雨月賞へ
雨月賞への出走が、正式に決まった。
春時雨杯を勝ち切ったことで、ベルアマードはリュニーク最初の一冠――雨月賞へ進む権利を手にした。
風杜にとって、それはただの一勝ではなかった。
風杜寮に所属する駆人が、初めてリュニークへ出る。
その事実は、風杜の空気を明るくした。翠子はいつもより少し忙しそうに動き、武田トレーナーたちは雨月賞へ向けた調整表を何度も見直していた。保護施設として風杜で暮らす子どもたちや職員たちも、新聞にベルアマードの名前が載るたびに、どこか誇らしげな顔をした。
寮生としては、まだベルアマードしかいない。
だが、春になればベルフレアも二人目の駆人として正式に風杜寮へ入ることが決まっていた。
ベルアマードにとっては妹であり、風杜にとっては次に競駆へ向かう子だった。
風杜には、喜びがあった。
新しい季節へ向かう気配があり、未来へ続く明るさがあった。
けれど、その中でベルアマードだけは、どこか取り残されていた。
春時雨杯には勝った。
雨の中、逃げ切った。
雨月賞への出走も決めた。
結果だけ見れば、敗戦から立て直したと言える。周囲が喜ぶのも当然だった。
だが、ベルアマードの胸には、勝利よりも先に残っているものがあった。
背後から迫る気配。
見れば抜かれると感じた瞬間。
先頭の景色を楽しむのではなく、後ろから逃げるように脚を動かした感覚。
それは、彼が信じてきた逃げではなかった。
先頭とは、自由な場所だったはずだ。
誰もいない前を、自分の脚で切り開く場所だったはずだ。
父が見ていた景色を、自分も見ているのだと信じられる場所だったはずだ。
それなのに、今は違う。
後ろが気になる。
追われることが、怖い。
ベルアマードは、その事実を認められなかった。
ある日の練習で、ベルアマードは雨月賞を想定したコースを何度も走っていた。
スタートの確認。
最初のコーナーへの入り方。
向こう正面での加速。
最後の直線へ入る角度。
本番と同じ距離に仕切られたグラウンドを、何度も、何度も駆ける。
本来なら、武田トレーナーたちはペースの抑え方やコース取りを教えたかった。だが、この頃のベルアマードは、ほとんど言うことを聞かなかった。
力を溜めろと言えば、表情を硬くする。
後ろを意識しろと言えば、明らかに不機嫌になる。
最後まで先頭でいるために必要なことだと説明しても、彼は耳を貸そうとしなかった。
無理に押さえ込めば、さらに反発する。
だからトレーナーたちは、ひとまず彼に合わせるしかなかった。
ベルアマードは走った。
先頭へ。
もっと前へ。
誰にも追いつかれない場所へ。
まるで、自分の中に残った何かを振り払うように。
ひと通りの練習を終え、休憩が入った。
ベルアマードはグラウンドの中央に立ち、最終直線を眺めていた。
そこは本番と同じ距離に仕切られている。
目の前には、まっすぐな直線が伸びていた。
何度見ても、そこに浮かぶのは二つの景色だった。
雪消雨賞。
ベストセンスが真横に現れ、そのまま前へ出た。
先頭の景色が、黒い影に塗り替えられた。
春時雨杯。
ルーレットショーの気配が背後から迫った。
振り返れなかった。
見れば抜かれると思った。
勝ったのに、怖かった。
ベルアマードは奥歯を噛んだ。
違う。
あれはたまたまだ。
自分の逃げは崩れていない。
自分は前を走れている。
そう思おうとしても、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
その時、不意に背後から声がした。
「お兄ちゃん、何見てるの?」
ベルフレアだった。
特別大きな声ではなかった。
いつもの声だった。
少し甘えるような、兄に構ってほしい時の声だった。
ベルフレアはいつものように、ベルアマードの背後から近づいてきた。じゃれつくように身体を掴もうと、手を伸ばす。
それは、何度もあったことだった。
いつものベルアマードなら、少し面倒そうに顔をしかめるだけだった。
軽く振り向いて、「やめろよ」と言うだけだった。
だが、その日は違った。
背後から声がした瞬間、ベルアマードの身体が反射的に動いた。
後ろにいる。
来る。
考えるより早く、身体が反応した。
気づいた時には、ベルフレアの手を強く振り払っていた。
「きゃっ……!」
小さな声が響いた。
ベルフレアが後ろによろめく。
一瞬、グラウンドの音が消えたように感じた。
ベルアマードは、自分の手を見た。
何をした。
何を、した。
次の瞬間、ベルフレアが大声で泣き出した。
その泣き声で、ようやく現実が戻ってきた。
振り払った。
妹を。
ただ、いつも通りにじゃれつこうとしただけのベルフレアを。
ベルアマードの指先が震えた。
謝らなければならない。
そう思った。
だが、その前に胸を満たしたのは、別の感情だった。
怖かった。
後ろに立たれることが。
背後から来られることが。
追われることが。
そんなはずがない。
自分は逃げ駆だ。
先頭を走る。
後ろなど見ない。
誰に追われても、前だけを見て走る。
そう信じてきた。
なのに、妹に後ろから触れられかけただけで、身体が勝手に動いた。
ベルフレアは泣いている。
トレーナーたちが慌てて駆け寄ってくる。
誰かがベルフレアの名前を呼ぶ。
誰かがベルアマードを見る。
その視線に耐えられなかった。
謝るべきだった。
駆け寄るべきだった。
大丈夫かと聞くべきだった。
分かっている。
だが、今のベルアマードには、自分の中に生まれた恐怖の方が大きかった。
彼は何も言わず、その場を離れた。
グラウンドを出て、自分の部屋へ向かった。
戸を閉めると、外の音が遠くなった。
ベルフレアの泣き声も、トレーナーたちの声も、壁の向こうで曖昧になっていく。
ベルアマードは部屋の中で立ち尽くした。
なぜ、あんなことをしたのか。
妹相手に。
ベルフレア相手に。
ただ声をかけられただけだった。
ただ後ろから近づいてきただけだった。
それなのに、自分は振り払った。
背後が怖いから。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ベルアマードは強く拳を握った。
違う。
怖いわけじゃない。
怖いはずがない。
けれど、春時雨杯の直線が蘇る。
背後から迫る気配。
ルーレットショーの足音。
見れば抜かれると思った感覚。
逃げなければ勝てないと感じた自分。
その記憶が、黒いもやのように胸の内側を覆っていた。
その時、部屋の戸が乱暴に開いた。
ベルアマードが顔を上げる。
立っていたのは、アマルティアだった。
「ちょっとベルアマード!あんたなにやってるのよ!ベルフレアに手をあげるなんて!」
怒りを隠していない声だった。
トレーナーやベルフレアから事情を聞き、急いで来たのだろう。
アマルティアは入口に立ったまま、ベルアマードを真正面から見ていた。
ベルアマードは視線を落とした。
「……反省してるよ。」
それは本心だった。
ベルフレアを泣かせたこと。
手を上げたこと。
悪いことをしたということ。
それは分かっていた。
だが、その反省の奥に、別のものが沈んでいた。
認めたくない恐怖。
母に見抜かれたくない弱さ。
今、何かを言われたら、自分の中の何かが壊れてしまいそうな感覚。
アマルティアは、すぐには次の言葉を出さなかった。
怒っている。
だが、それだけではない。
ベルアマードの様子がおかしいことも、きっと分かっている。
彼女は少し息を吐き、声を抑えた。
「……雨月賞が近くて、気が立っているのはわかるけど、周りに当たってはダメよ。それに……」
その先を、アマルティアは言おうとした。
おそらく、叱るだけでは終わらせるつもりはなかった。
ベルアマードの中にあるものに触れようとしていた。
けれど、ベルアマードにはその言葉が届かないようであった。
今は聞きたくない、そんな声が聞こえてくる。
母の声が、心配が、叱責が、すべて重かった。
「……聞いてる、ベルアマード?」
アマルティアの声が低くなる。
ベルアマードは顔を上げた。
「分かってるよ、母さん。……もういいだろ。」
自分で思ったよりも冷たい声だった。
アマルティアの表情が、一瞬止まった。
ベルアマードは立ち上がり、戸の方へ向かった。
追い出すように、アマルティアの横を通る。
これ以上、何も言われたくなかった。
これ以上、自分の中を見られたくなかった。
アマルティアは何かを言いかけた。
だが、その場では言葉にしなかった。
ベルアマードは戸を閉めた。
部屋の中に、静けさが戻る。
けれどその静けさは、先ほどよりもずっと重かった。
ベルフレアを泣かせた。
母を拒んだ。
それでも、背後への恐怖は消えない。
雨月賞は近い。
けれど、ベルアマードの中で、先頭の景色は少しずつ遠ざかっていた。
翌日、ベルアマードはベルフレアに謝った。
うまい言葉ではなかった。
部屋の前まで行き、何度か口を開きかけて、結局最初に出たのは小さな声だった。
「……昨日は、悪かった」
それだけだった。
謝罪と呼ぶには短く、不器用で、十分な説明もない。
なぜあんなことをしたのか。何を怖がっていたのか。ベルアマード自身にも整理できていない以上、言葉にできるはずがなかった。
それでも、ベルフレアには伝わったようだった。
まだ少しだけ戸惑った顔をしていた妹は、しばらくベルアマードを見上げていた。やがて、小さく頷いた。
その日から数日が過ぎた。
ベルフレアは少しずつ、いつもの調子を取り戻していった。
完全に何もなかったように、とはいかない。けれど、食堂で顔を合わせれば話しかけてくるようになり、廊下ですれ違えば以前と同じようにベルアマードの後ろをついてくることもあった。
ベルアマードも、表面上はいつも通りに戻ろうとしていた。
だが、狂い始めた歯車は、簡単には戻らなかった。
練習での調子は上がらない。
身体は動く。走れないわけではない。けれど、前のようにただ先頭の景色へ飛び込んでいく感覚がない。
走り出せば、背後が気になる。
誰かが来るのではないか。
また、あの黒い影が横に現れるのではないか。
また、直線であの足音が迫ってくるのではないか。
考えないようにすればするほど、意識は後ろへ引っ張られた。
ベルアマードは、なんとか練習をこなしていった。
武田トレーナーの指示にも、以前ほど強く噛みつくことは減った。だが、それは素直になったからではなかった。言い返すだけの熱が、少し鈍っていた。
雨月賞は近づいていた。
リュニーク初戦。
一生に一度の舞台。
母を超えるために、必ず勝たなければならないレース。
そのはずなのに、ベルアマードの胸の中では、期待よりも重さが増していった。
雨月賞への移動を翌日に控えた日。
ベルアマードは部屋で休もうとしていた。
練習は終わり、身体にも疲れが残っていた。明日からは競駆場近くへ入り、いよいよ本番に向けた準備が始まる。
その時、居間の方からアマルティアの声がした。
「あ、ほらベルアマード来なさい。」
ベルアマードは足を止めた。
少し迷ったが、無視するわけにもいかない。
廊下を歩き、居間へ向かう。
そこには、アマルティアがいた。
いつもより少しだけ機嫌が良さそうだった。
いや、隠しきれないほど浮かれていたと言ってもいい。
彼女の手には、服のようなものがあった。
「はい、あなたのユニフォームよ!」
そう言って、アマルティアはそれをベルアマードへ差し出した。
ベルアマードは受け取る。
黒を基調としたユニフォームだった。
余計な装飾は少ない。派手ではない。だが、全体の線は鋭く、差し色として入った金色と水色が、控えめながらもはっきりと目を引いた。
雨月賞という舞台に向かうための服。
ベルアマードは、しばらくそれを見つめた。
「……ユニフォーム。」
「そうよ。知ってるでしょ、3歳のGRからは寮のジャージじゃなくて、ユニフォーム付けて走る事。」
その話を聞きつけたのか、廊下を歩いていたベルフレアが勢いよく顔を出した。
「えー!これ、お兄ちゃんのユニフォーム!?カッコいいー!」
兄の初めてのユニフォームが嬉しいのだと分かる声だった。
アマルティアも嬉しそうに頷く。
「ね、そうでしょ!あなたに似合うわよ。絶対に。」
母と妹が、目の前で盛り上がっている。
ベルアマードは、その中にうまく入れなかった。
ただ、手の中のユニフォームを見つめる。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。
見覚えがある。
胸の奥の深いところに、何かが引っかかる。
誰が考えたのかは分からない。
だが、この黒。
この抑えた装飾。
差し色の入り方。
どこかで見た。
そう思った時、アマルティアが言った。
「そのユニフォームね、お父さんがデザインに少し関わってるの。」
ベルアマードは顔を上げた。
「父さんが?」
「そうよ。だからかな、どこか似てんのよね、あの人のユニフォームに。」
その言葉で、記憶がつながった。
子供の頃、テレビで見た父の姿。
スタートから飛び出し、誰もいない先頭を走り続けたウインドベル。
その背中。
その走り。
そして、画面越しに見たユニフォーム。
ベルアマードの走りの原点。
父のように走りたい。
誰よりも前へ行きたい。
先頭の景色を見たい。
そう思った日の記憶が、手の中の布に重なった。
急に、そのユニフォームが重く感じた。
ただの服ではなかった。
父の影がある。
母の期待がある。
風杜の初めてのリュニーク出走という意味がある。
自分だけのためのもののはずなのに、そこにはいくつもの思いが縫い込まれているようだった。
アマルティアは、そんなベルアマードの胸の内までは気づいていないようだった。
明るい顔のまま、少し強く言った。
「父さんも期待してるんだから、雨月賞頑張って!あなたは私たちの家族なんだから大丈夫よ。絶対に。」
家族。
期待。
大丈夫。
その言葉が、ベルアマードの胸に落ちた。
前なら、違ったかもしれない。
アマルティアの子。
ウインドベルの子。
そう呼ばれるたびに、反発心が燃えた。
母を超えてやる。
父の走りを自分のものにしてやる。
自分の名前を呼ばせてやる。
その怒りが、前へ行く力になっていた。
だが今は違った。
反発する力よりも、押し潰されそうな重さの方が大きかった。
母が期待している。
父も期待している。
風杜が期待している。
ベルフレアが目を輝かせている。
そのすべてが、自分の肩に乗ってくる。
ベルアマードは、手の中のユニフォームを握りしめた。
「……分かってる。」
それだけ言った。
アマルティアは少しだけ目を細めたが、すぐには何も言わなかった。
ベルフレアはまだユニフォームを見ていた。
「お兄ちゃん、これ着たら絶対速そう!」
ベルアマードは答えなかった。
そのまま、ユニフォームを抱えて部屋へ戻った。
廊下を歩く足音が、やけに重く響いた。
部屋に入ると、ベルアマードはユニフォームを机の上に置いた。
黒い布。
金色と水色の差し色。
父の面影を残す形。
それを見ていると、胸の奥が締めつけられた。
雨月賞は、もう目の前だった。
母を超えるための一歩。
自分の名前を刻むための舞台。
先頭の景色を取り戻すためのレース。
そのはずだった。
だが、ベルアマードは初めて、その舞台が怖いと思った。
誰もいないはずの前に、また誰かが現れたら。
背後から、また足音が迫ってきたら。
期待を背負ったまま、先頭の景色を失ったら。
ベルアマードは拳を握った。
違う。
怖くない。
自分は走れる。
自分は逃げ切れる。
自分は、母を超える。
何度もそう言い聞かせた。
けれど、机の上のユニフォームは黙ったまま、ただ重くそこにあった。




