第80話 紙片と銀貨
◆レナ視点
掲示板の奥、資材室の前。
夕方の光が差し込まないその一角で、ひそひそと声がした。
「……この辺に貼れば、明日一番で目に入るよね」
少女の声に、レナの足が思わず止まる。
(……今の声……)
胸の奥が、嫌な予感でざわついた。
聞き覚えがある。
昨日も、今日も、遠くから自分を見ていた声。
レナは息を殺し、柱の陰からそっと覗いた。
そこにいたのは、Eクラス隣のクラスの女子生徒――マリーだった。数人の取り巻きを従え、古い作業机の上に白い紙を広げている。
(……うそ)
視界が、かすかに揺れた。
あの文字だ。
掲示板に貼られていたものと同じ筆跡だった。
マリーは楽しそうに笑っていた。
「第一弾、結構効いたみたいじゃない?」
「今日なんて、先生からも呼び出されてたでしょ」
「調子に乗るからよ。地味なくせに」
「Sクラスと関わるから、勘違いするのよ」
軽い笑い声と冗談の延長のような口調。
だが、その一言一言は、レナの胸を正確に切り裂いていく。
気づけば、レナは一歩、前に出ていた。
「……やめて」
自分の声が、思ったよりも震えていた。
マリーたちが、はっと顔を上げる。
「……え?」
次の瞬間、マリーの目が細くなる。
「なに、盗み聞き?」
「趣味悪いんだけど」
レナは唇を噛み、拳を握りしめた。
「……あなただったの? 掲示板に、あれを書いたの」
否定してほしかった。
だが、マリーは肩をすくめただけだった。
「何言ってんの。みんな思ってることを書いただけじゃない。事実でしょ? 男に取り入って、特別扱いされて」
「違う……!」
レナは思わず声を上げる。
「そんなこと、してない。お願いだから……やめて。これ以上……」
マリーと取り巻きは鼻で笑った。
「今さら何言ってるの?」
「もう噂、広がってるし」
その時、レナが机の上の紙に手を伸ばした。
「……これ、貼らせない」
マリーが顔色を変える。
「ちょっと、触らないでよ!」
二人の手がぶつかり、紙がずれる。
勢いで、マリーが一歩後ずさった。
その拍子に――
ちゃり、と乾いた音がした。
床に転がったのは、銀貨。
それと一緒に、小さく折りたたまれた紙の欠片。
空気が、凍りつく。
取り巻きの一人が、息を呑んだ。
さっきまで笑っていた口元が、半端な形のまま固まっている。
別の少女が、マリーと床の銀貨を見比べ、わずかに一歩退いた。
「……なに、それ」
レナの視線が、落ちた紙に吸い寄せられる。
拾い上げると、そこには箇条書きの走り書きがあった。
《Eクラスの孤立者》
《Sクラスと関係があると強調》
《金・身体・特別扱い》
《教師の耳にも入るように》
ぞっとするほど、冷静な言葉。
誰かの指示を、忘れないように書き留めたものに見えた。
マリーの顔が、明らかに強張った。
「……返しなさいよ」
その声は、さっきまでの余裕を失っていた。
「これ……誰に、もらったの」
レナの声は震えていたが、逃げていなかった。
マリーは一瞬、視線を逸らす。
「……関係ないでしょ」
否定しない。
それだけで、十分だった。
レナは、紙と銀貨を握りしめた。
逃げない。
もう、見ないふりはしない。
ここが――
噂の、出処だった。
***
張り詰めた沈黙の中、足音が近づいてきた。
「……やっぱり、ここか」
低く抑えた声。
レナが振り向くより先に、マリーがびくりと肩を跳ねさせた。
「え……?」
現れたのは、エリック・ハーヴィルだった。
いつもの柔らかさはなかった。
その目を見ただけで、エリックがもう状況を理解しているのだと分かった。
「第二弾、準備中ってわけだな」
エリックの視線が、机の上の紙、床に落ちた銀貨、そしてレナの手に握られた紙切れへと移った。
マリーの顔色が、一気に青ざめた。
「ち、違うの! これは――」
「言い訳は後でいい」
エリックは短く言い切った。
指先が、軽く空を切る。
取り巻きの一人が、反射的に廊下の出口へ目を向けた。
そのとき資材室の扉と廊下の出口に、淡い術式の光が走った。
逃げ道を塞ぐには十分だった。
エリックはレナの手元を見た。
「それ、見せて」
レナは一瞬だけ躊躇ったが、ゆっくりと紙を差し出した。
エリックは内容を一目で読み取り、眉間に深い皺を刻む。
「……完全に指示書じゃねぇか」
声に、怒りが滲んだ。
「噂の方向性、狙う弱点、教師への波及まで指定済み。これ、学生の思いつきじゃない」
マリーが後ずさる。
「ち、違うってば! ちょっと頼まれただけで……!」
「誰に?」
即座に返された問いに、マリーは口を噤んだ。
沈黙が、答えだった。
エリックは紙を折りたたみ、銀貨も拾い上げる。
「……十分だ」
そして、レナを見る。
「レナ、行こう」
「……どこへ?」
声が震えた。
「証拠を保全できる教師のところだ。握り潰されない形にする」
その言葉に、マリーが慌てて声を上げる。
「ちょ、ちょっと待って! そんな大事にしなくても――」
エリックは振り返り、冷たく言った。
「もう“大事”なんだよ。退学示唆まで出てる時点でな」
マリーは言葉を失った。
エリックが、レナの隣に立った。
「今回は、ちゃんと大人を巻き込む」
その声に迷いはなかった。
レナは、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
二人は並んで歩き出す。
背後で、マリーの取り巻きたちがざわめくのを感じながら。




