一生一度の大舞台へ
葉桜記念を勝利し、ベルアマードは日本クラウンへの出走を決めた。
雨月賞十三着。
あの大敗は、ベルアマードの名前に重く残っていた。
だが、葉桜記念で見せた走りは、その印象を少しだけ変えた。
ただ前へ飛ばすだけではない。
後ろとの距離を測り、ペースを作り、長い直線まで脚を残す逃げ。
雨月賞の後に崩れたと思われていたベルアマードが、もう一度勝った。
しかも、日本クラウンと同じ舞台で。
世間の視線は、再び少しずつベルアマードへ戻り始めていた。
日本クラウンが近づくにつれ、出走者も決まり始めた。
雨月賞の勝者、ベストセンス。
アマルティアへの憧れを胸に追い込むルーレットショー。
そして葉桜記念で二着に入り、本人の意思とは関係なく出走権を手にしたレクルース。
顔ぶれは揃っていた。
雨月賞とは違う舞台で、もう一度ぶつかる。
ベルアマードは風杜のグラウンドに立ち、日本クラウンへ向けたトレーニングを進めていた。
葉桜記念を制したとはいえ、浮かれている余裕はなかった。
むしろ勝ったからこそ見えた課題がある。
あのレースでは逃げ切れた。だが、最後まで背後の気配は消えなかった。
直線で迫ってくる足音を感じるたびに、心のどこかがざわついていた。
日本クラウンはさらに厳しい戦いになる。
相手も舞台も、葉桜記念とは比べものにならない。
だからこそ、今のうちに弱さと向き合わなければならなかった。
トレーナーの練習内容は、明確に富士国立競駆場を意識したものだった。
長い直線で脚を残すためのペース作り。
コーナーを最短で曲がり、無駄な距離を走らない位置取り。
向こう正面の短い直線で焦らず、最後の勝負どころまで余力を保つ走り。
どれも理にかなっていた。
以前のベルアマードなら、そういう練習に苛立っていただろう。
逃げとは、前へ行くこと。
誰よりも速く、誰よりも遠くへ行くこと。
そう思っていた。
だが今は違う。
雨月賞で、彼は知ってしまった。
ただ先頭に立つだけでは勝てない。
最後まで前にいなければ、逃げ切りとは言えない。
だから、ベルアマードは練習に取り組んだ。
武田の言葉を聞き、何度もコース取りを確認し、ペースを身体に刻み込んだ。
それでも、胸の奥には消えない雲があった。
最後の長い直線。
日本クラウンの象徴とも言える、国内最長の直線。
そこを逃げ切らなければならない。
もし、そこで追われたら。
ルーレットショーのように、背後から一気に迫られたら。
ベストセンスのように、横に並ばれ、そのまま前へ出られたら。
レクルースのように、こちらのスパートに淡々とついてこられたら。
想像するだけで、胸が締めつけられた。
追われる怖さは、まだ消えていない。
葉桜記念には勝った。
だが、レクルースは最後までついてきた。
あの長い直線で、もう少し距離があればどうなっていたか分からない。
このままでは、日本クラウンでまた同じことが起きる。
どうすれば、追われることに慣れることが出来るのか。
どうすれば、背後から迫る気配を怖がらずに走れるのか。
考えた末に、ベルアマードの頭に浮かんだのは、一人の存在だった。
アマルティア。
伝説の女王。
最後の直線で全てを変えてきた駆人。
どれだけ前にいる相手でも、直線に入れば必ず射程に入れ、すべてを抜き去ってきた存在。
ベルアマードにとって、母はずっと壁だった。
母とは違う。
母のようには走らない。
自分は父のように、前で走る。
そう思ってきた。
だから、アマルティアに走りを教わることは避けてきた。
母に頼ることは、自分の逃げを否定するような気がしていた。
けれど今度ばかりは違う。
頼らなければ進めない。
背後から迫る最強の追い込みを知るなら、母以上の相手はいない。
ベルアマードは、そう決めた。
その日の午後。
アマルティアはグラウンドでベルフレアの指導をしていた。
「そうよ、フレア。いい感じよー。」
四月から正式に風杜寮へ入ったベルフレアは、本格的に競駆へ向けた練習を始めていた。まだ幼さは残っているが、走りには少しずつ形が出てきている。アマルティアが寄り添って教えていることもあり、数週間前よりずっと動きが良くなっていた。
ベルフレアは楽しそうに走っていた。
その走りには、どこかベルアマードに似たものがあった。
前へ行きたい。
先頭で走りたい。
そういう気持ちが、身体の動きに出ている。
アマルティアはそれを見ながら、少し複雑そうにしつつも、どこか嬉しそうだった。
「あら、アマードどうしたの?休憩?」
ベルアマードに気づいたアマルティアが声をかけた。
「まあ……そんなところ。」
ベルアマードは曖昧に答え、少し離れた場所に座った。
アマルティアはすぐにベルフレアへ視線を戻す。
「ふーん。あっ、フレア!腕、下がってるわよ。」
「はーい!」
ベルフレアが元気よく返事をし、また走り出す。
ベルアマードは、その様子を黙って見ていた。
アマルティアが誰かを指導している姿を見るのは、少し不思議だった。
現役時代の母は、誰にも止められない女王だった。
だが今は、ベルフレアの一歩一歩を見て、声をかけ、褒め、直している。
母親の顔だった。
寮長の顔だった。
「どう?フレア結構いい感じでしょ。まあ、あんたみたいに逃げに憧れてるみたいで悔しいんだけどね。」
アマルティアはベルフレアの走りを見ながら言った。
顔は見えなかった。
けれど、ベルアマードには分かった。
母は少し自慢げに笑っている。
そして、あえて自分のことには触れていない。
葉桜記念の勝利にも、日本クラウンにも、雨月賞にも。
何も言わないでいてくれている。
その気遣いが、今は少しだけ痛かった。
ベルアマードは立ち上がった。
「なあ、母さん。」
アマルティアは振り向かなかった。
「なに?なんか頼み事?」
まるで最初から分かっていたような声だった。
ベルアマードは一度、息を吸った。
喉が少し渇く。
今まで、何度も母の助言を拒んできた。
母のようには走らないと、背を向けてきた。
母に頼れば、自分の走りが負けるような気がしていた。
だが、今は違う。
勝つために必要だった。
日本クラウンで逃げ切るために。
追われる怖さを越えるために。
ベルアマードは声を絞り出した。
「……俺に特訓をつけて欲しい。」
アマルティアは黙った。
聞こえなかったわけではない。
ベルアマードには分かった。
母は、その言葉を受け止めている。
ベルアマードは続けた。
「今まで、母さんのアドバイスを聞こうとしなかったのに今更なんだけど。……ただ今度の日本クラウン、勝つ為に必要なんだ。だから、お願いします。」
そう言って、頭を下げた。
グラウンドに、短い沈黙が落ちた。
ベルフレアも走る足を止め、こちらを見ていた。
アマルティアは何も言わず、ベルアマードへ近づいた。
ベルアマードは頭を下げたまま、母の足音を聞いていた。
そして、頭に手が触れた。
軽く、優しく撫でられる。
「待ってたわよ。アマードが自分の意思で頼ってくれるのを。」
アマルティアの声は、思ったより静かだった。
「頼ってくれて本当に嬉しいわ。」
ベルアマードは顔を上げた。
アマルティアは笑っていた。
勝ち誇った顔ではない。
ようやく自分の言うことを聞いた、という顔でもない。
ただ、母として嬉しそうに笑っていた。
その表情に、ベルアマードは少しだけ言葉を失った。
アマルティアはすぐに背を向けた。
そして、空へ向かって両手を伸ばし、身体をほぐし始める。
「それじゃあ早速やりましょ!」
その声には、先ほどまでの柔らかさとは違うものが混じっていた。
現役時代の女王の気配。
「言っとくけど本気よ。本気の走りであんたのこと追うから、必ず逃げなさいよ。絶対に。」
ベルアマードの胸が、強く鳴った。
追われる。
今、自分が一番怖いこと。
だが、その相手は母だ。
最後の直線で、すべてを抜き去ってきたアマルティアだ。
これ以上の相手はいない。
ベルアマードは、アマルティアを見た。
逃げるために。
逃げ切るために。
もう一度、先頭の景色を自分のものにするために。
「ああ、絶対に逃げ切って見せる。」
その言葉に、アマルティアは満足そうに笑った。
「その意気よ。」
風杜のグラウンドに、少し強い風が吹いた。
ベルフレアが目を輝かせながら二人を見ている。
武田トレーナーも、少し離れた場所からこちらに気づいたようだった。
日本クラウンへ向けた、本当の特訓が始まろうとしていた。
最初の一本は、ほとんど勝負にならなかった。
ベルアマードはいつも通り、スタートから前へ出た。
風杜のグラウンドに引かれた直線。
日本クラウンを想定した、長く取られた最後の直線。
そこへ向かって、ベルアマードは先頭で入った。
だが、背後にはアマルティアがいた。
それだけで、空気が違った。
武田トレーナーや他の駆人に追われるのとは違う。
ルーレットショーの気配とも違う。
ベストセンスの圧とも違う。
背後から迫ってくるのは、伝説の女王だった。
現役を退いて久しいはずなのに、走り出した瞬間の気配は薄れていなかった。
足音は静かだった。
だが、確実に近づいてくる。
ベルアマードは最初、その音を振り払おうとした。
前へ。
もっと前へ。
捕まらない場所まで。
だが、その考えが浮かんだ瞬間、雨月賞の記憶が蘇った。
飛ばしすぎた先頭。
動かなくなった脚。
黒い波のように押し寄せた後続。
ベルアマードの呼吸が乱れる。
直線へ入ったところで、アマルティアの気配が一気に大きくなった。
来る。
そう思った。
次の瞬間、アマルティアは横にいた。
「はい、抜いた。」
軽い声だった。
そして、次の一歩で前へ出た。
ベルアマードは追おうとした。
だが、身体が反応しきれなかった。
走り終えた時、ベルアマードは膝に手をついて息を荒げていた。
アマルティアは少し先で止まり、振り返った。
「怖がりすぎ」
その一言に、ベルアマードは顔を上げた。
「……怖がってない」
「怖がってるわよ。後ろを感じた瞬間に身体が硬くなった。で、無理に前へ行こうとして呼吸が乱れた。あれじゃ本番ならまた潰れるわ」
容赦のない言葉だった。
だが、怒っているわけではなかった。
見たものを、そのまま言っているだけだった。
ベルアマードは言い返せなかった。
実際、その通りだったからだ。
アマルティアは腕を組み、少しだけ首を傾けた。
「追われるのが怖いのは悪いことじゃないわ。怖いから相手を感じられる。怖いから、余力を残そうとする。問題は、その怖さに走らされることよ」
ベルアマードは黙って聞いていた。
「今のあんたは、後ろに追われた瞬間、自分で走ってない。恐怖に押されて走ってる」
その言葉は、胸に刺さった。
雨月賞もそうだった。
春時雨杯もそうだった。
先頭に立っていたのに、走っていたのは自分の意思ではなかった。
追いつかれたくない。
抜かれたくない。
怖い。
その感情に脚を動かされていた。
アマルティアは、もう一度グラウンドの奥を指差した。
「もう一本」
ベルアマードは息を整えた。
「……分かった」
二本目。
ベルアマードは少しだけペースを抑えた。
最初から飛ばしすぎない。
直線まで脚を残す。
武田に教わったことを意識する。
背後にはアマルティアがいる。
気配は消えない。
むしろ、意識すればするほど大きく感じる。
それでも、ベルアマードはすぐには反応しなかった。
我慢する。
後ろが来る。
それでも、まだ動かない。
直線へ入る。
アマルティアの気配が近づく。
足音が変わる。
そこで、ベルアマードはようやく脚を使った。
だが、アマルティアはさらに速かった。
横に並ぶ。
抜く。
また前へ出られた。
ベルアマードは奥歯を噛んだ。
「もう一本」
今度はベルアマードの方から言った。
アマルティアは少しだけ笑った。
「いいわよ」
三本目。
四本目。
五本目。
何度走っても、アマルティアは直線で迫ってきた。
ベルアマードが早く動けば、最後に脚が鈍る。
待ちすぎれば、一瞬で横に並ばれる。
焦れば呼吸が乱れ、力めばフォームが崩れる。
そのたびに、アマルティアは短く指摘した。
「肩に力入りすぎ」
「そこで焦らない」
「後ろを見るんじゃなくて、感じなさい」
「怖いなら怖いまま走りなさい。消そうとするから乱れるのよ」
ベルアマードは、何度も抜かれた。
母に。
自分が越えようとしてきた存在に。
悔しかった。
だが、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
今までなら、母に抜かれることそのものが嫌だった。
母の強さを認めることが、自分の敗北のように感じていた。
けれど今は違った。
抜かれるたびに、自分の弱さがはっきり見える。
どこで焦るのか。
どこで怖くなるのか。
どこで脚を使いすぎるのか。
それが、少しずつ分かっていく。
夕方が近づく頃、ベルアマードの息は完全に上がっていた。
汗が額を流れ、足にも重さがある。
それでも彼は、グラウンドの先を見ていた。
アマルティアもさすがに少し息を弾ませていたが、表情にはまだ余裕があった。
「今日はここまで」
「まだやれる」
ベルアマードは即座に言った。
アマルティアは首を振った。
「やれるかどうかじゃないわ。明日も走るんでしょ。怪我したら意味がないわ。」
その言葉に、ベルアマードは黙った。
以前なら反発していたかもしれない。
だが、今は分かる。
無理に走ることと、勝つために走ることは違う。
アマルティアはベルアマードの横に立ち、同じ方向を見た。
「アマード」
「……なに」
「逃げるって、後ろを無視することじゃないわよ」
ベルアマードは顔を上げた。
アマルティアは続けた。
「誰よりも前にいるからこそ、後ろの全部を背負うの。視線も、足音も、期待も、恐怖も。その全部を受けて、それでも前にいる。それが逃げよ」
ベルアマードは黙っていた。
「ウインドベルは、後ろを見てなかった。でも、何も感じてなかったわけじゃない。全部感じたうえで、それでも前だけを選んでた。だから強かったのよ」
父の名前が出た瞬間、ベルアマードの胸が小さく揺れた。
父の走りは、ただ自由だったわけではない。
ただ気持ちよく前にいたわけではない。
あの背中も、何かを背負っていた。
その事実を、ベルアマードは初めて考えた。
アマルティアは軽く笑った。
「だから、あんたも選びなさい。怖いから逃げるのか。怖くても前にいるのか」
ベルアマードは、長い間答えられなかった。
けれど、視線は逸らさなかった。
グラウンドの向こうに、夕陽が落ち始めている。
風杜の芝が、赤く染まっていた。
やがて、ベルアマードは小さく言った。
「……分からない」
アマルティアは少しだけ目を細めた。
ベルアマードは続ける。
「前にいたいとは思う。でも、追われるのは怖い。直線で気配を感じると、今でも身体が勝手に反応する」
それは弱音だった。
だが、誤魔化しではなかった。
アマルティアは頷いた。
「なら、それでいいわ」
「え?」
「一日で消えるようなものなら、最初から苦労してないもの」
ベルアマードは言葉を失った。
アマルティアは肩をすくめる。
「今日分かったのは、自分が怖がってるってこと。それだけでも十分よ」
夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。
ベルアマードはグラウンドの先を見る。
追われる恐怖は、まだそこにある。
母に何度も抜かれた感覚も残っている。
直線で背後から迫られる気配を思い出すだけで、胸の奥がざわついた。
それでも。
以前のように、その恐怖から目を逸らしているわけではなかった。
ただ見つめている。
まだ答えは出ない。
克服したとも言えない。
けれど、日本クラウンは待ってくれない。
ベルアマードはゆっくり息を吐いた。
まずは走るしかない。
その先で何を選ぶのかは、まだ分からなかった。




