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奪われた先頭

 陽は高く上がり、やがてゆっくりと傾き始めた。


朝のうちはまだ冷たさを残していた空気も、昼を過ぎる頃には少しだけ柔らかくなっていた。東都競駆場の上に広がる空は薄く晴れ、雲の切れ間から差す光がターフを照らしている。雪解けの季節らしく、風にはまだ湿り気があり、冬と春の境目にいることを思わせた。


時間が進むにつれ、競駆場の人の数は増えていった。


最初はまばらだったスタンドも、雪消雨賞が近づく頃には席が埋まり始めた。通路には立ち見の観客が増え、売店の前にも列ができている。まだGRほどの大観衆ではない。春や秋の最盛期に比べれば、空席もある。


それでも、今日の雪消雨賞はいつもとは違っていた。


リュニーク最初の前哨戦。

雨月賞へ最も早く名乗りを上げる者を決める一戦。

そして何より、世間が煽った言葉があった。


二世対決。


伝説の女王アマルティアの子、ベルアマード。

怪物ハイセンスの子、ベストセンス。


その対決を見ようと、多くの競駆ファンが東都競駆場へ集まっていた。


やがて、出走者たちがターフへ姿を見せ始める。


ベルアマードが通路から現れた瞬間、スタンドの声が一段大きくなった。


無敗の二歳王者。

デザイアトロフィーの勝者。

今年のトリプルクラウン主役候補。


視線が一斉に集まる。


ベルアマードは、その歓声を受けながらターフへ進んだ。デザイアトロフィーの時にも大きな声を浴びた。だが今日は少し違う。GRの格式ではなく、期待と興味が混ざったような熱だった。


この先に何が起きるのか。

本当にベルアマードが今年の中心なのか。

ベストセンスはどれほどやれるのか。


観客たちは、ただ勝ち馬を見に来たのではない。

物語が始まる瞬間を見に来ていた。


そして、ベストセンスが姿を現した時、会場の熱はさらに上がった。


黒い短髪。

落ち着いた歩き方。

無駄なく鍛えられた身体。


派手な仕草はない。観客へ手を振ることもない。ただ静かにターフへ入ってくる。その姿に、かえって視線が集まった。


ベルアマードは横目でそれを見た。


怪物の子。


さきほど練習場で交わした言葉が、胸の奥に残っている。


親の無念を背負って戦っている奴もいる。


その意味を、まだ完全には飲み込めていなかった。だが、ベストセンスの姿を見ると、その言葉が軽いものではないことだけは分かった。


最後の調整を終えると、係員の声がかかった。


出走者たちは、ゲートへ向かう。


ベルアマードはゆっくりと息を吐いた。


どんな相手でも、走りは変えない。


自分の走りは、先頭にある。

誰よりも前へ行き、誰にも前を譲らず、最後まで走り切る。

それがベルアマードの答えだった。


ベストセンスが誰の子であろうと関係ない。

ハイセンスの無念を背負っていようと関係ない。

自分は自分の走りで勝つ。


そう言い聞かせるように、ベルアマードはゲートへ入った。


狭い空間に収まる。


外の歓声が、少し遠くなる。

その代わりに、自分の呼吸がはっきり聞こえた。

心臓の音が、身体の奥で強く打っている。


隣のゲートにも、次々と出走者が入っていく。

鉄の音。

係員の短い声。

足元の芝を踏む気配。


全員が収まった瞬間、会場は静まり返った。


あれほど騒がしかったスタンドが、嘘のように沈黙する。


視線だけが、ゲートへ集まっていた。


そして、開いた。


張り詰めた緊張が弾ける。


駆け出す足音と同時に、歓声が爆発した。


ベルアマードはいつも通り、鋭く飛び出した。


スタートは悪くない。

いや、むしろ良い。

身体は迷いなく前へ出て、最初の数歩で一気に集団の前に立つ。


いつもの位置。


先頭。


いつもの景色。


誰も前にいない。

風が真正面から来る。

観客の声が背中へ流れていく。


ベルアマードは、そこでわずかに口元を引き締めた。


これでいい。


相手が誰でも関係ない。

最後まで、この景色を守ればいい。


彼は後ろを見なかった。


先頭を走る者が、後ろを気にしてどうする。

振り返るのは、追われることを認めるようなものだ。

自分は逃げるのではない。前へ行くのだ。


そう信じていた。


集団は、ベルアマードを追う形でレースを進めていく。


ただ、いつもと違うものがあった。


ベストセンスだった。


彼は無理にベルアマードを追いかけているようには見えなかった。飛ばしすぎることもなく、かといって離されすぎることもない。集団の中で位置を取りながら、静かにベルアマードのペースに合わせていた。


余裕がある。


そう見える走りだった。


他の駆人たちは、ベルアマードの逃げに引っ張られて少しずつ表情を硬くしていく。早い流れに耐えながら、どこで仕掛けるかを探っている。


だが、ベストセンスだけは違った。


前を見る目が揺れない。

足運びが乱れない。

息の使い方にも無駄がない。


まるで、最初からこの流れを想定していたかのようだった。


ベルアマードは、まだそれをはっきりとは見ていなかった。


彼は自分の景色に集中していた。

誰もいない前。

風を受ける身体。

自分がレースを作っている感覚。


だが、中盤を越えた頃だった。


背中に、嫌な気配が触れた。


何かがいる。


ただ追っているだけではない。

離れない。

ずっと、そこにいる。


今までのレースでは感じたことのない感覚だった。


ベルアマードは一瞬、眉を寄せた。


振り返りたい気持ちが、ほんの少しだけ胸の中に生まれる。


だが、すぐに打ち消した。


振り返らない。


振り返れば、何かに負ける。

距離を測れば、自分の走りが崩れる。

自分は前を見るために走っている。後ろを確認するために走っているわけではない。


ベルアマードは、その嫌な感覚を振り払うようにスピードを上げた。


観客席がどよめく。


後続との差が少し開いたようにも見えた。


だが、消えない。


背中の奥に残る気配は、まだ消えていなかった。


最終コーナーが近づく。


ベルアマードは先頭でそこへ入った。


いつもより速く走っている。

身体も悪くない。

脚も残っている。

逃げの形としては十分なはずだった。


それなのに、あの気配が消えない。


ついてきている。


ベルアマードは歯を食いしばった。


ありえない。


ここまで来れば、普通は苦しくなる。

先頭で風を受け続けているのは自分だ。

後ろの者たちは、こちらの作る流れに乗せられているはずだ。


なのに。


最後のコーナーを回る。


直線が開けた。


ゴールが見えてくる。


ここまで来れば、あとは走り切るだけだった。

誰にも譲らず、いつものように、先頭の景色を抱いたままゴールへ飛び込むだけ。


そう思った。


その瞬間だった。


背中にあった気配が、ふっと消えた。


ベルアマードは違和感を覚えた。


離れたのか。


そう思いかけた次の瞬間、景色が変わった。


直線。

ゴール。

観客席。


本来なら、誰もいないはずの景色。


そこに、影があった。


真横。


いや、もう少し前。


黒い影。


ベストセンスだった。


ベルアマードの目が見開かれる。


いつ来た。


いつ並ばれた。


いつ、自分の景色に入ってきた。


一瞬の驚き。


その一瞬が、決定的だった。


ベストセンスは、ベルアマードの横に並ぶだけでは終わらなかった。

そこから一気に前へ出た。


力強い。

だが荒くない。

大きな身体を無理に振り回す走りではない。

積み上げてきた脚を、ここで解くような走りだった。


ベルアマードは初めて、前に誰かがいる景色を見た。


先頭ではない。


誰かを追うために走っている。


その事実が、理解より先に身体へ突き刺さった。


ありえない。


こんなはずではない。


自分は前にいるはずだった。

誰にも譲らないはずだった。

この景色は自分のものだったはずだ。


ベルアマードは必死に脚を動かした。


取り返す。


あの景色を取り返す。


もう一度、前へ。


だが、差は戻らなかった。


ベストセンスの背中は、少しずつ遠くなる。

わずかだったはずの距離が、どうしても詰まらない。


観客席の声が、違う響きに変わっていく。


ベルアマードの逃げに沸いていた声が、ベストセンスの差し切りへと揺れ始める。


その音が、ベルアマードの胸を刺した。


ゴールが近づく。


ベルアマードは最後まで走った。


だが、前にはベストセンスがいた。


そのまま、ベストセンスが先にゴールを駆け抜けた。


ベルアマードも遅れてゴールする。


一瞬、音が遠くなった。


歓声は確かに鳴っている。

スタンドは揺れている。

誰かが叫んでいる。


けれど、ベルアマードにはうまく届かなかった。


初めてだった。


誰もいないはずの前に、誰かがいた。


初めてだった。


先頭の景色を、奪われた。


初めてだった。


負けた。


ベルアマードはゴールの先で足を緩めながら、ベストセンスの背中を見ていた。


黒い影は、もう自分より前にいた。


その景色だけが、焼きついて離れなかった。


 レースが終わったあと、ベルアマードは気づけば風杜の玄関の前に立っていた。


どうやって競駆場を出たのか、ほとんど覚えていなかった。


スタンドの声も、記者たちのざわめきも、武田トレーナーに何を言われたのかも、曖昧だった。ベストセンスがどんな表情をしていたのかも思い出せない。勝者として歓声を浴びていたはずのその背中さえ、細部まではぼやけていた。


ただ、一つ鮮明だった。


自分の前に、別の者がいた。


いつもなら誰もいないはずの景色。

自分だけが見ているはずの先頭の景色。

そこに、黒い影が入り込んできた。


そして、その影は自分より前へ行った。


ベルアマードは、玄関の前で立ち尽くしていた。


手を伸ばせば開けられる。

いつもなら何も考えずに入る場所だった。風杜は帰る場所であり、食事の匂いがして、翠子の声がして、ベルフレアが走ってきて、アマルティアが何かしら口を出してくる。


けれど、その日は戸を開けられなかった。


負けた。


頭ではそう分かっている。

結果としては、ただそれだけだ。


だが、身体がまだ理解していなかった。


自分が負けた。

先頭を奪われた。

誰かの背中を見ながらゴールした。


その事実が、自分の中にうまく収まらない。


胸の奥に、硬いものが詰まっているようだった。怒りなのか、悔しさなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。ただ、息が浅くなる。


その時だった。


目の前の戸が、内側から勢いよく開いた。


ベルアマードは肩を跳ねさせた。


戸の向こうに立っていたのは、アマルティアだった。


彼女もまた、戸の前にベルアマードがいるとは思っていなかったのだろう。目を丸くし、少しのけぞるように声を上げた。


「うわっ!あんたなんでそんなとこに突っ立ってんのよ。」


ベルアマードは答えられなかった。


声が出ない。


アマルティアはすぐに驚きを整え、ベルアマードの顔を見た。ほんの一瞬、その目が細くなる。何かを見抜いたようにも、見抜かないようにしているようにも見えた。


けれど、彼女はレースのことを言わなかった。


「ほら、早く入んなさい。身体冷やすわよ。」


それだけ言うと、アマルティアは背を向けて中へ戻っていった。


何も聞かない。

何も言わない。

慰めもしない。


ベルアマードは、その背中を見つめた。


少しだけ遅れて、小さく頷く。


そして、風杜の中へ入った。


中は、いつもと変わらなかった。


廊下の木の匂い。

食堂の方から漂う湯気の混じった空気。

奥から聞こえる誰かの話し声。

ベルフレアの足音。

翠子が食器を整える音。


風杜は、普段通りに動いていた。


今日、ベルアマードが初めて負けたことなど、まるで何もなかったかのように。


誰も、レースの話をしなかった。


ベルフレアが顔を出しかけたが、翠子が何か小さく声をかけたのか、すぐに足音は奥へ引っ込んだ。ウインドベルの姿は見えなかったが、家の中には確かに彼の気配もあった。


アマルティアの配慮なのだろうと、ベルアマードにも分かった。


初めての敗北を、必要以上に大きなものにしないため。

帰ってきた場所だけは、いつも通りであるようにするため。

負けたからといって、ここでの自分が変わるわけではないと示すため。


きっと、そういうことなのだろう。


けれど、そのいつも通りが、ベルアマードには異常に感じられた。


誰も何も言わない。

誰も責めない。

誰も、負けたことに触れない。


だからこそ、頭の中で何度も繰り返される。


負けた。


前に行かれた。

先頭の景色を奪われた。

ベストセンスに抜かれた。


誰かが言ってくれた方が、まだよかったのかもしれない。

怒られた方が、言い返せたのかもしれない。

慰められた方が、反発できたのかもしれない。


だが、風杜はいつも通りだった。


その静かさが、ベルアマードの中の敗北だけを際立たせた。


アマルティアは食堂の前で振り返った。


「ご飯、あとで食べなさいよ」


その声も、いつもと変わらない。


ベルアマードは短く答えた。


「……いらない」


「少しは食べなさい」


「いらない」


アマルティアは何か言いかけたが、口を閉じた。


ベルアマードは視線を逸らし、そのまま自分の部屋へ向かった。


背中に、母の視線を感じた。


けれど、振り返らなかった。


部屋に入ると、戸を閉めた。


外の音が少し遠くなる。


ベルアマードは、何もせずに床へ座った。

膝を抱えるわけでもない。

泣くわけでもない。

ただ、じっとしていた。


目を閉じると、また直線の景色が浮かぶ。


ゴール。

観客席。

空いたはずの前。

そこへ現れた黒い影。


ベストセンス。


真横に来たと思った瞬間、もう前にいた。

追いかけようとしても、差は縮まらなかった。

足を動かしているのに、景色は戻らなかった。


初めての景色だった。


誰かを追うために走る景色。

前に背中がある景色。

自分が先頭ではない景色。


ベルアマードは拳を握った。


痛いほど強く握った。


取り戻す。


次のレースでは、あの景色を取り戻す。


誰もいない前。

自分だけが先にいる景色。

父が見ていた景色。

自分が勝ってきた景色。


それを取り戻さなければならない。


そうでなければ、自分は前へ進めない。


母を超えるどころではない。

自分の名前を見せるどころではない。

あの黒い背中が、自分の前に残ったままになる。


夜が深くなっていった。


風杜の中は静かになり、廊下の足音も消えた。

外では、雪解けの水が屋根から落ちる音が、時折ぽつりと響いていた。


ベルアマードは布団に入っても、なかなか眠れなかった。


目を閉じれば、前にベストセンスがいる。


それだけが、何度も何度も繰り返された。


初めての敗北は、歓声よりも、新聞の言葉よりも、母の名よりも、深くベルアマードの中に残った。


そしてその夜、彼は一つだけ決めた。


次は、必ず逃げ切る。


あの景色を、取り戻す。

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