第90話 ゲームは終わり
【レオン視点】
レオンは、三階へ続く階段の途中にいた。
遠くで、何かが砕ける音。続いて、空気を裂く衝撃。
館全体が一瞬だけ軋んだ。
(……使ったな)
レナの、血の魔力。
使わなければならないほど、追い詰められた。
それだけで十分だった。
三階へ向かう必要は、もうない。
リゼにレナの居場所を聞き出すまでもなかった。
レオンは踵を返し、音が響いた方へ走った。
廊下を駆け、角を曲がり、砕けた壁を跳び越える。
扉を蹴り開け、踏み込んだ瞬間、足が止まった。
焦げた空気。崩れた壁。
床には赤い紋様が刻まれ、壁には焼けた痕跡が残っている。
その中心に、レナが立っていた。
全身に無数の傷。脇腹の切り傷から流れた血が制服を染め、燃えた髪の端から灰が落ちる。膝が揺れている。
凍っていたはずのものが、割れた。
氷の下に沈めていた感情が、一気に噴き上がる。怒りでも殺意でもない。もっと生々しく、もっと脆い、恐怖だった。
失うことへの、恐怖。
「……レナ」
声が掠れた。
駆け寄り、肩に手を添えた。
触れた瞬間、その熱さに目を見開く。
異常な体温。血の魔力の残滓が、まだ身体の中で燻っている。
「……こんな傷、誰がやった」
声が震えている。自分の声が、自分のものではないようだった。
「……レオン……?」
レナの唇が、かすかに動いた。
焦点の合わない琥珀の瞳が、目の前の金髪を捉えようとしている。
「ごめん、また使っちゃった……」
糸のように細い声だった。
「喋るな。すぐに——」
「——やっぱり、来たのね」
背後から、声がした。
甘く、皮肉を含んだ声。
振り返ると、紅のドレスを纏った女、リゼが扉の向こうに立っていた。
血飛沫で染まった床を、ハイヒールの音が静かに踏んでいく。
煙金色の瞳が、レオンの全身を見回す。
「あら、ずいぶんな傷ね。左腕の封印痕。肩の切り傷。そこまで遊んでくれたのね。あの子たち、結構お金がかかってるのよ。それを三人とも壊しちゃうなんて。……でも、それだけの怪我を負ったってことは、満足してくれたってことよね?」
「……」
レオンは答えない。
「ねえ、知ってたんでしょう? その子の血のこと。ファウレスの血。世界中が探してるものが、こんな子の中にあったなんて」
リゼが一歩近づいた。
「あなただけが知っていた。独占していたのよね。私がこの情報を流したら、どうなるかしら」
「……やめろ」
「各国が動く。学術機関、貴族、軍。どこも彼女を欲しがるでしょう。保護なんて名目で囲い込んで、研究して、切り分けて、兵器の材料にして」
レオンの手が、レナの肩から離れた。
レナの前に立ち、リゼとの間に身体を割り込ませる。
「死にたいのか」
低く、喉の奥から絞り出された声。
剣の切っ先が、リゼの喉元に突きつけられた。
リゼは笑った。
煙金色の瞳を細めて。
「ふふ。いい顔をするようになったね、レオン」
「血がどうした。そんなものは、俺にとって何の意味もない」
「私を殺す?」
リゼは剣の切っ先を見つめたまま、微笑んでいた。
「いいわよ。でも、私みたいな商売の女が、保険もかけずに生きてると思う? 私が死ねば、今夜の痕跡も記録も外に出るようにしてあるの。」
剣の切っ先が、揺れた。
殺した後に何が起きるか。情報が漏れる。
レオンは、その意味を理解していた。
それでも、刃は下がらなかった。
リゼの喉から逸れただけだった。
「安心して。私を殺さないなら、今夜のことは誰にも言わない。こんなに面白い秘密、すぐに誰かへ教えるなんてもったいないもの」
リゼは一歩退きながら、甘い声で付け加えた。
「——今は、ね」
軋んだ音を立てて、別の扉が開いた。
「……遅かったか」
オルフェの声だった。
その後ろから、エリックが飛び込む。
「……っ、レナ……!」
エリックがレナに駆け寄った。
オルフェの視線は、部屋の中心に残る血痕と、魔力の残滓に注がれている。
そして、リゼの方を見た。
「……見たのか。これを」
リゼの笑みが、答えだった。
「ギャラリーが増えたわね」
微笑んだまま、視線がオルフェ、エリック、レオンを順に撫でていく。
「Sクラスばかりが集まるなんて。当たり前よね。だってレナちゃんは、普通じゃないもの」
レナの肩が、震えた。
エリックに支えられながら、俯いている。
「普通の生活がしたい? 平和に生きたい? レナちゃんにそんなこと、できるわけないじゃない。だって、あなたは赤魔石の原料でしょう?」
レナは無言のまま、反論できなかった。
その沈黙に、リゼの口角が上がる。
「ねえ、レオン。その価値を知っていたんでしょう? その子が何になれるかを」
リゼはそのままレオンの肩越しに、レナの顔を覗き込む。
「世界でもっとも高価な魔石。もしも、それを生きた状態で精製できたら、きっと国がひとつ買えるわね」
レオンの首元にあるネックレスをリゼは見つめた。
レナは、震えるように息を吸い込んだ。
「お母様も、アロイス家に追われた末に、もう立派な赤魔石になってるんでしょう? 貴女の未来の姿よね」
レオンの瞳が、凍ったように細められた。
剣を握る右手に力が入り、柄が軋む。
だが、リゼは続ける。
「その子を壊すゲームは、もうおしまいよ。レオン、あなたの実用価値は知ってるわ。優秀で、便利で、何をさせても顔色を変えない。でもそれ以上の価値だけは、どうしても測れなかった」
ゆっくりとレオンの前へ歩く。
「レナちゃんが教えてくれたの。あなた、こんなに美しく壊れられるのね。ねえ……その綺麗な顔が歪むところ、本当に素敵だったわ。苦しんで、怒って、誰かを殺そうとする。そういう顔が、一番好き」
その言葉が、血と焦げた匂いの残る空気へ溶けた瞬間。
レオンの碧眼から、温度が消えた。
怒鳴りもしない。
魔力が爆ぜることもない。
ただ、右手が剣の柄を握り直した。
その僅かな動きだけで、部屋の空気が張り詰める。
理性は消えていなかった。
むしろ、殺すという一つの目的だけに、冷たく研ぎ澄まされていた。
距離が詰まる。
逸れていた剣の切っ先が、再び持ち上がった。
狙いはただ一つ。
リゼの喉元。
「お前だけは……今ここで殺す」




