第75話 ゲームを開始しましょう
◆ディアン視点
診療室には薬草の香りが満ちていた。
レナはベッドに腰掛け、静かに脈を測られている。
「痛みは?」
ディアンが淡々と問う。
「大丈夫です。気分が悪くなるときもあったけど、今は落ち着いてきました」
穏やかな返事。
だが、ディアンの意識は別のところにあった。
レナの隣。
無言で椅子に座るレオン・ヴァレント。
その存在だけで、室内の空気がひとつ重くなる。
視線はレナだけを捉えたまま、ほとんど動かない。
瞬きさえ、必要最低限に削られているようだった。
首元で赤魔石のネックレスがかすかに揺れた。
呼吸とも鼓動ともつかない律動で、妙に生々しく光を返す。
ディアンは目を細める。
あんな物を、レオンが持っていただろうか。
いや、それよりも、あの目は、守る者の目ではない。
触れるものごと壊しかねない目だ。
ユージンも異変に気づいたらしい。
メモを取る手が、かすかに震えていた。
「レナ、血液量は問題ない。ただ、魔力の過剰反応には気をつけろ」
「うん、ありがとう」
レナの声はいつも通りだった。
それが、かえって不安を強くする。
診察を終え、二人は静かに立ち上がる。
レオンは最後まで一度も周囲を見なかった。
レナだけを視界に入れたまま、扉の向こうへ消えていく。
あとに残ったのは、薬草の香りと、薄い冷気のような余韻だけだった。
ディアンはしばらく閉じた扉を見ていた。
あれは、まだレナの声が届くうちはいい。
だが、ひとたび届かなくなれば――何を壊して止まるのか、もう本人にも分からないだろう。
***
◆リゼ視点
馬車に揺られながら、リゼは指先でカーテンの端を弄んでいた。
窓の外の景色は滑るように流れていくのに、彼女の思考だけが、愉しげに一点へ留まり続けている。
(セリル・アロイス……やっぱり面白いわね)
貴族特有の無駄のない礼儀。
感情を隠しながらも、こちらの意図だけは正確に測る瞳。
何も差し出さないまま、こちらの腹の内だけを読んでいく手合いだ。
(ああいう男、嫌いじゃないのよ)
リゼは小さく笑った。
唇に浮かぶ笑みは、美しさというより、毒を甘く飾り立てたものだった。
脳裏に浮かぶのは、レオンの胸元で揺れていた赤魔石のネックレス。
(市場品じゃない。アロイス家の管理下でもなかった。貴族の贈答品にしては、稀少なものすぎる)
そこまで分かれば十分だった。
あれはただの装飾品ではない。
出どころ次第では、石そのものより“情報”の方が高く売れる。
(金になるわね)
その確信に、リゼの目が細まる。
そして、興味を引いたのは、石そのものだけではなかった。
(レオン。あなたの変化は本物だった)
怒りでもない。
恋情、でもない。
もっと不健全で、もっと深くて、救いも出口もない感情。
あの瞬間、彼は確かに歪んだ。
(綺麗だったわ)
完璧に整っていた怪物が、たった一つの綻びで形を変える。
その一瞬だけ覗いた人間らしさは、皮肉なほど美しかった。
リゼは空中に指先で細い線を描く。
誰かの輪郭をなぞるように、ゆっくりと。
レオンの首にかかったネックレス。
レオンを歪ませる少女。
二つは別々の興味にすぎない。
(でも、どちらも放っておくには惜しいのよね)
レナ・ファリス。
学院の記録を思い出す。
出席、講義態度、交友関係。
サラ・クレイン。
エリック・ハーヴィル。
レオン・ヴァレント。
そこに、寄る店、動く時間、視線の癖――自分で拾った細部を重ねていく。
(孤独。欠落。依存しやすい性質。……壊すにはちょうどいい)
強い人間は折るのに手間がかかる。
けれど、最初から居場所の少ない子は違う。
視線と噂と、ほんの少しの優しさだけで、簡単に揺らぐ。
学院という檻の中でじわじわと追い詰めて、居場所を削る。
その過程で、レオンからネックレスの出どころまで引っかかれば儲けもの。
引っかからなくても、レオンの顔は歪む。
(どちらに転んでも、損はしない)
リゼは扇子を開き、口元を隠した。
「さあ、レナちゃん。少し遊びましょうか」
甘い声が、夜の揺れに溶ける。
精神から削るのが先か。
身体から試すのが先か。
欲しいのは結末ではない。
崩れていく途中の顔だ。
「あなたが泣く時、あの子はどんな顔をするのかしら」
夜景がリゼの瞳に灯りを落とす。
その光は祝福でも慈悲でもない。
壊れる瞬間を待つ観客だけが宿す、悪辣な期待の色だった。




