葉桜記念
雨月賞が終わっても、リュニークは終わらない。
一戦目を落とした者にも、まだ道は残されている。
二戦目、日本クラウン。
雨月賞とは違う舞台。
違う距離。
違う資質が問われる、三歳駆人にとってもう一つの頂。
ベルアマードは、その日本クラウンへ向かうことを決めた。
だが、出るためにはまず前哨戦を越えなければならない。
葉桜記念。
日本クラウンへの出走をかけた重要な一戦。
雨月賞で十三着に敗れたベルアマードにとって、そこはただの前哨戦ではなかった。
もう一度、自分が走れることを示す場所だった。
雨月賞のあと、しばらくベルアマードは言葉が少なくなった。
風杜へ戻っても、以前のように強く言い返すことはなかった。
誰かが励まそうとしても、短く返すだけだった。
ベルフレアが様子を見に来ても、少しだけ頷いて、すぐに視線を逸らした。
怒りよりも、空白があった。
自分は勝つはずだった。
母を超えるための一歩を踏み出すはずだった。
誰もいない先頭の景色を取り戻すはずだった。
だが、結果は十三着。
あの数字が、頭から離れなかった。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
このまま終われば、雨月賞の敗者として記憶される。
アマルティアの子として期待されながら、最初の舞台で崩れた駆人として語られる。
そんなものは認められない。
日本クラウンを勝つ。
すべての駆人が憧れるその舞台で勝てば、まだ取り戻せる。
母を超える道も、自分の名前で呼ばれる未来も、完全には消えていない。
ベルアマードは、そう思おうとした。
葉桜記念へ向けた練習が始まった。
だが、以前とは違っていた。
ベルアマードは、ただ闇雲に前へ行こうとはしなかった。
いや、できなかったと言った方が近い。
雨月賞で、自分の逃げは壊れた。
最初から飛ばしすぎれば、最後に飲み込まれる。
後ろを恐れて離そうとすれば、余計に脚を失う。
ただ前にいるだけでは、最後まで先頭でいられない。
それを、身体で知ってしまった。
だからこそ、ベルアマードは初めて、自分から武田トレーナーの元へ行った。
練習後のグラウンドだった。
武田が記録を確認しているところへ、ベルアマードは歩いていった。
しばらく何も言えずに立っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……教えてくれ」
武田は顔を上げた。
「何をだ」
ベルアマードは少し唇を噛んだ。
今までなら、こんなことは言わなかった。
自分の走りは自分が一番分かっている。
そう思ってきた。
だが、もうそれだけでは足りない。
「逃げ方を」
声は低かった。
「最後まで前にいるための、走り方を」
武田はすぐには答えなかった。
ただ、ベルアマードを見ていた。
雨月賞前なら、この言葉は絶対に出てこなかった。
ペースを抑えろと言えば反発し、周りを見ろと言えば怒った。
そのベルアマードが、自分から教えを求めている。
武田は記録用紙を閉じた。
「楽じゃないぞ」
「分かってる」
「今までのお前の理想とは、かなり違う走りになる」
ベルアマードの表情が一瞬だけ揺れた。
それでも、逃げなかった。
「それでもいい」
その言葉を聞いて、武田は短く頷いた。
そこから、ベルアマードの練習は変わった。
スタートから全力で飛ばす練習ではない。
先頭に立ったあと、どこで息を入れるか。
後続との差をどう使うか。
相手に追わせる位置をどう作るか。
直線まで脚を残すには、どの区間で我慢すべきか。
今までベルアマードが嫌ってきたことばかりだった。
後ろを見る。
周囲を測る。
ペースを落とす。
力を溜める。
それは、彼にとって先頭の景色を汚す行為に思えていた。
だが練習を重ねるうちに、ベルアマードは少しずつ理解し始める。
ただ先頭に立つだけでは足りない。
最後まで先頭でいるためには、速さだけではなく余裕も必要なのだと。
気持ちよく走る。
かつての自分は、それを求めていたのかもしれない。
誰もいない前を走る快感。
先頭の景色に酔う感覚。
だが、それだけでは勝てなかった。
雨月賞の直線で、すべてを失った。
ベルアマードは練習を重ねた。
最初はうまくいかなかった。
ペースを落とすと、後ろが怖くなる。
少しでも近づかれると、身体が勝手に前へ行こうとする。
我慢しろと言われても、胸の奥がざわつく。
それでも、走った。
何度も失敗し、何度も止められ、何度もやり直した。
以前なら怒っていた。
今でも苛立ちはあった。
だが、その苛立ちをすぐに吐き出して周囲へぶつけることはなくなっていた。
雨月賞の十三着が、ベルアマードから安易な自信を奪っていた。
そして、少しずつ走りは変わっていった。
スタートの鋭さは残っている。
前へ行く意志も消えていない。
だが、以前のように最初から燃え尽きるような逃げではなくなっていた。
先頭に立ち、息を入れる。
後ろの気配を感じながらも、すぐには反応しない。
直線まで脚を残す。
それは確かに、成長だった。
トレーナーたちも、武田も、その変化を認めていた。
葉桜記念を前にした最終調整で、ベルアマードは以前よりも明らかに安定した走りを見せた。
フォームは崩れず、最後まで脚が残っている。
ペースも乱れない。
走りとしては、確かに良くなっていた。
だが、ベルアマード自身はその走りを見つめながら、心の奥で別の感覚を抱いていた。
これは、誰の走りだ。
強くなっている。
勝つための形になっている。
武田の言うことも分かる。
だが、かつて自分が憧れた逃げとは遠い。
父のように、最初から誰もいない場所へ飛び出していく走り。
風を受け、迷いなく、ただ前へ進む走り。
自分が信じていた先頭の景色。
今の走りは、それとは違う。
勝つために整えられた逃げ。
後ろを測り、力を残し、相手を見ながら組み立てる逃げ。
それは必要なものだった。
だが、同時に、何かを失っていくようでもあった。
ベルアマードは、練習後のグラウンドに立ち、葉の落ちた桜の木を見上げた。
少し前まで咲いていた花は、もうほとんど残っていない。
枝には若い緑が増え、季節は次へ進んでいる。
自分も変わらなければならない。
そう分かっている。
だが、その変化が正しいのかどうか、まだ分からなかった。
葉桜記念は近い。
日本クラウンへ向かうための一戦。
雨月賞の悪夢を振り払うための一戦。
自分の名をもう一度取り戻すための一戦。
ベルアマードは拳を握った。
勝つ。
そう思った。
けれどその胸の奥で、先頭の景色だけが、まだ遠く霞んでいた。
葉桜記念当日。
例年より暖かい日が続いた影響で、競駆場へ続く道沿いの桜には、もうほとんど花が残っていなかった。
ついこの間まで淡い桃色に染まっていた枝は、今では若い緑に覆われている。
名の通りの葉桜だった。
葉桜記念。
日本クラウンの前哨戦として行われるこのレースは、距離も、舞台も、日本クラウン本番と同じだった。
富士国立競駆場。
日本競駆協会が、世界に誇れる舞台を目指して造り上げた競駆場である。
場内へ入ると、まず目に入るのは欧州の宮殿を思わせる内装だった。白を基調とした壁、深い色の柱、磨き上げられた床。観客を迎える広間には高級感があり、ただの競駆場ではなく、歴史ある劇場のような空気を持っている。
敷地内からは、日本の霊峰、富士山が見える。
さらに競駆の歴史を伝えるミュージアムも併設されており、古い名勝負や伝説の駆人たちの資料が展示されている。
そして、何より特徴的なのはコースだった。
最終直線は国内最長。
世界的に見ても長い部類に入る。
逃げる者にとっては、最後にどこまで脚を残せるかが問われる直線。
追い込む者にとっては、一気に形勢を変えることのできる直線。
さらに、向こう正面の直線は反対に短い。
上から見れば全体の形は台形に近く、富士山の形にも見えるとされる珍しいコースだった。
ベルアマードは、そんな富士国立競駆場の特徴を、武田トレーナーから何度も叩き込まれていた。
正面の長い直線から始まる。
そして最後には、もう一度その長い直線を駆け抜ける。
どこで先頭に立つのか。
どこで息を入れるのか。
どこで後続に脚を使わせるのか。
雨月賞の時のように、ただ前へ行くだけではこの直線は持たない。
ベルアマードはアップをしながら、武田の言葉を聞いていた。
「この競駆場は最後が長い。前へ行くなら、なおさら最初で使いすぎるな」
「分かってる」
そう答えながらも、ベルアマードは足元の感覚を確かめるように軽く走った。
雨月賞の次のレース。
あの十三着のあと、初めて迎える重要な一戦だった。
自分の走りを変え、勝利する。
もう一度、前へ進む。
その気持ちで、ベルアマードは葉桜記念へ臨んでいた。
その時だった。
「嫌です!走りたくないです!」
練習場に、場違いなほど大きな声が響いた。
ベルアマードは思わずそちらを見る。
「ここまで来て、またわがままを言うな!」
別の声が続く。
トレーナーらしき人物の声だった。
「だから!無理って言ってたじゃないですか!それなのに無理矢理に連れてきたんでしょ!僕は寮で今日は寝てるつもりだったんです!」
「無茶苦茶を言ってるんじゃない!」
静かにレース前の調整を進めていた駆人たちの空気が、一気に乱れた。
声の方を見ると、ジャージを着た駆人とトレーナーが激しく口論していた。
駆人の方は本気で嫌がっているように見える。腕を組み、足を踏ん張り、今にもその場から逃げ出しそうな顔をしていた。
周囲の走者たちも、ちらちらと視線を向けている。
『なあ、あのジャージって』
『やっぱりそうだよな、あれは』
周囲がざわつき始めた。
ベルアマードには、そのジャージに見覚えはなかった。だが、周囲の反応からして、ただの寮ではないらしい。
少し遅れて、武田トレーナーもその姿を確認した。
そして、珍しく驚いたような声を漏らした。
「驚いた。あの名門『関東優英』の子か。」
「関東優英って、ベストセンスと同じとこのか?」
ベルアマードが尋ねると、武田は頷いた。
「ああ、そうだ」
関東優英。
競駆界の寮の中でも、古くから優秀な駆人を育ててきた名門。
厳しい選抜と徹底した育成で知られ、数多くのGR勝者を輩出してきた場所だった。
ベストセンスも、その関東優英に所属している。
ベルアマードはもう一度、言い争っている駆人を見た。
名門の所属。
それも、日本クラウンの前哨戦に出てくるほどの駆人。
それなのに、目の前の彼はどう見ても走りたがっていなかった。
武田も、少し不思議そうに目を細めていた。
「ああ、そうだ。それにしても関東優英の子があんなに目立つとはなあ」
関東優英といえば、規律と結果を重んじる寮だと聞く。
そんな寮の駆人が、レース前の練習場で大声を上げて走りたくないと言っている。
それは、かなり異様な光景だった。
騒ぎはまだ続いていた。
「とにかく!今日のレースはお前に合ってるから参加させてるんだ、早くアップを進めろ!」
「たーかーら!無理だって!勝てるわけないじゃん!」
「いいから、やれ!」
声が練習場に響く。
周囲の駆人たちは困惑していた。
集中を削がれた者もいれば、呆れたように見る者もいる。
ベルアマードも、どう反応すればいいのか分からなかった。
ベストセンスは、家族の無念を背負って走っていた。
ルーレットショーは、一生に一度の舞台を楽しむように走っていた。
そして今度は、走りたくないと騒ぐ名門寮の駆人。
日本クラウンへ向かう道には、自分の知らない種類の駆人がまだいる。
そう思うと、ベルアマードの胸に小さな引っかかりが生まれた。
だが今は、それに気を取られている場合ではない。
葉桜記念は、日本クラウンへ進むための一戦。
雨月賞の悪夢を振り払うための一戦。
変わった自分の走りを、初めて本番で示す一戦。
ベルアマードは視線を戻した。
遠くには、富士山が見える。
長い直線。
日本クラウンと同じ舞台。
そして、まだ自分のものにしきれていない新しい逃げ。
ベルアマードは小さく息を吐き、もう一度芝を踏みしめた。
周囲の騒ぎを背に、レースへ向けた準備を進めていった。
レースへ向けた準備を終え、ベルアマードはターフへ出た。
そこでまず気づいたのは、空気の違いだった。
雨月賞の時とは違う。
観客席には空席が目立つ。
歓声もあるにはあるが、あの日のように競駆場全体を震わせるほどではない。
インタビュー会場もそうだった。
向けられるカメラの数は減っていた。
記者の数も、視線の熱も、雨月賞前とはまるで違っていた。
それが何を意味するのか、ベルアマードにも分かった。
雨月賞十三着。
あの敗戦の影響だった。
元々、自分自身に向けられていた注目ではなかったのかもしれない。
アマルティアの子。
ウインドベルの子。
二歳王者。
母を超えると宣言した駆人。
そういう肩書きに向けられた視線だった。
それでも、失ってみると胸に刺さった。
自分を見てほしいと願っていた。
親の名前ではなく、自分自身を見ろと思っていた。
なのに、実際に視線が離れると、そこには空白が残った。
ベルアマードは小さく息を吐き、最後の調整へ向かおうとした。
その時だった。
「あーあ、勝てるわけないのに。嫌だなー走るの。」
聞き覚えのある、やる気のない声がした。
振り向くと、先ほど練習場で大声を上げていた駆人と目が合った。
彼はベルアマードを見ると、少しだけ姿勢を正した。
「あ、どうも。ベルアマードさんですよね。初めまして。」
意外にも、深々と頭を下げた。
ベルアマードは足を止めた。
目の前の駆人は、ベルアマードより少し小柄だった。
肩にかかるほどの長い黒髪を、走るためにヘアピンでまとめている。前髪も長く、どこか気だるげな雰囲気があった。さっきまで走りたくないと騒いでいた姿と、今の礼儀正しい態度の落差が妙だった。
「って、初めましてだから僕のこと知らないですよね。レクルースって言います。今日はよろしくお願いします。」
「……ああ」
ベルアマードは短く返した。
レクルース。
名門、関東優英の駆人。
そう聞いていなければ、今の態度から強い相手だとは思えなかったかもしれない。
それほど彼は、どこか力の抜けた雰囲気をしていた。
レクルースはまた嫌そうに調整へ向かおうとした。
だが、ふと思い出したように振り返った。
「あ、そうだ。雨月賞の後、ベストセンスさんのやつめっちゃ怒ってましたよー」
ベルアマードの視線が止まった。
レクルースは少し笑いながら続けた。
「アイツはあんなんじゃない、不甲斐ない。本気のあいつに俺は勝ちたいんだ、って。大変っすねベルアマードさん。」
軽い口調だった。
けれど、その言葉はベルアマードの胸に深く刺さった。
雨月賞の十三着。
自分でも見たくないような負け方。
先頭の景色を失い、集団に飲み込まれ、何もできずに終わったレース。
それを見たベストセンスが、怒っていた。
失望ではなく。
無視でもなく。
嘲笑でもなく。
あれはお前じゃない、と。
本気のベルアマードに勝ちたい、と。
ベルアマードは、思わず拳を握った。
あんなレースをした自分を、まだ見ている奴がいる。
なら、その期待を裏切るわけにはいかない。
レクルースは言いたいことだけ言うと、また気だるそうに歩いていった。
まるで、自分の言葉がベルアマードに何を残したかなど、少しも気づいていないようだった。
やがて係員の指示があり、走者たちはゲートへ向かった。
ベルアマードはゲートに入る。
不思議と、狭さは感じなかった。
先ほどのレクルースの言葉が、胸の奥で熱を持っていた。
ベストセンスが見ている。
まだ、本気の自分を待っている。
それが、ベルアマードを少しだけ前へ向かせていた。
ゲートが開く。
ベルアマードは鋭く飛び出した。
スタートは良い。
長い正面直線へ入る頃には、すでに先頭に立っていた。
だが、今日はいつもとは違った。
以前なら、ここで後ろを見ずにペースを上げていた。
先頭の景色に酔い、誰も届かない場所へ行こうとしていた。
しかし今のベルアマードは、背中で後ろとの距離を測っていた。
怖くないわけではない。
後ろを見ることには、まだ抵抗がある。
追われる気配を感じれば、身体は勝手に前へ行こうとする。
それでも、彼はほんの少しだけ振り返り、距離を確かめた。
離しすぎない。
詰められすぎない。
後ろに脚を使わせる。
武田に叩き込まれた言葉を、一つずつ身体に落とし込む。
逃げている。
だが、以前のような思い切りはない。
丁寧だった。
慎重だった。
そして、苦しかった。
他の走者たちも戸惑っているようだった。
ベルアマードなら、迷わず飛ばす。
そう思っていた者たちは、今日の慎重な逃げに少し反応を遅らせた。
ベルアマードは先頭でペースを作った。
長い直線を使い、後ろとの距離を一定に保つ。
コーナーへ入る位置も考える。
向こう正面の短い直線でも無理に動かず、焦らず、脚を残す。
そして最後のコーナー。
ベルアマードは、そこで少しずつペースを上げ始めた。
一気にではない。
徐々に、確実に。
後続が少し離れていくのが分かる。
良いタイミングだった。
自分でもそう感じた。
長い最終直線が開ける。
富士国立競駆場の象徴とも言える、国内最長級の直線。
ここを走り切るために、ここまで脚を残してきた。
ベルアマードは風を切った。
ゴールへの景色が広がり始める。
このまま行ける。
そう思った時だった。
違和感があった。
ペースを上げている。
後続は離れているはずだった。
なのに、何かが近づいてくる。
ベルアマードは少しだけ後ろを確認した。
レクルースだった。
あの、走りたくないと騒いでいた男駆。
彼はベルアマードのスパートに驚くことなく、淡々とついてきていた。
ベルアマードは歯を食いしばった。
さらにペースを上げる。
だが、レクルースもついてくる。
引き離そうとすれば、同じだけ詰めてくる。
息を入れたつもりだった。
脚も残したつもりだった。
それでも、レクルースは離れない。
もうスタミナがない。
これ以上、スピードを上げられない。
そう感じた瞬間、ベルアマードの脚がわずかに鈍った。
だが、ゴールはもう目の前だった。
ベルアマードは最後の力で身体を押し出した。
そして、なんとか先頭でゴールを駆け抜けた。
勝利だった。
葉桜記念を勝った。
日本クラウンへの出走権を手に入れた。
だが、ゴール後のベルアマードはすぐに息を整えられなかった。
膝に手をつき、肩で呼吸をする。
今までとは違う疲労だった。
ただ飛ばした時の疲れではない。
後ろを見て、ペースを考え、位置を取り、最後まで脚を残そうとした疲れ。
頭も身体も使った分だけ、消耗が大きかった。
「はー、やっぱ勝てなかったなー。ベルアマードさんやっぱ強いですね。完敗ですよ。」
声をかけてきたのは、レクルースだった。
ベルアマードは顔を上げる。
レクルースは額に少し汗をかいている程度で、そこまで疲れているようには見えなかった。
さっきまでベルアマードを苦しめたとは思えないほど、いつもの気だるげな調子だった。
「褒められてるのか?俺は?」
「当たり前じゃないですか!日本クラウンに向けて調整が進んでいて、今の僕じゃ勝てなかったですよ。」
その顔に、嘘やお世辞はなかった。
本心で言っている。
だからこそ、ベルアマードは少しだけ言葉に詰まった。
「日本クラウン、頑張ってくださいね!」
レクルースはそう言って、軽く頭を下げた。
そして歩き出したが、すぐにトレーナーに肩を軽く叩かれ、何かを告げられたらしい。
次の瞬間、レクルースが驚いた顔で声を上げた。
「はあー!2着だから日本クラウンの優先権があるって、そんなの知らないですよ!なんであんな怪物達の戦いに加わらないといけないんですかー!言っときますけど、僕には合ってないですから!」
その声が、ゴール後のターフに響いた。
勝ったはずのベルアマードは、思わず黙ってその姿を見た。
葉桜記念には勝った。
日本クラウンへの道もつながった。
それなのに、なぜか締まらない。
ただ、その締まらなさの中で、ベルアマードは一つだけ確かに感じていた。
自分はまだ、走れる。
かつての理想とは違う形でも。
先頭の景色が少し遠く霞んでいても。
それでも、まだ前へ進むことはできる。
ベルアマードは長い直線の先を見た。
次は、日本クラウン。
そこで、もう一度自分の名前を示す。
その思いは、雨月賞の後よりも、ほんの少しだけ確かなものになっていた。




