場所へ逃げようとしていた。
だが今は違う。
背中で後続を感じる。
ベストセンスの存在を感じる。
それでも焦らない。
無理に離さない。
呼吸を整える。
脚を溜める。
コーナーへの入り方を計算する。
長い直線を見据える。
富士国立競駆場という巨大なコースを、身体の中で描きながら走る。
美しい逃げだった。
勢いだけではない。
理性だけでもない。
経験と成長が形になった走り。
武田に教わったこと。
葉桜記念で得た感覚。
アマルティアとの地獄のような特訓。
そのすべてが今の一歩一歩に宿っている。
そしてベストセンスもまた強かった。
詰めすぎない。
離されない。
完璧な距離を保ちながら追ってくる。
まるで影だ。
ベルアマードが動けば動く。
ベルアマードが息を入れれば息を入れる。
王者は王者のまま、背後にいた。
二人は少しずつ後続を引き離していく。
ルーレットショーたちの集団が遠ざかる。
広大なコースの中で。
先頭のベルアマード。
追うベストセンス。
まるで二人だけが別のレースをしているようだった。
観客席の熱がさらに高まる。
逃げるベルアマード。
追うベストセンス。
雨月賞で交わらなかった二つの才能が、今、日本クラウンで真正面からぶつかろうとしている。
ベルアマードは前を見る。
まだ直線は遠い。
勝負は先だ。
だが確かなことが一つある。
もう逃げていない。
恐怖に追われて前へ出ているのではない。
自分の意志で先頭に立っている。
自分で選んだ場所にいる。
ベルアマードは芝を強く踏みしめた。
その一歩には、過去の敗北も、積み重ねた努力も、すべてが乗っていた。
そしてレースは、静かに牙を剥き始める。
本当の日本クラウンは、ここからだった。
レースは、ベルアマードを先頭に進んでいた。
そのすぐ後ろにベストセンス。
さらに離れて、ルーレットショー、レクルースたちを含む集団がまとまって続く。
大きな流れは変わらないまま、走者たちは向こう正面の短い直線へ入った。
後方の集団では、少しずつ動きが出始めていた。
外へ持ち出す者。
内の位置を取りに行く者。
早めに仕掛ける準備をする者。
日本クラウンの勝負どころが近づいていることを、誰もが感じていた。
だが、ベルアマードは動かない。
いや、動かされなかった。
先頭にいながら、彼は冷静だった。
後ろの気配を感じる。
ベストセンスの位置を測る。
コーナーへ向けて最短の進路を取る。
雨月賞の時のように、恐怖に押されて前へ飛ばすことはなかった。
葉桜記念の時よりも、さらに自然に、先頭でレースを作れていた。
富士国立競駆場の形。
長い直線。
短い向こう正面。
最後まで脚を残すためのコース取り。
すべてが頭ではなく、身体に入っている。
その後ろで、ベストセンスもまた隙を見せなかった。
無理には詰めない。
だが、決して離れない。
ベルアマードが作るペースに合わせながら、いつでも仕掛けられる位置を保っている。
逃げるベルアマード。
追うベストセンス。
二人の間には、張りつめた糸のような距離があった。
勝負が動いたのは、コーナーに入り、中盤へ差しかかった頃だった。
それまでベルアマードの背後に控えていたベストセンスが、静かに動き始めた。
一歩。
また一歩。
その距離が詰まる。
先ほどよりも、ずっと近い。
いつでも抜ける。
いつでも並べる。
そう言っているような圧が、背中から伝わってきた。
ベルアマードは、その気配を感じた。
胸の奥がわずかに締まる。
雪消雨賞の記憶。
雨月賞で飲み込まれた記憶。
横に並ばれ、前へ出られた時の感覚。
それらが一瞬、脳裏をよぎる。
だが、ベルアマードは焦らなかった。
ここで反応すれば、相手の思う壺だ。
つられてスピードを上げれば、最後の長い直線で脚を失う。
逃げるのではなく、前にいる。
怖くても、前にいる。
ベルアマードは耐えた。
ベストセンスの圧を背負ったまま、ペースを崩さない。
身体は反応したがっている。
早く行けと訴えている。
それでも、我慢した。
コーナーを抜ける。
視界が開く。
富士国立競駆場の長い最終直線が、目の前に広がった。
ここだ。
ベルアマードは、そこで初めてスピードを上げた。
溜めていた脚を解放する。
一気にではなく、しかし鋭く。
芝を蹴る力が、身体の中心から前へ抜けていく。
自分でも分かった。
良い。
今までで一番良いタイミングだった。
我慢した分、脚が残っている。
恐怖に押された加速ではない。
自分の意思で選んだスパートだった。
驚いたのは、ベストセンスだった。
ベルアマードは、ここまで脚を残していたのか。
ここから、これほど加速できるのか。
その一瞬の驚きが、わずかな差になった。
ベストセンスもすぐに反応する。
さすがに雨月賞の勝者だった。
遅れを取りながらも、必死に食らいつく。
だが、差は簡単には詰まらない。
ベルアマードは先頭を守っている。
観客席の歓声が一段と大きくなる。
逃げるベルアマード。
追うベストセンス。
誰もが、この二人で決まると思った。
雨月賞の勝者と、雨月賞で敗れた者。
その再戦が、日本クラウンの長い直線で決着する。
観客の視線も、実況の声も、二人へ集中していた。
その時だった。
後方の集団が、最終直線へ入った。
集団の外側。
大外。
そこにいた男は、まだ動いていないように見えた。
少なくとも、そう見えた。
前ではベルアマードとベストセンスが激しくやり合っている。
中団でも各馬が仕掛け始めている。
誰もが限界まで脚を使い始める中、その男だけが取り残されたように後方にいた。
届くはずがない。
そう思う位置だった。
残り距離を考えればなおさらだ。
実況も観客も、視線の中心には置いていなかった。
勝負は前だ。
誰もがそう信じていた。
だからこそ、その変化に気づくのが一瞬遅れた。
ルーレットショーが、踏み込んだ。
次の瞬間だった。
空気が裂けた。
そう錯覚するほどの加速だった。
速い、ではない。
異常だった。
まるで今まで流していた時間そのものを置き去りにして、突然別の速度域へ飛び込んだかのような加速。
一人。
また一人。
外から並ぶのではない。
追いつくのでもない。
消していく。
そこにいたはずの駆人たちが、景色のように後ろへ流れていく。
誰も反応できない。
誰も並べない。
位置取りも関係ない。
前に誰がいるかも関係ない。
ただ一直線に。
ただ圧倒的な脚力だけで。
ルーレットショーは集団を切り裂いていた。
観客席の歓声が変わった。
いや、悲鳴に近かった。
何かがおかしい。
そう感じた者たちの声だった。
ベルアマードにも、それは伝わった。
ベストセンスではない。
彼のすぐ後ろにいる圧とは違う。
横から迫るものでもない。
もっと遠く。
本来なら脅威になるはずのない距離。
だが、そのはずの存在が、信じられない速度で近づいてくる。
異様だった。
距離感が壊れる。
まだ後ろにいるはずなのに、もう近い。
まだ遠いはずなのに、存在感だけが先に迫ってくる。
その瞬間、ベルアマードの中で、古い記憶が浮かび上がった。
まだ幼かった頃。
テレビに映る自分の走りを見ながら、アマルティアが笑って言っていた。
『最後に全部抜くの。これが一番気持ちいいのよ。前にいる全員を、自分の脚で追い越していくの。誰が前にいようと関係ない。最後に私が一番前にいればいいのよ』
その時のベルアマードは、よく分からなかった。
速いなら、最初から前に行けばいい。
わざわざ後ろにいる理由が分からなかった。
だから父に憧れた。
最初から前にいる走り。
誰にも邪魔されない景色。
先頭を切り開く姿。
だが今。
長い直線の先頭で、ベルアマードは初めて理解しかけていた。
後ろから全てを飲み込む走り。
それがどれほど異質で、どれほど恐ろしいものなのかを。
アマルティアには何度も追われた。
風杜のグラウンドで、何度も抜かれた。
背中から迫る気配を感じ、怖さを抱えたまま走ることを学んだ。
だが、今後ろから迫るそれは、そのどれとも違っていた。
怖い。
確かに怖い。
けれど、それだけではなかった。
見たくないのに、見ずにはいられない。
振り向けば乱れる。
前だけを見ろ。
今は自分の走りを続けろ。
そう分かっている。
それでも、背後から迫る存在感が、視線を引きずろうとする。
ベルアマードは歯を食いしばった。
前だ。
前を見ろ。
自分は逃げている。
先頭にいる。
この直線を、自分の脚で走り切る。
だが、その気配はさらに近づいてきた。
歓声が膨れ上がる。
ざわめきではない。
熱狂だった。
誰もが見てしまったのだ。
後方にいたはずの一人が、常識ごと追い抜いてくる光景を。
ベストセンスも気づいたのか、わずかに空気が揺れた。
ベルアマードは、前を見たまま、背後の存在を感じる。
大外から来る。
信じられない速度で。
憧れを超えると宣言した男が。
最高のショーを見せると言った男が。
もはや追い上げではない。
後方から現れた災害のように。
直線そのものを支配する勢いで。
ルーレットショーが、迫っていた。
迫ってくるルーレットショーの勢いは、あまりにも凄まじかった。
直接見なくても分かる。
観客席の歓声が、どんどん変わっていく。
最初は驚きだった。
次にどよめきになった。
そして今は、熱狂へ変わっている。
その歓声が、背後から近づいてくる。
ルーレットショーが近づいている。
ベルアマードは歯を食いしばった。
並ばせない。
ここまで完璧に走ってきた。
雨月賞のように飛ばしすぎたわけではない。
葉桜記念のように慎重すぎたわけでもない。
ベストセンスの圧に耐え、最終直線まで脚を残し、自分の意思でスパートをかけた。
今の自分にできる、最高の逃げだった。
それを、ここで終わらせるわけにはいかない。
ベルアマードはさらにスピードを上げた。
ベストセンスを離すためではない。
ルーレットショーよりも速く、ゴールへ駆け抜けるためだった。
その意図は、ベストセンスにも伝わっていた。
彼もまた、速度を上げた。
ベルアマードを交わすためではない。
後ろから来るあの異様な脚に、追いつかれないためだった。
逃げるベルアマード。
追うベストセンス。
さらに外から襲いかかるルーレットショー。
日本クラウンの長い直線は、三人の戦いへ変わっていた。
ベルアマードとベストセンスの二人は、ここまで前で走ってきたとは思えないほどの速度で伸びていた。
普通なら止まってもおかしくない。
息が上がり、脚が鈍り、後ろに飲み込まれてもおかしくない。
だが、二人は止まらない。
ベルアマードは先頭を守る。
ベストセンスは食らいつく。
それぞれが、自分の持てるものをすべて使っていた。
しかし。
ルーレットショーは、その一つ上を行った。
大外から伸びるその脚は、二人の加速すら上回っていた。
距離が、縮まる。
あり得ない速さで。
観客席の声がさらに膨れ上がる。
ベルアマードは前を見ている。
見ているはずだった。
だが、横へ来る気配が分かった。
来た。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
ルーレットショーは、並ぶ間もなく抜き去った。
一瞬だった。
ベルアマードの視界の外側を、白い光のような影が走り抜けていく。
追う暇すらなかった。
抵抗する間もなかった。
ただ、抜かれた。
母に何度も抜かれた時とは違う。
ベストセンスに前へ出られた時とも違う。
それは、勝負の形をした何かではなく、直線そのものが自分の上を通り過ぎていったような感覚だった。
ルーレットショーが、先頭でゴールへ飛び込んだ。
その後、遅れてベルアマードがゴールを通過する。
さらにわずかに遅れて、ベストセンスが続いた。
終わった。
日本クラウンは、終わった。
勝ったのは、ルーレットショーだった。
ベルアマードはスピードを落としながら、荒い息を吐いた。
身体は限界に近い。
脚は重い。
胸も苦しい。
だが、雨月賞の時のような空白とは違った。
走り切った感覚はある。
出し切った感覚もある。
練習通りに走った。
耐えた。
仕掛けた。
最後まで止まらなかった。
それでも、負けた。
ゴール後、歓声は止まなかった。
むしろ、さらに大きくなっていく。
今日一番の歓声だった。
ベルアマードは息を整えながら、周囲を見渡した。
なぜ、ここまで歓声が大きいのか。
日本クラウンの勝者が決まったからか。
ルーレットショーが勝ったからか。
そう思った時、掲示板が目に入った。
赤い文字が浮かんでいた。
レコード。
一瞬、意味が分からなかった。
その直後、競駆場に実況の興奮した声が響き渡る。
日本クラウン、レコード更新。
長く破られることのなかった記録。
伝説の女王アマルティアが持つ、日本クラウンのレコードタイム。
それを、ルーレットショーが更新した。
ベルアマードは、息をするのを忘れた。
ルーレットショーが、掲示板を見上げていた。
彼は、しばらく動かなかった。
あれほど明るく、楽しそうに、舞台の中心で笑っていた男駆が、今はただ立ち尽くしている。
やがて、その頬を涙が伝った。
憧れを超える。
インタビューでそう言っていた。
それを、本当にやったのだ。
アマルティアに憧れた男が。
アマルティアのように走りたいと言った男が。
日本クラウンの舞台で、アマルティアの記録を超えた。
ベルアマードは、その光景から目を離せなかった。
その時、背中に声がかかった。
「……運がなかったな。」
武田トレーナーの声だった。
ベルアマードは振り返らなかった。
武田は続けた。
「お前のタイムも例年なら勝利だった。……アマルティアに並ぶくらいの。」
淡々とした声だった。
慰めようとしているのは分かった。
気にするなと言いたいのも分かった。
お前の走りは間違っていなかったと、そう伝えようとしているのも分かった。
だが、その言葉はベルアマードの胸に重く刺さった。
アマルティアに並ぶくらい。
それは、かつてのベルアマードなら喉から手が出るほど欲しかった評価だった。
母に並ぶ。
伝説に近づく。
ようやく、母の影に届く。
それほどの走りをした。
それでも、勝てなかった。
ベルアマードは、掲示板の赤い文字を見つめた。
「あいつは、母さんを超えたのか。」
声は小さかった。
問いというより、呟きだった。
武田は少しだけ間を置いた。
「……気にするな。お前の走りは良かった。」
良かった。
その言葉が、今日はひどく遠かった。
悪い走りなら、まだ理由を探せた。
雨月賞のように、壊れた走りなら、次へ向けて直せるものがあった。
だが今日は違う。
完璧に近かった。
今の自分にできる最高の逃げをした。
ベストセンスにも勝った。
雨月賞の自分を超えた。
葉桜記念の自分も超えた。
それでも、届かなかった。
越えるべき目標以上の走りをした相手がいた。
ルーレットショー。
憧れを超えるために走った男。
その男が、日本クラウンを制した。
ベルアマードは二着だった。
勝者ではない。
けれど、敗者と呼ぶにはあまりにも強く走った。
それが余計に苦しかった。
ベルアマードは、長い直線の先を見た。
そこには、先頭の景色があったはずだった。
今日は確かに、自分の意思で前にいた。
怖くても、逃げずに走れた。
けれど最後に、その景色を奪ったのは、母に憧れた男だった。
日本クラウン。
一生に一度の舞台。
ベルアマードは、完璧な逃げで敗れた。
第二部『奪われた景色』はここまでです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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第三部『風の先へ』も引き続き毎日20:10に更新します。




