第26話「静湯の夜」
湯気が、ゆらりと立ち昇る。
山奥に佇む温泉宿。
戦場の喧騒とは無縁の、静かな場所だった。
「……ここが温泉、ですか」
フウカが目を輝かせる。
木造の建物。
柔らかな灯り。
どこか懐かしい空気。
「魔力の流れも安定してる」
透が淡々と分析する。
「回復目的としては最適だな」
「ふふっ、難しい顔してるね」
隣でリリーニャが微笑む。
まだ完全ではないが、顔色はだいぶ戻っていた。
「……戦う前に休むなんて、変な感じです」
フウカがぽつりと呟く。
透は一瞬だけ視線を空に向ける。
「必要な工程だ」
短く答えた。
「勝つための準備だ」
その言葉に、二人は静かに頷いた。
やがて――
三人は浴場へと向かう。
広がる湯。
白く濁る温泉。
そして――濃密な魔力。
「……すごい」
フウカが思わず声を漏らす。
「身体だけじゃない」
リリーニャが静かに言う。
「魔力まで整えられる」
透は無言で湯に手を浸す。
――じんわりと、流れ込んでくる。
乱れていた魔律が、整えられていく。
「……確かに、効率がいい」
小さく呟いた。
しばらくして。
三人は湯に浸かっていた。
静かな時間。
水音だけが響く。
「……平和ですね」
フウカがぽつりと呟く。
「……ああ」
透が短く応じる。
「だが、長くは続かない」
現実を切り捨てるように。
しかし――その言葉は、優しくもあった。
「透さん」
リリーニャが声をかける。
「……何だ」
「怖く、ないんですか?」
その問いに、フウカも視線を向ける。
透は、少しだけ考えた。
「……ある」
その一言に、二人は目を見開く。
「だが」
続ける。
「構造が分かれば、対処できる」
「未知だから怖い」
「なら、解析すればいい」
淡々と。
だが、それが透の強さだった。
フウカが、そっと笑う。
「透さんらしいです」
リリーニャも、くすりと笑った。
「安心しました」
その空気が、少しだけ柔らかくなる。
そのとき。
フウカが、ふと視線を落とす。
「……フィートスさん」
ぽつりと零れる名前。
空気が、静かに変わる。
「……絶対に、生きてます」
強く言う。
「私、信じてます」
リリーニャも頷く。
「ええ。あの人は簡単に死ぬ人じゃない」
透は、何も言わなかった。
だが――その目は、確かに決まっていた。
「……助ける」
静かに言う。
それだけで、十分だった。
やがて、夜。
部屋に戻った三人。
窓の外には満月。
虫の音が響く。
「……なんだか、不思議です」
フウカが布団に座りながら言う。
「さっきまで戦ってたのに……こうして普通に過ごしてる」
リリーニャが微笑む。
「だからこそ、大事なんですよ。この時間が」
透は窓の外を見ていた。
月明かり。
静寂。
そして――違和感。
「……来るな」
小さく呟く。
「え?」
フウカが顔を上げる。
透は目を細める。
「まだ確証はない。だが……」
その瞬間。
風が、止まった。
虫の音が消える。
静寂が、変質する。
リリーニャの表情が変わる。
「……魔力が、歪んでる」
フウカが息を呑む。
「……ここに?」
透は、ゆっくりと立ち上がる。
「温泉だから安全、とは限らない」
その目が鋭くなる。
「むしろ――整う場所だからこそ、狙われる」
沈黙。
そして――
遠くで、何かが“軋む音”がした。
静かな休息は、終わる。
だが――
三人の状態は違った。
整っている。
研ぎ澄まされている。
そして、覚悟も。
戦いは、もうすぐそこまで来ていた。




