真っ黒な濁流
雨月賞当日。
先週には満開だった桜が、少しずつ散り始めていた。
競駆場へ続く道には、淡い桃色の花びらが落ちている。枝にはまだ花が残っているが、その隙間からは若い緑が顔を出し始めていた。春が盛りを越え、次の季節へ移ろうとしている。
空には雲ひとつなかった。
雨月賞という名に反して、この日は雨の気配などまるでない。青く澄んだ空の下で太陽が輝き、東都競駆場のターフを明るく照らしていた。例年、雨に見舞われることも少なくないこのレースにしては、あまりにも整った天気だった。
その天気に誘われるように、東都競駆場には朝から多くの人が訪れていた。
一日に十ほどのレースが組まれている。
だが、この日ここへ来た者たちの目的は、ほとんど一つだった。
雨月賞。
三歳駆人にとって一生に一度のリュニーク、その第一戦。
今年のトリプルクラウン路線が、ここから本格的に始まる。
スタンドには早くから人が入り、通路にも熱気が満ちていた。新聞を片手に今年の有力駆人を語る者、ベルアマードの名を口にする者、ベストセンスの逆転を期待する者、ルーレットショーの末脚に夢を見る者。そこにある声のすべてが、この一戦へ向かっていた。
その喧騒とは対照的に、場内の練習場には静けさがあった。
もちろん、完全な無音ではない。
トレーナーの短い指示。
芝を踏む音。
息を整える音。
準備を進める係員たちの声。
それらはある。
だが、観客席の熱とは違う。
そこにあるのは、張り詰めた静けさだった。
一生に一度のレース。
憧れた舞台。
夢の舞台。
その目前に立って、緊張しない駆人などいない。
ベルアマードも、その一人だった。
いつも通りに身体を動かしている。
軽く走り、足元を確かめ、呼吸を整える。
武田トレーナーの指示にも頷く。
だが、心の中は穏やかではなかった。
首を振り、横を見る。
少し向こうでは、ベストセンスが調整を進めていた。
その動きは強かった。走る前のアップにしては、やり過ぎではないかと思うほどの勢いがある。だが乱れてはいない。一つ一つの動きに力があり、地面を踏むたびに、身体の奥から熱が立ち上がっているように見えた。
あれは、ただの準備ではない。
このレースに全てを賭けている者の熱だった。
ベルアマードは視線を反対側へ向ける。
そこには、ルーレットショーがいた。
彼はのびのびとストレッチをしていた。トレーナーらしき人物と何かを話しながら、笑っている。雨月賞が目前に迫っているというのに、その表情は硬くない。
緊張していないわけではないのだろう。
けれど、それよりも楽しみにしていることが伝わってきた。
一生に一度しか走れない舞台。
だからこそ、味わい尽くそうとしている。
そんな熱だった。
ルーレットショーと目が合った。
彼はこちらに気づくと、すぐに笑顔で手を振った。
その明るさに、ベルアマードはうまく返せなかった。小さく視線を逸らすだけになる。
ベストセンスは、燃え盛る炎のようだった。
熱すぎるほどに、一つの目的へ向かっている。
ルーレットショーは、太陽のようだった。
この舞台そのものを楽しみ、輝きながら走ろうとしている。
その二つの熱に挟まれ、ベルアマードは自分の胸の内を見失いかけていた。
自分は何を思っている。
このレースに、何を賭けている。
何のために走る。
母を超えるため。
自分の名前を呼ばせるため。
先頭の景色を取り戻すため。
どれも嘘ではない。
だが、そのどれもが、今はうまく身体に入ってこなかった。
考えが頭の中を巡る。
そのたびに、身体の動きが鈍る。
「おい、ベルアマード。大丈夫か」
不意に武田トレーナーの声が飛んだ。
ベルアマードは我に返る。
「……問題ない。」
そう答えた。
だが、自分の声が少し遅れて聞こえた。
頭の中は、まだはっきりとしていない。
ベストセンスの熱。
ルーレットショーの明るさ。
そして自分の中にある重さ。
それらが、まとわりついて離れなかった。
武田トレーナーはしばらくベルアマードを見ていたが、深く追及はしなかった。代わりに、肩へタオルをかける。
「そうか……そろそろ、インタビューの時間だぞ。」
その言葉で、ベルアマードはようやく時間を意識した。
もうそんな頃か。
彼は小さく頷き、控室へ向かった。
控室の空気は、練習場よりも静かだった。外の熱気も、スタンドの歓声も、ここまでは届かない。机の上には、ユニフォームが置かれていた。
黒を基調としたそれに、金色と水色が差し色として入っている。
装飾は少ない。
だが、その分、形の鋭さが目立つ。
ベルアマードは手を伸ばし、ユニフォームを取った。
重かった。
実際の重さではない。
そこに込められたものが、手の中に沈んでくるようだった。
父の期待。
母との比較。
風杜初のリュニーク出走。
そして、自分自身が言った「母を超える」という言葉。
ベルアマードは黙って着替えた。
ユニフォームを身につけ、鏡の前に立つ。
鏡の中には、黒いユニフォームを着た自分がいた。
思っていたよりも似合っていた。
そのことが、逆に胸に引っかかった。
昔、テレビで見た父の姿に似ている。
ウインドベル。
誰よりも前へ行き、風を受け、誰もいない景色を走っていた父。
あの時の父は、風のように軽く見えた。
どこまでも行けるように見えた。
誰にも縛られず、自分だけの景色を追っているように見えた。
自分も、そんなふうに走れるのだろうか。
背後を怖がらずに。
前だけを見て。
本当に、先頭の景色を取り戻せるのだろうか。
嫌な不安が胸をよぎる。
ベルアマードは首を振った。
考えるな。
今日は雨月賞だ。
一生に一度のリュニークの初戦だ。
ここで立ち止まるわけにはいかない。
ベルアマードは控室のドアを開けた。
廊下の向こうから、インタビュー会場のざわめきが聞こえてくる。
彼はユニフォームの襟元を軽く整え、歩き出した。
その足取りは、いつもよりわずかに重かった。
インタビュー会場は、普段とは異なる空気に包まれていた。
取材陣の数は多く、
向けられるカメラの台数も多い。
観客の視線や関係者たちのざわめきも、これまでベルアマードが経験してきたどのインタビューよりも濃密だった。
単に注目を集めているだけではない。
この競駆場全体が、雨月賞という一生に一度の舞台へ向けて緊張感に満ちていた。
ベルアマードが会場に到着した時、ちょうどベストセンスのインタビューが終了したところだった。
何を語ったのかまでは聞き取れなかった。
しかし、会場に残る熱気からおおよその内容は察することができた。
家族の無念。
怪物ハイセンスの子としての覚悟。
雨月賞に懸ける強い思い。
おそらく、そのような言葉を語ったのだろう。
会場から出てきたベストセンスと、ベルアマードの視線が交わった。
ベストセンスは足を止めた。
その瞳には、先ほどまでのインタビューの熱がなお宿っていた。静かな表情をしているにもかかわらず、その内側で何かが燃えていることが伝わってくる。
彼はベルアマードの前まで歩み寄った。
「……ベルアマード、お前には負けない。家族の無念を、俺が晴らす。」
その言葉は、真っ直ぐに胸へ届いた。
単なる挑発ではない。
そこには確かな視線があり、覚悟があり、背負うものの重みがあった。
ベルアマードは言い返したかった。
俺は俺の走りをする。
俺は母ではない。
自分らしく走り、母を超える。
そう言えばよかった。
しかし、言葉は出てこなかった。
ベストセンスは返答を待たなかった。
ただ一度ベルアマードを見つめると、そのままターフの方へ歩いていった。
その背中を、ベルアマードは黙って見送ることしかできなかった。
「次、ベルアマードさん。インタビューをお願いします。」
係員の声に促され、ベルアマードはようやく動き出した。
インタビューは、さらに大きな盛り上がりを見せた。
伝説の女王アマルティアの初子が、リュニークに挑む。
そこへ先ほどのベストセンスの発言も重なり、会場の熱気は一層高まっていた。
マイクが向けられる。
フラッシュが光る。
無数の視線がベルアマードへ注がれている。
しかし、飛んできた質問は結局いつもと変わらなかった。
アマルティアのこと。
ウインドベルのこと。
母から何を言われたのか。
父譲りの逃げで挑むのか。
ベルアマードは、その一つひとつを聞きながら、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
ここでも、まだ自分自身ではない。
ベストセンスは家族の無念を語った。
ルーレットショーはアマルティアへの憧れを率直に口にした。
では、自分は何を語ればよいのか。
母を超える。
自分の名を示す。
先頭の景色を取り戻す。
そのはずなのに、言葉にしようとすると、どれも軽く聞こえてしまいそうだった。
ベルアマードは短く息を吸った。
「俺は俺らしく走る。」
そう言っただけだった。
記者たちは次の言葉を待ったが、ベルアマードはそれ以上何も語らなかった。軽く一礼すると、その場を後にする。
背後ではざわめきが広がった。
しかし、振り返ることはなかった。
暗い通路を進む。
外から聞こえる歓声が少しずつ近づいてくる。
通路の先には光が見える。
その向こうにターフがある。
ベルアマードが足を踏み出すと、そこはまるで別世界だった。
観客席を埋め尽くす人々。
地鳴りのように響く歓声。
ターフに立つ走者たちの異様な緊張感。
そのすべてが、この舞台の大きさを物語っていた。
雨月賞。
一生に一度のリュニーク初戦。
ベルアマードはいつも通り準備を進めようとした。
足元を確かめる。
軽く身体を動かす。
呼吸を整える。
しかし、思うようにいかなかった。
この空気に慣れない。
観客の熱気が身体にまとわりつく。
先ほどのベストセンスの言葉が胸の奥に残っている。
家族の無念を、俺が晴らす。
その言葉は重かった。
自分は何を背負っているのか。
母を超えると言いながら、本当に何を見据えているのか。
先頭の景色を取り戻すことだけで、雨月賞を走れるのか。
考えがまとまらない。
その時、武田トレーナーが隣に立った。
「……ベルアマード、今日はペースを落として、落ち着いていこう」
ベルアマードは耳を疑った。
これまでも似たような提案を受けたことはある。
しかし最後には、自分の走りを尊重してくれた。好きなように前へ行かせてくれた。
それなのに、雨月賞直前になってその言葉を口にするのか。
ベルアマードは武田を見た。
「俺は俺らしく走る。」
「分かっている」
武田の声は落ち着いていた。
「だが今のお前は落ち着いていない。ペースを下げ、周囲を見ながらスピードを調整していけば――」
言い終わる前に、ベルアマードの中で何かが弾けた。
「うるさい! 俺は俺らしく走る、それで母を超えるんだ!」
声は思った以上に大きく響いた。
近くにいた関係者たちが、一瞬こちらを見る。
武田は黙った。
ベルアマード自身も、自分の声にわずかな驚きを覚えていた。
しかし、引き下がることはできなかった。
ここで落ち着けと言われることが怖かった。
ペースを下げろと言われることが、後ろを認めろと言われているように聞こえた。
周囲を見ろと言われることが、自分の逃げを捨てろと言われているように感じられた。
その時、係員から呼び出しが入った。
ゲートへ向かう時間だった。
ベルアマードは武田に背を向けた。
もう何も聞きたくなかった。
何かを聞けば、今の自分が揺らいでしまう気がした。
前だけを見る。
それだけでいい。
そう自分に言い聞かせながら、ベルアマードはゲートへ向かって歩き出した。
背中には武田の視線が残っていた。
しかし、振り返ることはなかった。
ゲートへ向かう道は、これまでのどのレースよりも長く感じられた。
ターフの上には、すでに出走者たちが集まり始めている。
観客席から降ってくる歓声は、波のようだった。ひとつの声として聞こえるのではなく、無数の期待と興奮が重なり合い、巨大な熱となってベルアマードの身体へぶつかってくる。
雨月賞。
この名を聞いて憧れなかった駆人はいない。
三歳になった者だけが、一生に一度だけ挑むことを許されるリュニークの初戦。
その舞台に、自分は立っている。
本来なら、胸が高鳴るはずだった。
幼い頃に父の走りを見て、いつか自分も先頭で走ると決めた。
二歳で頂点に立ち、最優秀二歳男駆となり、雪消雨賞で敗れはしたものの世代屈指の実力者としてここまで来た。
すべては、この先のためだった。
それなのに、今のベルアマードの胸には、熱よりも重さがあった。
ベストセンスの言葉。
ルーレットショーの背後から迫る気配。
武田トレーナーの声。
机の上に置かれていたユニフォームの重み。
それらが胸の奥で絡まり合い、ほどけないまま残っている。
ベルアマードはゲートの前に立った。
係員が一人ずつ誘導していく。
隣の走者が中へ入り、別の走者が深く息を吐く。
誰もがこの瞬間を待っていたはずなのに、誰も簡単には平静でいられない。
ファンファーレが鳴り響いた。
雨月賞のファンファーレは、デザイアトロフィーの時よりもさらに重く、厳かだった。
音が競駆場全体に広がると、観客席のざわめきが一瞬で引いていく。
全員の視線がゲートへ集まる。
ベルアマードは、黒いユニフォームの胸元を一度だけ握った。
父さんのように。
俺らしく。
母を超えるために。
そう思おうとした。
だが、胸の奥で別の声がした。
また、後ろから来たら。
その声を振り払うように、ベルアマードはゲートへ入った。
狭い。
春時雨杯の時にも感じた違和感が、また戻ってきた。
実際に狭くなったわけではない。だが、壁が近い。空気が薄い。前にあるわずかな隙間だけが、逃げ道のように見える。
違う。
逃げ道じゃない。
あそこは、自分が先頭へ出るための道だ。
ベルアマードは前を見据えた。
ゲートの中に、全員が収まる。
外の音が消えたように感じた。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
次の瞬間、ゲートが開いた。
ベルアマードは弾かれるように飛び出した。
完璧だった。
いや、完璧すぎた。
誰よりも早く狭いゲートから抜け出したいという思いが、そのまま身体を前へ押し出した。
最初の数歩で他の駆人たちを置き去りにし、あっという間に先頭へ立つ。
観客席がどよめいた。
ベルアマードはその声を背中で受けながら、さらに脚を伸ばした。
前には誰もいない。
そうだ。
これでいい。
自分は先頭にいる。
だが、その安心は一瞬だった。
もっと離さなければ。
もっと前へ。
誰も届かない場所まで。
ベルアマードはペースを上げた。
武田トレーナーの言葉など頭になかった。
レース全体の流れも、距離配分も考えられなかった。
ただ後ろが怖かった。
だから逃げた。
先頭を守るためではなく、追いつかれないために。
一歩、また一歩。
ベルアマードは必要以上に脚を使い続けた。
観客席は沸いていた。
王者候補が果敢に飛ばしているように見えたからだ。
だが、その逃げは明らかに速すぎた。
向こう正面に入っても勢いは落ちない。
いや、落とせない。
落とした瞬間に後ろが来る気がした。
背後ではベストセンスも、ルーレットショーも、他の駆人たちも冷静だった。
誰も無理には追わない。
ただ、自分たちのペースを守りながら前を見ている。
その一方で、ベルアマードだけが熱に呑まれていた。
中盤を過ぎる頃には呼吸が荒くなっていた。
胸が苦しい。
脚も少しずつ重くなっている。
それでも止まれない。
止まれば追いつかれる。
その恐怖だけが彼を走らせていた。
やがて最終コーナーが近づく。
そこで異変ははっきり現れた。
前へ進まない。
脚は動かしている。
だが、さっきまでの勢いがない。
身体が言うことを聞かない。
オーバーペースの代償だった。
ベルアマードは歯を食いしばる。
まだだ。
まだ先頭だ。
そう思った時だった。
後ろから足音が聞こえた。
最初は気のせいだと思った。
だが、その音は確実に近づいてくる。
いつものベルアマードなら振り向かない。
先頭を走る者が後ろを見る必要などない。
だが、その日は違った。
疲労か。
それとも胸の奥に積もっていた不安か。
ベルアマードは思わず振り向いてしまった。
そこにいたのはベストセンスだった。
もうすぐ背中に手が届きそうなほど近い。
そして、その後ろには集団がいた。
無数の駆人たちが一団となって迫ってくる。
黒い波のようだった。
ベルアマードの背筋が凍る。
来る。
追いつかれる。
逃げなければ。
ベルアマードは必死に脚へ力を込めた。
だが、速度は上がらない。
それどころか落ちていく。
身体が限界だった。
ベストセンスが並ぶ。
次の瞬間には前へ出る。
さらに別の駆人が横を通る。
また一人。
また一人。
ベルアマードは抵抗できなかった。
集団が押し寄せる。
内から。
外から。
次々と。
そして遂に、その波に飲み込まれた。
ベルアマードには、それが真っ黒な濁流に見えた。
息ができない。
前が見えない。
自分がどこにいるのかも分からない。
ただ黒い波の中で沈んでいくようだった。
気づけば、自分は先頭ではなかった。
前には何人もの背中がある。
ベストセンスの背中。
他の駆人たちの背中。
ベルアマードはそれを追うしかなかった。
必死に脚を動かす。
だが差は縮まらない。
観客席の歓声が遠い。
誰に向けられているのかも分からない。
ゴールだけが近づいてくる。
そしてベルアマードは何とかゴールを通過した。
勝負は終わっていた。
結果が表示される。
十三着。
王者となるはずの名は、その順位の中に沈んでいた。
足を緩める。
息が上がっている。
身体が熱い。
喉が乾いている。
だが、それ以上に、胸の中が空だった。
誰もいない景色は、どこにもなかった。
先頭の景色は、完全に消えていた。
ベルアマードは、ゴールの先で立ち尽くした。
観客席の歓声が、遅れて戻ってくる。
その中で、自分の名前は聞こえなかった。
ベルアマードの目の前には、信じられない景色が広がっていた。
結果を示す掲示板。
そこに並ぶ番号の中に、自分を示すものはない。
何度見ても、ない。
上位に名前はない。
称えられる場所に、自分はいない。
観客席からは、まだ大きな声が上がっていた。
だが、その声の中にベルアマードの名前はなかった。
呼ばれているのは、別の名だった。
ベストセンス。
怪物の子。
雨月賞を制した者。
家族の無念を晴らした者。
ベルアマードは、ぼんやりと視線を向けた。
ベストセンスがいた。
観客席の方へ歩き、そこにいる家族と喜び合っている。普段は静かな顔をしている彼が、ほんのわずかに表情を崩していた。周囲から祝福の声が飛ぶ。彼の名前が呼ばれる。拍手が重なる。
そのすべてが、ベルアマードには遠く見えた。
自分を呼ぶ声がない。
自分を見る視線がない。
自分を中心に回っていたはずの世界が、急に別の誰かへ流れていく。
まるで、この世界から自分だけが消えてしまったようだった。
ベルアマードは立ち尽くした。
ターフの上にいる。
たしかに、自分はここにいる。
足も、呼吸も、身体の熱もある。
それなのに、誰にも見えていないような気がした。
これは何だ。
この景色は何だ。
自分が見たかった景色ではない。
誰もいない前を走るはずだった。
最初にゴールへ飛び込むはずだった。
雨月賞を勝って、母を超えるための一歩にするはずだった。
なのに。
なぜ。
何で勝てなかった。
考えれば考えるほど、意識が遠のいていった。
観客席の声も、係員の動きも、周囲の駆人たちの気配も、すべてが膜の向こう側へ沈んでいく。
その時だった。
肩に、重さが触れた。
「戻るぞ。」
武田トレーナーの声だった。
短い言葉だった。
叱責ではない。
慰めでもない。
ただ、今ここから戻れと言う声だった。
ベルアマードは、ゆっくりと武田の方を見た。
武田は、それ以上何も言わなかった。
ベルアマードの肩を一度だけ叩くと、先に背を向けて歩き出した。
その背中を見た瞬間、ベルアマードはようやく現実を理解した。
負けた。
自分は、負けた。
十三着。
雨月賞で。
リュニークの初戦で。
母を超えると宣言した、その最初の舞台で。
ベルアマードは、何も言えないまま武田の後を追った。
競駆場を出るまで、武田トレーナーはベルアマードに何も言わなかった。
ペースをなぜ下げなかった。
なぜ周囲を見なかった。
なぜあれほど早く脚を使った。
なぜ、言った通りにしなかった。
言いたいことは、山ほどあったはずだった。
だが、武田はそれを口にしなかった。
ベルアマードがずっと言ってきたことを、彼は知っていた。
母を超える。
自分の名を示す。
先頭の景色を守る。
そのために走ってきたことも、雨月賞という舞台にどれだけ重い意味を置いていたかも、分かっていた。
だからこそ、今は言わなかった。
言えば、崩れる。
武田には、それが分かっていた。
帰りの車内も、ほとんど沈黙だった。
窓の外では、東都競駆場の人の流れが少しずつ遠ざかっていく。
まだ雨月賞の熱は街に残っている。
誰かが勝者の話をしている。
誰かがベストセンスの名を口にしている。
ベルアマードは、窓の外を見ていた。
景色は流れているのに、頭の中では掲示板の数字だけが止まっていた。
十三着。
何度も、何度も、その数字が浮かぶ。
一生に一度のリュニーク初戦。
憧れた舞台。
母を超えるための舞台。
自分の名を世界に刻むはずだった舞台。
それは、ベルアマードにとって悪夢のような結果で終わった。
先頭の景色は、もうどこにもなかった。




