第81話 嫌な予感
◆オルフェ視点
学院旧棟の地下。封鎖された書庫の一角。
壁際には古い書架が並び、背表紙の消えた禁書や、封印札の貼られた資料箱が、長い年月の沈黙を積もらせている。
埃が混ざり合った空気と魔導灯の淡い光の下で、二人は向かい合っていた。
オルフェ・クライド。
そして、エリック・ハーヴィル。
オルフェは、机の向こうに立つエリックを見ていた。
「……マリーの件だ」
エリックが低く切り出した。
「噂を流してたマリーについて。第二弾を貼る直前に、レナが見つけて止めた。教師にも証拠を出した。金と、指示を書き写した紙。少なくとも学院内の火消しは効く。表向き、レナへの噂は沈静化するはずだ」
「……わかった。次は俺の方」
オルフェは指先で空中をなぞった。
見えない文字列が、魔導灯の光を受けたように淡く浮かぶ。
素行報告。教務局の面談履歴。匿名の申告書。
「素行不良の疑い。周囲との軋轢。全部、記録されていた」
エリックの眉が寄る。
「……噂が出る前から?」
「正確には、噂が出る前に仕込まれていた。俺が一度レナを助けた時には、一部ではもう噂が回り始めていたんだろう。それらが積み重なった結果としての退学示唆。つまり、今回の騒動は最後の一押しに過ぎない」
沈黙が落ちた。
書庫の奥で、古い木材が軋む。
それだけの音が、妙に大きく響いた。
エリックは短く息を吐く。
「じゃあ、レナが今すぐどうこうなることはない?」
「ない。少なくとも、表向きは。今は、ね。マリーは駒。噂は道具」
オルフェは机の上に広げた記録紙へ視線を落とした。
「……最悪だな」
「でも、まだ終わってない。むしろ、ここからだと思う」
紫の瞳が、魔導灯の光を受けて微かに揺れた。
旧書庫の空気が、少しだけ冷える。
オルフェは何気ない仕草で指を鳴らした。
その瞬間、空気が変わる。
旧棟地下に澱んでいた古い魔力の残滓が、糸を引かれるように整列していく。
壁や天井、床。書架の隙間。
目に見えない薄い膜が、空間そのものを幾層にも包み込んだ。
「ここなら、視線は届かない。魔力感知も遮断できる」
淡々とした声だった。
「さすが結界術の天才様。用意が良いな」
エリックは苦笑した。その声に軽さはない。
すぐに彼は机へ視線を戻した。
机上には、小型の魔導端末と、魔力転写式の記録紙が広げられている。
紙の上には、細かい文字と記号がびっしりと並んでいた。
リゼ・シャルマンの行動履歴。
学院敷地外での移動履歴。
接触した商会名。
裏路地での滞在時間。
複数の名義を経由した資金の流れ。
「……例の館の出入りも確認された」
オルフェが低く言う。
エリックの眉間に、さらに深い皺が刻まれた。
「売買ルートか?」
「恐らく」
オルフェは記録紙に指先を滑らせた。
黒インクに似た魔力線が、紙の上で淡く浮かび上がる。
線は複雑に絡み、いくつもの商会名と個人名を経由しながら、不自然な形で折れ曲がっていた。
追跡されることを前提に、あらかじめ逃げ道を作ってある。
「……ただ、あの女、抜かりない。痕跡を曖昧にしている」
魔力線は途中で途切れ、別の線へと繋がる。
その先でまた途切れ、無関係に見える名義へ逃げる。
意図的に追えなくなる地点を作っている。
それも一つではない。
何重にも、何重にも。
「素人相手なら十分すぎるほどだな」
エリックが吐き捨てるように言った。
オルフェは否定しなかった。
リゼ・シャルマン。
あの女は趣味は悪いが、手際はいい。
その点だけなら、嫌いではない。
ただ、今回は対象が悪い。
「……レナは一度、リゼの館に入っているんだよな」
エリックが低く言った。
オルフェは、ほんのわずかに目を細める。
「ああ」
「レナ自身が、何らかの事情であの女の館に向かった」
リゼ・シャルマンは、手を引くのが上手い女だ。
命令しない。
脅さない。
ただ、相手が進みたくなる道だけを、先に用意しておく。
レナのような子には、その方がよく効く。
困っている。
金が必要。
誰にも迷惑をかけたくない。
自分で何とかしたい。
その善良さの隙間に、リゼは指を入れる。
「……気持ち悪いな」
エリックが吐き捨てた。
「趣味は悪い」
オルフェは静かに言った。
「けれど、今のところ分かっているのはそこまでだ。館に入った。接触した。リゼがレナに興味を持っている。だが、それだけじゃ証拠にはならない」
「噂の指示は?」
「リゼ本人まで届かない」
エリックの拳が、机の上で強く握られた。
「次に何が来る」
問いに、オルフェはすぐには答えなかった。
分からない。
その言葉を、オルフェは嫌った。
けれど、この場ではそれが最も正確だった。
「……読めない」
短く告げると、エリックが顔を上げた。
「お前が?」
「相手が何をしたいのかは分かる。レナを追い詰めたい。おそらく、レオンを揺さぶるために。だが、なぜそこまでするのか。その動機の核が、読めない。次にどの手を、どの順で打ってくるかも」
魔導灯の光が、薄く揺れた。
古い書庫の影が、二人の足元に滲む。
エリックは深く息を吐いた。
「なら、どうする」
「学院内は君が見る。レナがまた呼び出されたり、変な噂が出たりしたらすぐ拾って」
「外は?」
「俺が追う。リゼの館、出入りしている人間、金の流れ。今はそれしかできない」
「レナ本人には?」
オルフェは少しだけ沈黙した。
「全部話す必要はない。けれど、リゼには近づくなとは言うべきだろうね」
「言って聞くと思うか?」
「どうだろうね」
エリックが苦い顔をする。
「じゃあ意味ないだろ」
「意味はあるよ。言われたことが頭に残っていれば、危険に気づく可能性が上がる」
「……あいつは、自分が狙われてるって分かってない」
「分かっていても、自分だけで抱える」
「だから危ないんだよ」
「知ってる」
オルフェは、静かに言った。
レナ・ファリス。
温厚で、臆病で、それでも妙なところで踏みとどまる少女。
あれは壊れやすい。
だが、折れにくい。
だからこそ、リゼのような人間には面白く見えるのだろう。
オルフェはその事実に、薄い嫌悪を覚えた。
自分の観察とリゼの悪趣味を、別の棚に分類したまま。
「……急ごう」
エリックが低く言った。
「間に合わなくなる前に」
オルフェは頷いた。
「ああ」
けれど、旧書庫の空気は重いままだった。
動くべきだ。
証拠を拾い、噂を消し、リゼの影を追う。
それが今できる、最善のはずだった。
オルフェは、机の上の記録紙を見下ろしたまま、わずかに目を細めた。
何かが足りない。
「嫌な予感がする」
そう呟いたとき、エリックの表情は硬くなった。
オルフェは思考を巡らせた。
普段なら、そんな曖昧な言葉は使わない。
予感は情報ではない。
推測にも満たない。
不確定で、不完全で、扱う価値の低いものだ。
それでも今は、喉の奥に小骨のように引っかかっていた。
この場所で交わされた会話は、まだ誰にも知られていないはずだった。
だが確実に、自分たちはゲームの裏側へ足を踏み入れていた。




