第78話 静かなる悪意
◆レナ視点
気づけば、レナの足が勝手に走り出していた。
視界が滲む。呼吸が浅くなる。
胸の奥がぐしゃぐしゃに握り潰されるようだった。
(どうして……? なんでこんなことに……?)
分からない。
噂の意味も、なぜ自分なのかも、誰が流したのかも。
ただ、胸の奥を締め付ける動悸だけが、はっきりと痛かった。
気づけば、人の寄りつかない旧棟まで来ていた。
屋上へ上がることも考えたが、そこまで行く気力はなかった。
少しだけ息を整えたら戻ろう。
そう思って、近くの教室に身を滑り込ませる。
机は隅に寄せられ、埃の匂いがした。
窓は午後の光を鈍く弾くばかりで、外の音はどこか遠い。
レナは壁に手をつき、必死に呼吸を整えようとした。
(落ち着いて……大丈夫……私は、何もしてない……)
そう思おうとするたび、掲示板の紙が脳裏に焼き付く。
身体が震え、指先も冷たくなっていく。
その時だった。
「──あれ? こんなところで何してるの?」
背後から、複数の足音。
振り向けば、学院Aクラスのバッジを胸につけた女子生徒が数名、扉の前に立っていた。
(……後を尾けられてた?)
疑問が浮かぶ前に、彼女たちは嘲るような笑みを浮かべた。
「ねぇ、掲示板見たよ? やっぱ噂、本当だったんだ」
「前から言われてたもんね。この前もあなた、他の子と揉めてたんでしょ」
「そのときはオルフェさんに助けてもらったって聞いたけど?」
レナは思わず一歩後ずさった。
「ち、違います……そんなこと……!」
「へぇ? 否定するんだ」
女子の一人が、くすりと笑った。
「でもさ、あんな紙が貼られてる時点でそういう子なんじゃないの。火のないところに煙は立たないわ」
「Sクラスの先輩に甘えて特別扱いされるなんて、私たちでも聞いたことないし。ねぇ、どうやったの? 秘密、教えて?」
冗談のような口調なのに、目は一切笑っていない。
背筋が冷える。
「わ、私は……」
頭の中で言葉が絡まり、無数の視線と嘲笑が一気に押し寄せてくる。
「まあいいか。私たちは言われたこと、やろっと」
「気に入らないからちょうどよかったわ」
レナは思わず一歩下がった。
その一歩分、女子が踏み込んでくる。
「そんなに男が好きならさ……好きなだけ、やらせてあげたら?」
その言葉に、呼吸が止まりそうになる。
寒気が背骨を駆け上がった。
「ちょうどそこに呼んであるから」
Aクラスの女子の一人が、廊下の向こうへ顎をしゃくった。
数名の男子生徒が姿を現した。
──Aクラスの下位組。実力では上に行けず、かといってプライドだけは肥大した連中だった。Eクラスの女子を格下と見る目には、欲と侮蔑が等分に混じっている。
「別に無理矢理するわけじゃないよ? あんた、そういうの得意なんでしょ?」
「噂の通りなら平気だよね?」
「ねえ……レオン先輩も、こんな女を気に入ってるなんて、見る目ないよねぇ」
Aクラスの女子たちの笑みは、悪意の結晶だった。
足がすくみ、喉が痛いほど震え、視界の端が黒く滲む。
(この教室から……逃げなきゃ……)
思っても、体が動かない。
周りを見渡すと扉の前に逃げないように女子が立っている。
こんな狭い教室では魔術は使えない。
騒ぎになれば、問題を起こしたのは自分だと見なされるかもしれない。
教務主任の平坦な声が、耳の奥で蘇る。
風紀面、要観察。
あと一つでも問題を起こせば、自分は退学の可能性が高くなり、居場所はなくなる。
「私たちはさ、この前の子たちみたいに傷つけるつもりないの。あんたが勝手にやるんだからさ」
教室の中に、男子たちがゆっくりと歩み出てきた。
視線がいやらしい。
獲物を見つけた野犬のように、冷たく、湿っている。
「ほら、行ってあげなよ」
「好きなんでしょ? 男が」
喉の奥がひくりと震えた。
「ち、違う……違う……!」
言葉は掠れていた。
(嫌だ……お願い……いやだ……!)
一人の男子がしゃがみ込み、レナの顎に手を伸ばす。
「こんなとこで泣いてんの? かわいいねぇ」
「噂の通りならさ……俺らのことも相手してくれんだろ?」
「ちょ、触らないで……!」
振り払おうとした瞬間、別の男子が腕を掴んだ。
「抵抗すんなよ。せっかく優しくしてやるって言ってんだし」
爪が食い込むほど強く握られ、逃がす気などないのが伝わる。
「やめ……て……!」
声は震え、呼吸は乱れ、胸が締めつけられる。
女子たちは離れた場所で、机にもたれて笑っていた。
「わぁ、ほんとに泣きそう」
「それって演技なんじゃない?」
「……ねぇ、早く押し倒しちゃいなよ」
男子たちの気配が近づく。
背後からも足音がした。
(やだ……来ないで……!)
「ほら、寝転ばせようぜ。そうしたら逃げられねぇだろ?」
次の瞬間。
肩口を強く引かれた。
重心が崩れ、視界が乱れる。
「きゃ──っ!」
床へ背を打ちつけ、空気が肺から一気に抜けた。
世界がぐるりと回り、髪が広がり、身体が完全に仰向けになる。
男子の影が覆いかぶさるように迫る。
「ほら、じっとしてろよ」
「噂通りならさ、別に平気だろ。こんなことくらいさ」
手が伸びる。
胸へ、頬へ、腕へ。
(いやだ……! 誰か……っ……!)
叫びは声にならず、喉の奥で潰れた。
床の冷たさが背中へ染み込み、逃げ場はどこにもない。
心が引き裂かれる。
涙がこぼれる。
自分の鼓動さえ水の底から聞こえるようで、視界の縁が暗く、暗く──
男子の手が、レナの肩に触れた。




