第84話 冷えた殺意
◆レオン視点
同時刻、学院の寮。
レオンの部屋は暗かった。机の上には、開かれたままの教科書と、すっかり冷めた紅茶が残っている。レオンは椅子に座ったまま、もう長いこと動いていなかった。
レナが、今日は寮に戻っていない。図書室にも、中庭にも、いつもの場所のどこにも姿がなかった。そのことを、レオンは夕方の時点で把握していた。
(……遅い)
時計の針が、また一つ進む。
レナが視界から消えること自体は、珍しくない。こっそりバイトに行くこともあれば、エリックやサラと出かけることもある。だが今日は違った。理由は単純だ。ここ数日、レナの周囲では異常が続いている。噂、いじめ、退学の圧、あの男子たちの一件。その渦中にいる人間が、何の連絡もなく消えた。それだけで、十分すぎた。
レオンが、立ち上がる。
その時、机の上の通信石が、かすかに震えた。
淡い光が、暗い部屋に滲む。発信者の魔力は、エリック・ハーヴィルのものだった。
レオンは、一瞬だけ目を細める。エリックから連絡が来る、それだけで用件はほとんど決まっていた。
通信石に触れる。だが、耳に届いたのはエリックの声ではなかった。
『レオン』
穏やかで、どこか薄い声。オルフェ・クライドだった。
レオンの目から、温度が消える。
「……なぜお前が出る」
『説明している時間が惜しい。エリックもここにいる』
背後で、かすかにエリックの声がした。
『レオン、落ち着いて聞け。レナがいない』
その一言で、部屋の空気が変わった。
『レナの魔力反応が遮断された。場所はまだ確定じゃない。ただ、リゼの館に繋がる痕跡がある』
「リゼ……」
声に、感情はなかった。
『最低限、伝える。正確な場所を割るまで――』
通信石の声が途切れる。レオンは、最後まで聞いていなかった。
部屋を出る足取りは、静かだった。走らない。焦らない。ただ、その目だけが、もう人間のものではなくなっていた。
寮の出口で、一度だけ足を止める。首元に手をやると、レナから贈られた赤魔石のネックレスが、指先に冷たく触れた。
目を閉じたのは、一瞬だった。
(……待ってろ)
扉を開けると、夜の空気が頬を刺した。
夜の街を、レオンは歩いていた。
呼吸は乱れず、鼓動も異様なほど一定だった。
街灯が石畳を淡く染め、酒場から漏れる笑い声が遠くで弾けている。
日常の匂い、人の営み。
そのすべてが、薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるように感じられた。
同じ世界にいるはずなのに、自分だけが、別の場所を歩いている。
頭の奥に、最後に見たレナの顔が浮かぶ。
蒼白で、不安を隠しきれず、それでも誰かを巻き込むまいと微笑っていた、あの表情。
思考が、鋭く研ぎ澄まされていく。
怒りは、もう燃えていなかった。激情の段階は、とうに過ぎている。校舎裏で男子の手首を握り潰そうとした時にも、あの夜、廃倉庫で「処理」をした時にも、まだ怒りがあった。燃えるものがあった。
今は、ない。
代わりにあるのは、氷のように冷え切った殺意だけだった。
感情を削ぎ落とした分だけ、判断は正確になり、そして残酷になる。
殺すべき者、排除すべき敵、奪い返すべきもの。
それらが、迷いなく分類されていった。
それが、今のレオンの秩序だった。
ふいに、幼い頃の記憶が掠めた。
屋敷の暗い廊下で見た、兄の背中。
イリア・ヴァレンティア。
あの人は、いつもこうだった。何も持たず、何にも揺れず、ただ正確に壊していく。幼いレオンは、それを見て恐怖した。あれにだけは、なりたくないと思った。あの空洞にだけは。
(……兄さんに、似てきたな)
その自覚は、嫌悪でも恐怖でもなく、ただの事実として浮かんだ。
通信石が、再び震える。
レオンは足を止めなかった。石畳はいつしか土の道に変わり、家々の灯りは背後へ遠ざかっている。
通信石を取り出すと、淡い光が指の間に滲んだ。今度も、発信元はエリックだった。だが、声はやはりオルフェのものだ。
『場所は、君のよく知っている場所だ。リゼの屋敷。』
レオンは答えない。
『ただし、正面から入るな。外周に人がいる。結界も張られてる。今、俺たちも――』
通信石の向こうで、エリックが何か叫んだ気配がした。
『待て、レオン。単独で入るな。リゼは君の反応を――』
「余計なことを」
通信石を無造作に地面へ叩きつける。
乾いた音がして、欠片が散った。
今のレオンにとって、あの声はただの雑音でしかない。
古い煉瓦塀の続く坂を、レオンは下りていく。
賑わいから一本入っただけで、街はこんなにも静かになる。
この道を、レオンは知っていた。
幾度も、仕事でリゼの館を訪れた。
あの女から情報を買い、あるいは始末を請け負った。
勝手知ったる道のりのはずだった。
なのに今は、同じ風景が、まるで別の世界に見える。
やがて、通りの先に黒い鉄門が見えた。
蔦に半ば覆われた門扉。
その奥に、古びた洋館が静かに佇んでいる。
レオンは、無言でそれを見上げる。
あの中に、レナがいる。それだけでよかった。必要なのは、ただ一つ。奪い返すこと。
ざわ、と風が動いた。
夜を裂くように、重く冷たい気配が広がっていく。それは人ひとりが放つにはあまりに異常で、理性や感情といった枠を、とうに踏み越えた殺意だった。
***
◆館外警備の男
館の外周を巡回していた男達の一人が、異変を察し、顔を上げる。
「……ん? 誰か、いるか?」
返事はない。
隣の男も、同じものを感じ取ったのだろう。
手にした灯りが、わずかに揺れていた。
「違う、これは……ッ!」
言葉が形になる前に、理解だけが先に追いつく。
人間の気配ではない。
獣だ。
そう思った。
だが、すぐに違うと悟る。
獣なら、こんなに静かに殺意を整えない。
次の瞬間、闇が踏み出した。




