第79話 消えた視線
エリックは黙って、オルフェの顔を見た。
穏やかな微笑。あの、標本を見るような紫の瞳。
オルフェと手を組むことへの嫌悪感は、骨の奥まで染みている。
だが。
(……レナのためなら)
エリックはしばらく俯いていた。
拳を握り、やがて、顔を上げた。
「……一つだけ、条件がある」
「聞こう」
「レナを素材として扱うな。あの子は人間だ。お前の研究の道具じゃない。それを破ったら、俺は二度とお前と組まない」
オルフェは一拍だけ沈黙し、面白がっているような、値踏みしているような、曖昧な笑みを向けた。
「ああ、それなら約束するよ」
あまりにも軽い返事。
だがエリックは、それ以上追及しなかった。この男に誠意を求めても意味がない。利害が一致している間だけ、使えればいい。
「……分かった。組む。ただし、レナを守るためだ。お前の研究のためじゃない」
「構わないよ。動機が違っても、目的が同じなら十分だ」
夕闇が、中庭を染め始めていた。
石柱の影が長く伸び、二人の輪郭を呑み込んでいく。
エリックは息を吐いた。
(……レナを追い詰めた男と、レナを守るために手を組む。笑えない冗談だな)
だが、笑えないからこそ、正しい選択なのだと思うことにした。
少なくとも、もう「見てるだけ」は終わりだ。
***
深夜の学院の裏手。誰も近づかない森の奥に、朽ちかけた廃倉庫がひっそりと佇んでいた。
男子たちは、自分がなぜここにいるのか分かっていなかった。
あれから気晴らしに街に出かけて帰ったはずだった。
なのに、気づけば暗い空間にいた。
手足に拘束はない。
扉にも鍵はかかっていない。
なのに、身体が動かなかった。
空気そのものに、重力とは別の何かが満ちていた。
呼吸すら許されないほどの、純粋な威圧。
「おい……まさか、本当にこんなとこまで……」
震える声で、誰かが言った。
「俺たち、ちょっと……からかっただけだろ……?」
言い訳にもならない言葉が、暗がりに溶けた。
その瞬間、音もなく背後で扉が閉じた。
月明かりが細く差し込む入口に、金髪の青年が立っていた。
剣を抜く気配すらないほどの静けさだった。
ただ、その瞳だけが──氷の底のように冷えていた。
ゆっくりと、一歩踏み出す。
「昼間、お前は、レナに触っただろう?」
もう一歩。
「触ったよな」
「ま、待ってくれ……! もうしない、二度としないから……!」
一人が膝をつき、額を地面に擦りつけた。
レオンは立ち止まった。
その視線が、土下座する男子の頭を見下ろす。数秒。まるで、虫の動きを観察しているような静けさだった。
「……そうだな」
呟いた声は、驚くほど穏やかだった。
「二度としない。確かにそうなる」
その言葉の意味を理解したとき、男子たちの顔から最後の血の気が消えた。
倉庫の中に、悲鳴は上がらなかった。
争う音も、助けを求める声もなかった。
ただ、冷たい沈黙の中で──
何かが、静かに、確実に終わっていく気配だけがあった。
***
しばらくして倉庫の扉が、再び開いた。
レオンは一人で外に出た。
振り返ることなく、足元に短い術式を描く。
魔炎が、地面を這うように広がっていった。
音もなく、煙も立てず、ただ痕跡だけを喰らう炎。
骨すら残らない。
最後に封鎖術を三重に重ね、残留魔素を打ち消す。
倉庫の輪郭すら、朝には森に呑まれているだろう。
すべての処理を終え、レオンは夜空を仰いだ。
月が白い。
風は冷たく、虫の声すら聞こえなかった。
(……レナは、もういいと言った)
あの声を、思い出す。
(だから、あの時は止めた。だが、お前が赦しても、俺は赦さない)
足取りは軽い。
寮の自室に戻り手を洗い、服を替えて、ベッドに腰を下ろす。
空が白み始めた頃に、レオンは目を閉じた。
その翌日、数名の男子生徒が、学院に姿を見せなかった。
行方不明だと、誰かが囁いた。
教務局も調査を始めたが、手がかりは何もなかった。
寮の部屋は空で、私物だけが残されていた。
彼らの机の中からは、雑に畳まれた退学届に似た書き置きが見つかった。
筆跡も、魔力印も、本人のものだった。
少なくとも、学院の鑑定ではそう結論づけられた。
まるで、持ち主だけが蒸発したかのように。
ただひとつ確かなのは──
あの日を境に、レナに向けられていた下卑た視線が、完全に消えたということだけだった。
昼鐘が鳴り終わった頃、レオンは中庭の片隅にレナを見つけた。
石造りのベンチに、彼女はひとりで座っていた。
肩を抱くように身を縮め、膝の上で指を絡めている。爪先が、風に触れた葉のようにかすかに震えていた。
教務室に呼び出されたことは知っている。
そこで何を言われたのかまでは知らない。
けれど、ここ数日の噂と、彼女の顔色を見れば十分だった。
確かめる必要がある。
誰の言葉でもなく、レナ自身の口から。
風が吹くたびに赤茶の髪が頬に触れ、そのたびにレナは小さく瞬きをした。
ここ数日の出来事が、確実にレナを削っている。
噂や視線、退学という言葉。
「教務室で、何を言われた」
レオンが声をかける。
だが答えはすぐには返ってこなかった。
沈黙のあいだ、レオンは彼女の指先だけを見ていた。絡められた指が、ほどけそうになって、また強く握り直される。
「……最近の行動とか、成績とか……色々言われて」
声が掠れていた。
「それで?」
レオンは短く促した。
レナは一度だけ目を伏せた。
「……退学になるかもしれないって」
その言葉だけが、やけに冷たく落ちた。
風が、レナの髪を一筋だけ揺らした。
その毛先が、彼女の頬に薄く影を引く。
「退学になったら、どうしよう」
レナの声が震えた。
「寮を出ても、私、行く宛がないし……せっかく、できた居場所なのに」
膝の上で絡めた指が、強く握られる。
学院。寮。レナが少しずつ、自分の手で作ってきたもの。
脆くて、頼りなくて、それでも彼女にとっては確かに帰る場所だったもの。
レオンは短く息を吐いた。
「それなら心配ない」
レナが顔を上げる。
「俺のところに来ればいい」
「……は?」
間の抜けた声だった。
琥珀色の瞳が、戸惑いに揺れる。
レオンは当然のことのように続けた。
「俺と暮らせばいい。お前が退学するなら、広い部屋を借りればいいだけだ。金なら気にしなくていい」
「わ、私は退学したくないの!」
レナは慌てて身を乗り出した。
「一緒に暮らすとか考えたことがないし……そんな迷惑かけられないから……!」
「迷惑じゃない」
即答だった。
むしろその方がいい。
学院になど通わなくていい。
他人の目も、誹りも、噂も、全部要らない。
部屋に閉じ込めてしまえば、誰の言葉ももう届かない。
それがどれだけ歪んだ考えなのか、レオンには分かっていた。
分かっていて、間違っているとは思わなかった。
「……レオン?」
レナが不安げに名を呼ぶ。
その声で、思考が戻った。
レオンは視線をわずかに逸らし、中庭の向こうを見た。
回廊の柱の影。誰もいない場所。
ハニーブロンドを揺らし、赤いドレスで微笑む情報屋、リゼ。
レナに触れ、彼女の居場所を削る存在。
碧い瞳に、氷のような光が宿る。
レオンは静かに言った。
「まあ……あの女に、好き勝手やられるのは癪だな」
レナが息を呑む気配がした。
レオンは彼女を見ないまま、淡々と告げた。
「あの女の通りにはさせない」




