第87話 造られた者
◆レオン視点
最後の男が腕組みを解き、柱の陰からゆっくりと歩み出た。
構えはなく、ただ立っているだけだ。それなのに、広間の空気の重さそのものが変わったように感じられた。
他の二人が放っていたあの過剰な異質さが、この男からはまるで感じられなかった。皮膚を這う黒い紋様も、縦に裂けた瞳孔も見当たらず、鼻を刺す甘い薬の匂いさえ薄い。代わりにあるのは、無駄というものが一切ない静けさだった。呼吸と筋肉の動きが、遊びの一つもなく噛み合っていて、人の姿をしているのに、かえって誰よりも人間から遠く見えた。
レオンは剣を握り直した。左腕はもう上がらないので、右腕一本で、その切っ先を男へ向ける。
男は、それを見ても動かなかった。
その目を見た瞬間、レオンは一瞬だけ兄を思い出したが、すぐに違うと分かった。これは後から作られた異質さだ。似ているようでいて、根っこの部分が違う。厄介なのは、あくまで兄の方だった。
この館のどこかにレナがいる。その一点だけが、レオンを前へと進ませていた。
男が動いた。
一歩で、間合いに入る。
速いわけではなかった。ただ、距離の詰め方が異常だった。走ったようにも跳んだようにも見えないのに、さっきまで離れていた身体が、気づけば剣の届く場所に立っている。しかも、届く距離にいながら、こちらの刃が通る線からだけは巧みに外れていた。
拳が顎を掠める。視界が一瞬だけ白く弾けた。
反射的に剣を振ったが、男は紙一重で躱した。剣がどこを通り、振り終えた後にどこが空くのか、剣士の間合いを内側から知り尽くしたような動きだった。
二発目が、脇腹の奥へ深く入る。
上体がくの字に折れかけ、息が詰まって、内臓が軋んだ。前の二体がついに通せなかった打撃を、この男は最初の数手で入れてくる。
(……前の二体とは、造りが違う)
鎖の男は力に振り切れ、双短剣の男は速度に振り切れていた。だがこの男には、そのどちらの過剰もない。力も速度も、要る分だけを要る場所へ静かに置いてくるだけで、無駄がないぶん、付け入る隙もなかった。
紋様が体表に出ていなかったのは、こういうことだったのだろう。他の二体は、与えられた力を持て余していたからこそ動きに癖が滲んだが、この男は造り替えられた身体を完全に飼い慣らし、溢れさせることなく、すべてを内側へ静かに収めている。
三発目が来る。狙いはこめかみ。当たれば意識が飛ぶ。
左腕は上がらない。まともに受ければ、次の一手で終わる。
なら、受けない。
レオンは、拳が届くその直前に、自分から前へ出た。避けるのでも受けるのでもなく、当たる方へ、拳の軌道の内側へ潜り込む。
男の目が、はじめて揺れた。あらゆる反応を最適化された身体は、最適化されているがゆえに、常識の外から来る一手にだけは一拍だけ遅れる。その一拍を、レオンは待っていた。
握っていた剣を、手放す。
石畳に甲高い音が鳴った瞬間、男の視線がわずかに落ちた剣へ逸れた。研ぎ澄まされすぎた反応が、ここでは皮肉にも裏返った。瞬きにも満たない、動きの空白。
その隙間へ、レオンの右拳が男の喉を突いた。
潰れる感触。呼吸が止まる。
均衡だけで立っていた身体が、はじめてよろめいた。その膝の横をレオンが蹴り抜くと、関節の外れる鈍い音がして、男はようやく崩れた。
落とした剣を拾い上げ、右腕一本で鎖骨の下へ突き立てる。刃は胸の奥へ沈み、骨に当たって止まった。
男が、最後にレオンを見た。
その目には、恐怖がなかった。痛みも驚きも浮かんでいない。造り替えられる過程で、そういうものはすべて削り取られたのだろう。停止していく自分を、ただ記録しているだけの目だった。
レオンはその目を見返しても、何も感じなかった。
剣を引き抜くと、男の身体が糸の切れたように床へ落ちた。
広間に、静寂が戻る。
三つの身体が、それぞれの形で横たわっていた。流れ出した血はどれも普通より少し黒く、石畳の窪みに沿って細い筋を引いていく。
レオンは立っていた。焼けて動かない左腕からは、血が袖を伝って指先から滴り、辛うじて剣を握れる右腕にも、肩口と前腕に掠り傷がある。顎には拳を受けた痕が残り、脇腹の奥には鈍い痛みが沈んでいた。
呼吸だけが、わずかに深くなっている。
血の匂いがいっそう濃くなった気がしたが、それが敵のものなのか自分のものなのか、レオンにはもうどちらでもよかった。
剣を握り直し、レオンは階段へ足をかけた。




