第86話 代償は腕一本
◆レオン視点
館の廊下は、暗く、長く、冷たかった。
石壁の継ぎ目から水が滲み、魔導灯は最低限の光しか落としていない。影の方が、はるかに広い。奥へ進むほど、血の匂いが濃くなっていった。
レオンは剣を下げたまま歩いていた。頬に散った返り血は、もう乾き始めている。
やがて、廊下が広間へと開けた。
天井は吹き抜けになっている。両脇には石柱が並び、奥に上階へと続く階段が見えた。かつては舞踏会でも開かれていたのだろう。今は、埃と魔力の残滓だけが、重く澱んだ空気を作っている。
その中央に、三つの影が立っていた。
外周にいた雑兵とは、根本的に違う。纏う空気ではなく、存在そのものの密度が違っていた。立っているだけで石畳が軋むような、生き物として過剰な圧力。そして、その肌に、黒い紋様が走っている。
樹の根のように皮膚の下を這い、明滅しているそれは、刺青でも呪痕でもなかった。瞳孔は縦に裂け、筋肉のつき方が歪んでいる。人の形をしているのに、中身だけが別のものに入れ替わっているような違和感があった。
(……何だ、こいつらは)
人間ではない。だが、魔物でもない。薬か術か、何かで造り替えられている。
一人目は、長い鎖を右手に垂らしていた。鎖の一環一環に、微細な封印術式が刻まれている。打撃と同時に、相手の魔力を縛る武器だ。
二人目は、双短剣を逆手に構えている。小柄で、重心が低い。瞳孔の裂け方が、隣の男よりも深かった。皮膚の内側から、微かに甘い薬の匂いが滲んでいる。
三人目は、何も持っていなかった。
紋様も、ほとんど見えない。肌は滑らかで、呼吸は浅く、外見だけならただの青年に見えた。だからこそ、最も異質だった。他の二人は造り替えられた痕が外に出ているはずなのに、この男だけ何も出ていない。
(あれが、一番厄介だ)
三人とも、レオンを見ていた。逃げる気配はない。足止めするつもりだろう。
三人目だけが数歩下がり、石柱に背を預けた。
先に動いたのは、鎖の男だった。
空気を裂く音とともに、鎖の先端が弧を描き、レオンの首を狙う。身を屈めて躱すと、鎖は背後の石柱を叩き、石片を砕いた。
鎖そのものに、異常な質量が乗っている。人間の腕力で振れる重さではなかった。
戻りの鎖が逆方向から襲いかかる。同時に、双短剣の男が死角から滑り込んだ。
右の短剣が脇腹を、左の刃が膝裏を狙う。レオンは跳んだ。短剣が空を切る。着地と同時に剣を薙ぐが、男は身を翻して間合いの外へ逃れていた。
残像だけが、目に残る。神経そのものが、書き換えられているのだろう。人間の反応速度では、この動きは出ない。
鎖が正面を封じ、短剣が側面を抉る。二人の連携は、危ういほど噛み合っていた。一方が攻めれば、もう一方が退路を断つ。攻めと守りが、絶え間なく入れ替わっていく。
そして三人目は、まだ動かない。
石柱に背を預け、腕を組んだまま、戦いを眺めている。他の二人で削れなかった時の、最後の壁として。
レオンは頭の片隅で計算していた。
この二人をまともに相手取れば、長引く。長引けば、三人目が動く。加われば、厄介なことになる。
それなら、早く終わらせるしかない。
多少の代償を払っても、一人ずつ、確実に。
派手な魔術は使えないのはわかっていた。大きな術を組めば、この館のどこかにいるレナを巻き込む。それに、あの鎖に封印術式が刻まれている以上、術を起こす一瞬を捕まれれば魔力ごと縛られて終わりだ。その隙を短剣の男が見逃すはずもなかった。だとすれば、使うべきは、剣と身体だ。
狙うなら、鎖の男から。あの武器を先に潰さなければ、魔力を縛られたときに終わる。
問題は、踏み込めば必ず、双短剣が横から来ることだった。
(それで構わない)
鎖の男が、次の一撃を振りかぶる。
横殴りの、石柱を削りながら迫る軌道だ。
レオンは、避けなかった。
左腕で、鎖の先端を受ける。
巻きついた。封印の術式が皮膚を焼き、肉の焦げる匂いが立ち上る。腕に食い込んだ環の一つ一つから、青白い光が漏れた。
激痛が、神経を駆け上がる。だが、その痛みを、レオンの思考は脇へ押しのけた。痛みは情報だ。腕が使えなくなる、という情報。それ以上の意味は、今はいらない。
読み通り、鎖でレオンの動きが止まった一瞬を、双短剣の男が見逃さなかった。死角から、二本の刃が滑り込んでくる。
完全に避ければ、鎖を離すことになる。せっかく捕らえた一人目を、逃す。
レオンは最小限だけ身を捌いた。
右の刃は、肩を掠めて逸れる。左の刃も、上体を半歩ひねって、浅く右前腕を裂くにとどめた。腕から流れる血が、黒衣を伝って落ちる。
傷を負ったまま、レオンは鎖を掴み、全力で引いた。
どれだけ筋力を増強しても、予測しない方向への力には弱い。鎖の男が、引きずられるように前へ飛び出す。手放そうとしたが、遅い。
引き寄せた勢いのまま、レオンは額を叩き込んだ。
鼻骨の砕ける音。頭蓋の奥で何かが潰れる感触が、額越しに伝わる。のけ反った男の喉に、レオンは剣を突き刺した。
鎖が力を失い、左腕からずるりと床へ落ちる。
双短剣の男が、仲間を仕留められたと見て、一度、間合いを取り直した。重心を落とし、次の隙をうかがっている。
レオンは剣を構え直した。
左腕からは、焼けた封印痕の煙が立ち上っている。指先の感覚が鈍い。握力は、半分以下に落ちていた。肩と右前腕の浅い傷からは、まだ血が滲んでいる。
腕一本と、掠り傷が二つ。その代償で、一体。高くはない、とレオンは判断した。
双短剣の男が、動いた。
右だけを見せている。左を隠す、フェイントだ。
レオンは乗らなかった。
速さと引き換えに、動きの選択肢が狭い。左を隠す時、右の肩が先に開く。造り替えられた身体は、人間を超えた速度を出す。だが、その速度を選ぶ回路は、まだ人間のままだ。だから、癖が残る。
男が、壁を蹴った。
天井近くまで駆け上がり、そこから反転して斬りかかってくる。人間の関節では不可能な角度だった。靭帯も筋繊維も、もう本来の構造をしていない。その軌道は、剣士の読みの外にあった。
剣で受ける。右腕一本の受けに、衝撃が重くのしかかる。石畳に亀裂が走った。弾き返すと、男が着地する。
(……剣では、追いきれない)
空中を起点にし、壁を床のように使う相手だ。剣の間合いで捉えようとすれば、その都度すり抜けられる。
なら、剣の間合いを捨てる。
着地の瞬間、男の動きが一度だけ止まった。どんなに身体を造り替えても、地を蹴り直すための溜めは消せない。
その一瞬をレオンは逃さなかった。
踏み込み、剣ではなく膝を叩き込む。男の腹が、くの字に折れた。外側をいくら造り替えても、内臓への衝撃までは殺せない。
よろめいた頭を掴み、床へ叩きつける。石畳が割れた。くぐもった声が漏れる。人の言葉ではない、壊れた獣の音だった。
もう一度、叩きつける。二度目で、声は消えた。
レオンは身を起こした。
肩と右前腕の傷から、血が滲んでいる。左腕の感覚は、遠いままだ。それでも、まだ立っていられる。
広間の中央に、二つの身体が横たわっていた。流れ出す血は、普通の人間のものより黒みが濃い。光の乏しい室内で、それは石畳へゆっくり広がっていく。
最後の一人が、残っていた。




