第89話 価値のある少女
◆レナ視点
レナは走っていた。
もう何度目か分からない廊下の角を曲がる。
足裏の感覚はとうになかった。
どこかで切ったらしく、踏み出すたびに赤い足跡が床に残る。
肩の傷が、脈打つたびに熱く疼く。
脇腹の切り傷が三本。
一番深い一本から、制服を染み通って血が垂れている。
呼吸が追いつかず、肺が焼けるように痛む。
背後の足音は、離れない。
レナは走っているのに、彼らは歩いている。
追い詰めることを、楽しんでいるのだ。
「もう限界じゃねえか?」
「そろそろ、ぶっ壊していいだろ」
声が近い。
レナの足元が滑った。
壁にぶつかり、尻餅をつく。
「は、ぁ……、っ……」
視界が滲む。身体が震える。涙と汗と血が頬を伝う。
男の一人がナイフを手に、楽しげに近づいてきた。
遠くで、何かが轟いた。
振動が、石の壁を伝って足裏に届く。
館のどこかで、何かが壊れている。
追手たちの足が、一瞬だけ止まった。
だが、すぐに笑みが戻る。
「……なんだ? まあいいか、早く遊ばねえとな」
ナイフが、再びレナに向けられた。
男がレナの眼前に立った。
ナイフの切っ先が、顔の高さまで上がる。
刃に、自分の顔が映った。
血と涙に塗れた、ぼろぼろの顔。
「さて、どこから切ろうかな」
男は楽しげに笑い、ナイフを振り上げた。
刃がレナの肩に深く刺さる。
肉が裂け、骨に当たり止まる。
声にならなかった。視界の淵が白く飛ぶ。
刃が引き抜かれ、また振り上げられる。
男たちはすぐに致命傷にならないように遊んでいる。
それもいつまでかわからない。
レナの瞳が、振り下ろされる刃を見て思い出す。
──生きなさい。レナ。あなたは、生きていて。
母の声が、胸の底で蘇る。
このままでは、母が命懸けで守ってくれたことが無駄になる。
生きなければならない。母がそう言ったから。
「……まだ、死ねない」
レナは血に濡れた手を握り込んだ。
腕の傷口から滲んでいた血の魔力が、皮膚の表面を逆流するように這い始めた。腕を伝い、指先へ、そして空間へ。
男の表情が変わった。
「な──」
言葉は、そこで終わった。
レナの足元を起点に、床が割れ放射状に砕ける。
血が地面を這い、魔法陣を描いた。
魔術の奔流が男の身体を巻き込んだ。
ナイフが弾け飛ぶ。
男の身体が壁に叩きつけられ、石壁ごと砕けた。
もう一人が悲鳴を上げた。だが、その悲鳴は途中で途切れた。
赤い光が彼の足元から噴き出し、全身を包み込んだ。
床を焦がす赤。壁を這う黒いひび割れ。天井の一部が崩落し、粉塵と灼熱の渦が部屋を満たした。
(と……止まってよ)
握り込んだ手に、力を込める。
光が抗う。
それでも指を折り曲げ続けると、奔流は嫌々ながらも細くなり、やがて飛散するように消えた。
煙が薄れていく中、レナは立っていた。
ふらつく身体で、全身に傷を負いながら。
***
◆リゼ視点
監視結界の向こうで、光が弾けた。
リゼは反射的にグラスを置き損ねた。指先が震えている。
グラスが倒れ、赤ワインがテーブルを伝って床に落ちる。
赤い液体が、石の床をゆっくりと染めていった。
リゼはそれに気づかなかった。
術式盤に映し出された映像が、赤い光で飽和している。強化人間二体の反応が、同時に消えた。映像の乱れは数秒で収まったが、その数秒の間に起きたことの痕跡が、術式盤の数値を跳ね上げていた。
映像が戻ると煙の中に、少女が立っていた。
壁には赤い痕跡が焼きつき、空気中には異質な魔力の波形が残留していた。
詠唱も、術式の構築もなかった。
血が──周囲の魔力を導いた。少女自身が、魔力の核と化していた。
「……素晴らしいわ」
ぽつりと、吐息のように言葉が落ちる。
リゼ・シャルマンがワイングラスを倒すことは、これまで一度もなかった。
術式盤の数値を読み直す。魔力の波形記録。構造解析。
通常の魔術とは、根本的に体系が違っていた。
精霊系でも、元素系でも、術式構築系でもない。
もっと原始的な、もっと古いもの。
「──あれが、血の魔力」
陶酔とも、戦慄ともつかぬ表情で、リゼは囁いた。
ここ数週間、彼女は密かに調査を進めていた。
レオンを動かす女というだけで興味を抱いた対象──レナ・ファリス。
だが、掘れば掘るほど不可解な点が浮かんだ。
どこから来たのか分からない孤児育ち。
魔術的な訓練歴も乏しく、成績も平凡。
だが、あまりにも履歴が整いすぎている。
裏を知る者ならば気づく、偽装の匂い。
レオンが執着する理由も、オルフェが目を光らせる理由も分からない。
あの地味な少女の何が、学院最強の人間たちを引き寄せるのか。
その答えが、今、目の前にあった。
ファウレス家。
かつて、血そのものに魔力を宿した一族。
魔力は膨大。
代償として血脈ごと呪われ、やがて抹消された──はずだった。
裏社会でも、一部の魔術商人の間では囁かれていた。
末裔がまだ存在している、と。
裏の依頼掲示板には時折、冗談のように案件が出される。
『ファウレスの末裔、発見者に莫大な報酬』
誰も信じていなかった。
リゼも、信じていなかった。
だが今、それを目撃している。
「……末裔は、いたのね」
鳥肌が立った。
興奮だった。
すべてが繋がった。
レオンがあの少女を手放さない理由。
オルフェが口を閉ざした理由。
あの平凡に見える少女の周りに、異常な人間ばかりが集まる理由。
平凡なんかじゃなかった。
「ファウレスの血が、まだ生きていた」
術式盤の映像では、レナはまだ立っている。
リゼの目に映っているのは、もう「壊れかけの少女」ではなかった。
アロイス家の術師が作る赤魔石は、殺してから採った血を固めたものだ。
本来、死者の血からしか生まれない。
だが術式盤の向こうの少女は生きていて、まだ息をしている。
あの赤い光。
生きたファウレスの血が、どれほどの価値を持つか。
死んだ血から作る赤魔石ですら、一つで国が動く。
生きた血なら。
「……これは、もうただの遊びじゃないわね」
倒れたグラスから流れたワインが、床で赤い水溜まりを作っている。
その色が、術式盤に映るレナの血の色と、妙に重なった。
リゼは立ち上がり、コートの裾を払った。
家名も血筋も、失えば誰も守ってはくれない。
値段のつくものだけは、誰も見捨てない。
「……あなた、想像以上に高いわ。レナちゃん」




