第85話 闇が踏み出すとき
◆レオン視点
次の瞬間、闇が踏み出した。
レオン・ヴァレントだった。
蒼い瞳は光を映さず、そこに宿るのは怒りでも激情でもない。完全に冷え切った判断と、排除だけを目的とした視線だけがある。
首元で揺れる赤いペンダント。生きた血から生まれた赤魔石が、持ち主の心拍に呼応するように脈打っているように見えた。
一歩、踏み出す。
張り巡らされていた結界が、悲鳴を上げた。
剣閃に、青白い線が混じる。
結界を成り立たせている魔力の骨組み――その繋ぎ目を、一筋ずつ断っていく。
「侵入者だ!」
誰かが叫んだ。
外周の男たちが、剣を抜く。六人は扇状に展開し、挟み込むように間合いを詰めてくる。統率の取れた、場慣れした動きだった。
レオンは止まらなかった。
一人目が踏み込んでくる。右からの斬り下ろし。レオンは半歩だけ身を引き、剣を抜くと同時に振った。刃が男の首を通り過ぎ、次の一歩を踏む頃には、もう背後で何かの倒れる音がしていた。
血が、頬に跳ねる。
二人目が、反対側から突いてきた。その軌道を、片手で柄ごと弾く。崩れた体勢の胴を、返す刃で裂いた。悲鳴は半分だけ漏れて、残りは血に変わる。
黒衣の袖口に、赤い飛沫が散った。
三人目と四人目は、同時に来た。一人では勝てないと判断したのだろう。だが、判断が正しいことと、結果が変わることは、別の話だ。
レオンは右の男の剣を受け止めず、避けた。避けながら左の男の懐へ入り、顎を掌底で打ち上げる。頸椎の折れる音。崩れ落ちる身体を盾にして、右の男の剣腕を斬り落とした。
五人目は、逃げようとした。
館の方へ、仲間に知らせるために。
三歩走った背中に、蒼い閃光が走る。無詠唱の魔術だった。男は走る姿勢のまま、膝から崩れ落ちた。
六人目だけが、振り返ることができた。
月明かりの下に、金髪の青年が立っている。蒼い瞳に、表情はない。頬に散った血だけが、月光を受けて黒く濡れていた。
男の剣先が震えている。
「ば、化け物……ッ!」
叫びは、声にはなった。だが、それ以上の意味を持つ前に終わった。
レオンの剣が、男の心臓を正確に貫く。引き抜く動作は、刺す動作と同じく速い。
外周の巡回、六名。排除に要したのは、月が雲に隠れて、再び姿を見せるまでの間でしかなかった。
レオンは、剣を払う。刃についた血が、石畳に細い線を描いた。
それでも、足は止まらない。息も乱れない。
オルフェとエリックが、この館へ向かっていることは、すでに察していた。だが、共に戦うつもりはなかった。今のレオンにとって、レナ以外の存在はすべて侵入者でしかない。たとえそれが、彼女を救おうとする者であっても。
顔に血を浴びたまま、レオンは館へ歩を進めた。
その背にはもう、戻る道は残っていなかった。
***
◆レナ視点
その館は、かつて貴族の別荘だった場所を改装したものだ。
だが今は、磨かれた壁も、敷かれた絨毯も、燭台の光も、そのすべてが逃げ道を奪うための飾りに見えた。
レナは、床を蹴って走っていた。
もう、体中が痛む。膝は擦りむけ、足首が悲鳴を上げ、切られた肩からは血が滴っていた。
「――ッ、は、あ……!」
息が荒い。足が、もつれそうになる。
背後で、笑い声がした。
「おい、まだ走るぞ」
「もっと走らせろ。そのうち疲れて限界がくる」
彼らは、人間ではなかった。
いや、外見だけは人だ。だが、明らかに違う。皮膚には樹の根のような黒い痣が這い、瞳孔は縦に裂け、言葉の節々がどこか壊れている。人の笑い方を、形だけ真似ているような。中身が、すっぽりと抜け落ちていた。
レナは、以前リゼの館で働いた日のことを思い出した。
資料整理だと言われて触れた、違法魔術の記録。
薬物名の並んだ紙束。
人の身体を作り替えるための、冷たい器具。
魔術と薬物で、人を兵器として造り替える。
あの時は、意味を理解しきれなかった。
だが今、その結果が目の前に立っていた。
「ッ――いや……来ないで……!」
レナは扉という扉に手をかけ、細い廊下を曲がり、階段を駆け下りた。
足取りは、もう限界に近い。
それでも、ただ逃げているだけではなかった。
「……開いて……!」
震える指先に、微かな魔力を集める。
施錠の構文を探り、古い錠前へ流し込む。
安物の鍵なら、それだけで外れるはずだった。
かちり、と音がする。
だが、扉は開かない。
木目の奥に、別の術式が埋め込まれている。
学院の教室や寮で見るような簡易結界ではなかった。
「っ……!」
レナは次の扉へ向かった。
そこも駄目だった。
次も、その次も。
重要そうな扉ほど、魔力が弾かれる。
窓には薄い結界が張られ、叩いても、魔力を流しても、硝子の向こうには届かない。
(この館から早く出ないと……殺される)
どこへ行けば外へ出られるのか分からなかった。
出口という選択肢だけが削られている。
追い詰められること自体が、仕組まれた実験だった。
***
◆リゼ視点
その様子を、リゼは監視結界越しに眺めていた。
赤いワインを揺らしながら、唇を歪める。
「……あら。まだ捕まらないのね。腐っても学院の子、ということかしら」
美しい装飾の椅子に腰かけたまま、足を組み替える。手元の術式盤には、館内の各所が映し出されていた。逃げ惑うレナ。それを追う者たちの位置。
リゼの指が、グラスの縁で止まった。
「……レオン、あの子たちと、対峙するのね」
術式盤の一角、館の一階に、レオンの姿が映っていた。
リゼは、ようやくグラスを置いた。
「見せてちょうだい、レオン。私をどこまで楽しませてくれるのか」




