第76話 最古の魔術
◆レナ視点
朝の鐘が鳴って間もない頃だった。
壁に埋め込まれた音声伝達式が、教室の空気を震わせるように淡く発光した。
「レナ・ファリス。至急、教務室まで来なさい」
無機質な声が、朝の教室へ落ちる。
一瞬だけ、空気が止まった。
それから、押し殺したようなざわめきが広がっていく。
「……朝から?」
「何かやったの?」
「もう話いってるんだ……」
ひそめたつもりの声が、かえってよく響いた。
誰かの小さな笑いも混じっていた。
レナは立ち上がる。
膝が、少しだけ頼りなかった。
教務棟の廊下は、朝の光が届ききらないぶんだけ冷えていた。
白い石壁に刻まれた魔術紋様が、足音に応じて鈍く光る。
歩くたび、自分がどこかへ呼ばれているのではなく、静かに追い詰められていくのだという感覚だけが強くなる。
通された部屋の机上には、結晶盤と書類が整然と並んでいた。
見慣れた自分の名前。
見慣れたはずの評価欄。
けれど、そこに並んでいた判定に、レナは息を止めた。
「……え……?」
筆記評価。
実技補助。
術式読解。
導線制御。
数値そのものは、もともと良いとは言えない。
特に実技は、いつもぎりぎりだった。
それでも今までは、出席態度と課題提出、それに真面目さを見られて、どうにか踏みとどまってきたはずだった。
だが、その横に並んだ総合判定と所見は、まるで別の意味を帯びて見えた。
実技適性に継続的懸念あり。
単独遂行能力に不安。
風紀面含め要観察。
喉の奥が、ひやりと冷えた。
「何か問題でも?」
教務主任の声は平坦だった。
「……これ、どういうことですか。私、実技が苦手なのは分かっています。でも、ここまで悪く言われるようなことは……」
「成績自体が突然変わったわけではありません」
補佐官が、書類から目を離さないまま告げる。
「もともとの評価推移と、直近の実技記録、生活態度、周囲への影響を含めて総合判断した結果です」
総合判断。
その言葉が、ひどく冷たく聞こえた。
「問題は成績だけではないんですよ」
別の紙が、レナの前へ滑らされた。
上級生との不適切な金銭授受。
実技における継続的な救援依存。
特定Sクラス生との過度な私的接触、および風紀攪乱の疑い。
文字を追うごとに、胸の奥が冷えていく。
そこに書かれているのは、どれも完全な嘘ではなかった。
生活資金として、お金を渡されていること。
いつもレオンやエリックに助けられていること。
レオンが頻繁にEクラスへ来て、そのたびに教室の空気がざわついていたこと。
断片だけは本当だ。
だからこそ、否定しようとすると、自分でも足場が揺らぐ。
「……違います。そんなつもりじゃ」
「つもりの問題ではありません」
主任の声は冷たかった。
「あなた個人の意図ではなく、周囲にどう受け取られ、どのような影響を与えているかが問題なのです」
淡々と読み上げられる言葉は、刃物のように正確だった。
「学院は、学業成績だけで在籍を判断しているわけではありません。実技適性、継続性、生活態度、風紀面。その総合評価において、あなたは現在、在籍継続を保証しにくい位置にいます」
指先が、膝の上で強く食い込む。
「学院は慈善施設ではありません。基準に達しない者を、無期限に抱える義務はない」
淡々とした言葉だった。
けれど、その一つ一つが、魔術よりも正確に心臓を締めつけてくる。
「……私は」
喉がひどく乾いていた。
「退学、なんでしょうか」
室内が、しんと静まる。
主任は少しだけ間を置いて、書類をめくった。
「現時点では、まだ決定ではありません」
その言い方が、かえって残酷だった。
「一ヶ月後に再査定を行います。筆記、実技ともに基準値に達しない場合、在籍継続は再検討となるでしょう」
再検討。
その言葉の中に、ほとんど答えが入っていることくらい分かった。
寮を失えば、行き先はない。
学院を出れば、偽造された身分も、最低限の庇護も消える。
村も、母も、もういない。
帰る場所なんて、どこにもない。
「……分かりました」
それだけを言うのが精一杯だった。
席を立ち、扉へ向かう。
足元が少しだけ遠い。
床を踏んでいるはずなのに、感覚が薄かった。
***
◆リゼ視点
昼へ傾きかけた頃。
リゼのいる屋敷の一室には、静かな香が満ちていた。磨かれた魔導ガラスのティーカップが、窓辺の光を受けて淡く光る。
リゼは長椅子にもたれ、紅茶をひと口だけ含んだ。芳香がゆるやかに広がる。
(……そろそろ始まったかしら)
もう学院では、撒いた毒が静かに回り始めている頃だ。
風紀の噂さえ回れば、教師たちは勝手に色眼鏡でその子を見るようになる。
もともと危うい評価は、ほんの少し厳しく読まれるだけで崩れ落ちる。
学院は勝手に、彼女を切り捨てる。
人は、自分で見たいものを見る。
正しさより、面白さを信じる。
だから、ほんの少し火種を投げれば、あとは勝手に燃え広がる。
リゼは唇をわずかに吊り上げた。
「人間って、噂ひとつで簡単に目を曇らせるのよ」
そこに慈悲は微塵もない。
「正しいかどうかなんて、人はたいして見ていないの。面白いほうを、信じるだけ」
紅茶をすする仕草は優雅だった。
ただ、その指先には毒針のような冷たさが宿っていた。
レナ・ファリス。
魔力の低い少女。価値の尺度が魔力である学院では、存在そのものが脆い。
追い詰めるのに、力はいらない。ただ、言葉と視線と少しの噂があれば十分。
(あなたの弱点は、とても単純。孤独。それだけ)
家族もなく、味方も多くはない少女。
頼るべき相手は、たった一人。
だが、その相手──レオン・ヴァレントは、決して救済ではない。
彼に助けを求めるほど、少女の命綱は歪んでいく。
(レナ──次は、あなたが誰にも信じてもらえない状況を作ってあげる)
「……レオンに、助けてって言えるかしら?」
問いというより、愉悦の独白だった。
(さあ、その調子で罠にかかってちょうだい)
リゼは微笑む。
優雅で、美しく、そして残酷に。
リゼの罠は、人の心と制度を使う、残酷な魔法だった。
人間の悪意という名の最古の魔術が、ゆっくりと少女の世界を蝕んでいく。




