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春時雨の追撃


 敗戦後、ベルアマードはすぐに次のレースを決めた。


春時雨杯。


雨月賞の前哨戦の中では最も大きなレースであり、三着までに優先出場権が与えられる重要な一戦だった。雪消雨賞を落としたベルアマードにとって、ここで結果を出せなければ雨月賞への道はさらに険しくなる。


だが、彼の頭にあったのは出走権だけではなかった。


あの景色を取り戻す。


誰もいない前。

自分だけが見ていたはずの先頭の景色。

それをベストセンスに奪われたままではいられなかった。


春時雨杯へ向けたトレーニングは、順調とは呼べなかった。


武田トレーナーは何度も、最後まで前にいるためには力の使いどころを考えろと言った。逃げることは、最初から全力で飛ばすことではない。相手の脚を使わせ、自分の脚を残し、最後まで先頭にいることだと。


しかし、ベルアマードは反発した。


それは自分の走りではない。


雪消雨賞で負けてから、彼はより強く自分の逃げにこだわるようになっていた。最初から全力で走り、誰にも前を渡さず、そのままゴールする。それ以外は、自分の逃げではない。力を抑えることなど、先頭を譲る準備にしか思えなかった。


「最後まで前にいるために、どこで使うか考えろ」


「それは自分の走りじゃない」


武田トレーナーとそんなやり取りを何度も繰り返しながら、ベルアマードは春時雨杯の日を迎えた。


その日は、二、三日続いていた春の陽気を隠すような曇り空だった。


厚い雲が空を覆い、陽射しはほとんど届かない。少し冬へ戻ったのかと錯覚するような冷たさが、競駆場の空気に混じっていた。天気予報では雨は降らないと言われていたが、春時雨杯が近づくにつれ、ぽつぽつと小さな雨粒が地面を濡らし始めた。


ベルアマードは、競駆場内の練習場で空を見上げていた。


初めての雨でのレース。


芝はいつもより重くなるかもしれない。足を取られるかもしれない。先頭で風を受けながら雨を受けることも、乾いた日とは違うはずだった。


それでも、ベルアマードは必要以上に怯えなかった。足元を確かめ、軽く走り、雨の芝に合わせて身体を整えていく。準備はできている。そう思えた頃、係員から呼び出しがあった。


レース前のインタビューの時間だった。


ベルアマードの表情は、あからさまに不機嫌になった。


どうせ聞かれるのは、自分のことではない。

またアマルティアの名前が出る。

ウインドベルの名前が出る。

自分の走りではなく、親の話になる。


今回も何も答えずに終えよう。


そう考えたところで、横から武田トレーナーが釘を刺した。


「何か一言は話せよ」


思考を読まれたような言葉に、ベルアマードは少しだけ眉を寄せた。


「……分かってる」


無愛想に返し、ベルアマードはインタビューの場へ向かった。


着いてみると、まだ前の走者のインタビューが終わっていなかった。ベルアマードは腕を組み、壁際で退屈そうに待つ。雨の湿った空気が通路にも入り込み、身体を冷やすようだった。


その時だった。


「僕はアマルティアみたいに走って見せます!」


その一言が、ベルアマードの耳を鋭く叩いた。


反射的に顔を上げる。


インタビューを受けていたのは、少し長い黒髪を後ろで結んだ男駆だった。背丈は低い方で、後ろ姿だけなら女駆にも見える。顔立ちもどこか柔らかく、線の細い印象があった。


だが、インタビューを終えて振り向いたその顔は、思ったより凛々しかった。柔らかさの中に、はっきりとした芯がある。


その男駆は、ベルアマードに気づくと、ぱっと表情を明るくした。


「君、ベルアマードでしょ!デザイアトロフィーは気持ちの良い逃げだったよ!」


快活な声だった。


勢いよく距離を詰められ、ベルアマードは少し返事に詰まった。敵意も探るような視線もない。ただ純粋に、見た走りを褒めているようだった。


「ああ、えっと、ありがとう?」


自分でも少し間の抜けた返事になったと思った。


しかし、相手はまったく気にしなかった。


「僕はルーレットショー。よろしくね!」


そう言って、手を差し出してくる。


ベルアマードはその勢いに押されるように手を出した。すると、見た目よりずっと強い力で握られた。


ルーレットショー。


アマルティアみたいに走ると言った男駆。


ベルアマードにとって、母の名は重かった。自分を覆い、比べられ、越えなければならないものだった。


だが、ルーレットショーは違う。


彼はアマルティアの名を、まっすぐな憧れとして口にしていた。


その違いに、ベルアマードは戸惑った。

けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


係員がベルアマードの名を呼ぶ。


ルーレットショーは握った手を離し、明るく笑った。


「じゃあ、また後でね!」


そう言って、小走りでターフの方へ向かっていく。


ベルアマードは、その背中を少しだけ見送った。


怪物の子、ベストセンス。

そして、母に憧れるルーレットショー。


リュニークには、自分とは違う形で何かを背負う者たちがいる。


ベルアマードは小さく息を吐き、インタビューの場へ進んだ。


細い雨は、まだ競駆場を濡らしていた。


 インタビューを終え、ベルアマードはターフへと向かった。


武田トレーナーに釘を刺されていたこともあり、ベルアマードは一応、質問には答えた。


『今日の走りについて、意気込みを聞かせてください』


そう問われたベルアマードは、記者たちを一度だけ見回した。


また母の名前が出るのだろう。

また父の走りを聞かれるのだろう。


そう思っていたが、今回は最初の質問だけは自分自身へ向けられていた。


だから、短く答えた。


「俺らしく走ります。」


それだけだった。


記者たちは一瞬だけ反応を待ったが、ベルアマードはそれ以上何も話す気がなかった。追加の質問を受ける前に、軽く頭を下げ、その場を離れる。


周囲も、もうベルアマードの性格をある程度理解していた。

無愛想。

言葉が少ない。

機嫌を損ねると何も答えない。

だが、走れば強い。


そんな評価が、少しずつ定着し始めていた。


だから、この短い受け答えにも大きなどよめきは起こらなかった。いつも通りのベルアマードだと、記者たちはそれぞれの表情で納得していく。


武田トレーナーは、通路の脇で待っていた。


「一言は話したな」


「…………約束は守った」


武田はため息をついたが、それ以上は言わなかった。


ベルアマードはそのまま、地下歩道へ向かった。


薄暗い通路の中には、雨の匂いが入り込んでいた。外の音は少し遠い。観客の声も、雨がターフを叩く音も、壁を通してぼんやりと聞こえてくる。


そして、通路を抜けた瞬間、雨が身体に触れた。


先ほどよりも、雨足は強まっていた。


細い雨ではある。

だが、確実に芝を濡らし、空気を重くしている。髪にまとわりつき、肩を冷やし、肌に冷たい粒を残していく。


ベルアマードはターフに足を踏み入れた。


芝の感触が違う。


乾いた日のような軽さはなかった。踏み込めば、わずかに沈む。足を抜く時にも、いつもより力がいる。雨に濡れた芝は、静かに走者たちの脚を削るようだった。


他の走者たちも、最終調整を進めていた。


だが、誰もが少しやりづらそうだった。

身体を動かしても温まりにくい。

足元の反発が鈍い。

雨粒が顔に当たり、視界を邪魔する。


小さく首を振る者。

何度も芝を踏み直す者。

トレーナーに不安そうな視線を向ける者。


春時雨杯という名にふさわしい空だった。


ベルアマードは、雨に濡れた芝に足を取られないよう、念入りに身体を動かした。


軽く走る。

止まる。

踏み込む。

もう一度、走る。


脚の入り方を確かめる。

どこまで力を入れれば滑らないか。

どの角度で踏めば、前へ出られるか。


こんな雨に負けていられない。


ここで勝たなければならない。

ここであの景色を取り戻さなければならない。


そうでなければ、雨月賞はどうなる。

リュニークはどうなる。

母を超えるという言葉は、何になる。


嫌な想像ばかりが浮かび上がった。


雪消雨賞の直線。

前に出たベストセンスの黒い背中。

追っても届かなかった景色。


その記憶を沈めるように、ベルアマードはさらに身体を動かした。


雨に濡れた身体が、少しずつ熱を持ち始める。呼吸が整い、足の感覚も掴めてきた。重い芝でも、走れないわけではない。前へ行ける。先頭に立てる。


そう自分に言い聞かせた頃、係員から声がかかった。


レースの時間だった。


出走者たちはゲート前へ移動していく。


ベルアマードもその流れに加わり、係員の誘導を待った。


その間、ふと視界に入ったものがあった。


ルーレットショーだった。


雨を嫌がる走者たちが多い中で、彼だけは違って見えた。


濡れた黒髪を後ろで結び、細い雨を受けながらも、どこか楽しそうに立っている。雨粒が髪や頬を濡らしているのに、それすら光を弾くもののように見えた。


係員に声をかけられると、ルーレットショーは張りのある声で返事をした。


「はい!」


案内を受けた後には、誘導員へ礼儀正しく頭を下げる。


その所作は軽やかだった。


無理に作っているわけではない。

自然にそうしている。

周囲に向ける表情も、声も、姿勢も、どこか明るい。


ベルアマードはそれを見て、わずかに眉を寄せた。


自分にはできない。


ああいうふうに笑うことも、礼儀正しく周囲へ応じることも、雨の中で軽やかに振る舞うことも。


同じアマルティアの名に関わる者でも、ここまで違うのか。


そう思った。


やがて、ベルアマードの名前が呼ばれた。


彼は短く返事をすることもなく、軽く頷いただけだった。


誘導員に向かって礼をするでもなく、いつものように無愛想な顔でゲートへ向かう。


雨が肩に落ちる。

芝が足元で湿っている。

観客席の声が、雨音に混じって響いている。


ベルアマードはゲートの前に立った。


この雨でも関係ない。


ルーレットショーがどれだけ明るく振る舞おうと関係ない。

ベストセンスに負けた記憶が残っていようと関係ない。


自分は前へ行く。


あの景色を取り戻す。


係員の誘導に従い、ベルアマードはゲートへ入った。


狭い空間の中で、雨音が遠くなる。


残ったのは、自分の呼吸と、胸の奥にある焦りに似た熱だけだった。


 ゲートに入ると、外の雨音が少し遠くなった。


狭い空間の中で、ベルアマードは前だけを見ていた。

胸の奥には、燃えるような熱があった。


先頭の景色を取り戻す。


雪消雨賞で奪われた、自分だけの景色。

誰もいない前。

風を受ける場所。

ゴールへ最初に向かう場所。


それを、今日取り返す。


ベルアマードは呼吸を整えようとした。だが、集中しようとすればするほど、妙な違和感が生まれていく。


ゲートが狭い。


そんなはずはなかった。練習でも、レースでも、何度も入ってきた場所だ。大きさが変わったわけではない。けれど今日は、壁が近いように感じる。空気が重い。雨の湿り気まで中に入り込んで、身体にまとわりついてくるようだった。


ベルアマードは小さく首を振った。


違う。

今はそんなことを考える時じゃない。


意識を前へ向ける。


このレースでは、絶対に先頭を譲らない。


やがて、合図が来た。


ゲートが開く。


ベルアマードは、いつものように飛び出した。


スタートは良かった。足元は雨で重い。それでも、身体はしっかり前へ出た。濡れた芝を蹴り、数歩で集団の前へ出る。周囲の走者たちが位置を取ろうと動くより早く、ベルアマードは先頭に立った。


いつもの位置。


目の前には誰もいない。


ベルアマードの胸に、熱が戻る。


この景色だ。


これを見続けて、ゴールまで走り抜ける。

前の敗戦の記憶を塗りつぶすように、ベルアマードは雨のターフを進んでいった。


一度走り始めると、身体はよく動いた。重い芝にもすぐ慣れ、踏み込みも悪くない。雨粒が顔に当たり、髪を濡らし、服を冷たくしていく。それでもベルアマードは、構わずスピードを上げていった。


これだ。


この走りだ。


雪消雨賞の時のような、背後に張りつく嫌な気配はない。先頭の景色は守られている。誰も自分の前にはいない。


ベルアマードは、さらに調子を上げていった。


濡れたターフの上を、逃げる。

いや、彼の感覚では逃げているのではない。

前へ行っている。


誰よりも先に、ゴールへ向かっている。


中盤を越えても、ベルアマードは大きく崩れなかった。武田トレーナーに言われていたことをすべて守れているわけではない。力の使いどころを考えるというより、先頭を離さないことに意識が向いている。


それでも、脚は動いていた。


最終コーナーが近づく。


後ろを見る必要はない。


誰もいない前を駆け抜ける感覚が、ただ気持ちよかった。コーナーを回る途中、横目に観客席が見えた。声が上がっている。盛り上がっている。後ろとの差があるからこその声だと、ベルアマードにも分かった。


このまま行ける。


そう思った。


コーナーを回り切り、最後の直線に入る。


前には誰もいない。

ゴールが見える。


あとは、あそこまで走り切るだけだった。


景色が後ろへ流れていく。

濡れた芝が足元で跳ねる。

観客の声が雨音と混ざり、遠くから近くへ押し寄せてくる。


ベルアマードはスピードを落とさなかった。


このまま勝つ。


そう思った、その時だった。


背後に気配が生まれた。


ぞくりと、背中が冷えた。


雪消雨賞の時と似ていた。

だが、同じではない。


あの時は、ずっと後ろに張りつかれているような気配だった。今回は違う。遠くから、ものすごい勢いで近づいてくる。


一歩ごとに詰められている。


自分が一歩で進む距離を、相手はそれ以上の速さで削っている。


ベルアマードは、後ろを見られなかった。


プライドで見ないのではない。


見れば、きっと抜かれる。


そう思った。


初めてだった。


後ろが怖い。


背後の気配を振り払うために、ベルアマードはさらに脚を動かした。逃げなければ勝てない。そんな想像が頭をよぎる。


逃げる。


その言葉が、初めて自分の走りに絡みついた。


それでも、ベルアマードは前へ出た。

必死に、ゴールだけを見て走った。


そして、ゴールを駆け抜けた。


ほんのわずか後。


ルーレットショーがゴールした。


ベルアマードの感覚は正しかった。


最後の直線、ルーレットショーは凄まじい勢いで追い込んできていた。あと少し。ほんの少し直線が長ければ、結果は変わっていたかもしれない。


それでも、結果はベルアマードの勝利だった。


春時雨杯、勝利。


雨月賞への出走が決まった。


観客席から歓声が上がる。

敗戦からの復活を称える声。

雨の中での逃げ切りを讃える声。

雨月賞出走確定を祝う声。


ベルアマードは勝った。


だが、胸の中には勝利の熱がなかった。


あるのは、背後から迫ってきた気配の残像だった。


初めてだった。


後ろが怖かったのは。


先頭の景色を楽しむためではなく、背後の気配から逃げるために走ったのは初めてだった。


勝ったのに、ベルアマードの中で何かが揺れていた。


その時、不意に後ろから声がした。


「やっぱり凄い走りだね!雨でも関係ない走り。流石だよ。」


振り向くと、そこにはルーレットショーがいた。


結んでいた黒髪を解き、息を弾ませながらも、表情は明るかった。負けたはずなのに、その顔には沈んだ色がほとんどない。


「あと少しで君に勝てたんだけどなあ。悔しけど、でも次は勝ってみせるよ!」


そう言って、ルーレットショーは手を差し出した。


ベルアマードは、その手を見た。


勝ったのは自分だ。


それは事実だった。


けれど、頭の中には別の考えが浮かんでいた。


もし雨じゃなかったら。

もし直線がもう少し長かったら。

もし距離が少しでも違っていたら。


ルーレットショーに差されていたのではないか。


ベルアマードは、すぐに手を取れなかった。


ルーレットショーが、不思議そうにこちらを見ている。


その視線に気づいた瞬間、ベルアマードは胸の内を見透かされたような気がした。


こんな気持ちを知られたくない。


ベルアマードは急いで手を伸ばし、ルーレットショーの手を握った。


ルーレットショーは、握手に応じてもらえたことが嬉しかったのか、満足そうに笑った。


その笑顔は、やはりどこか眩しかった。


彼は上機嫌に背を向け、去り際に振り返る。


「雨月賞楽しみだね」


その言葉に、ベルアマードは答えられなかった。


頷くこともできなかった。


雨の中、観客の歓声はまだ続いている。


ベルアマードは勝った。


勝ったはずだった。


けれど、先頭の景色はもう、以前と同じものではなくなっていた。

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