第66話 嘘なら素敵だったわね
◆レナ視点/リゼの館
「さ、奥へどうぞ。あなたにお願いしたいものがあるの」
リゼの声は柔らかかった。
先日のカフェと同じ、穏やかな響き。
案内されたのは、サロンの表とは繋がらない廊下の奥だった。
壁の灯りが一段落ちて、空気が変わる。
書庫のような部屋。
机の上に無造作に積まれた紙束。
分類もされていない膨大なリスト。
背表紙のない帳簿が何冊も、棚から溢れかけている。
「数字の確認と振り分けだけでいいの。難しいことはないわ」
リゼが一枚の書類を指先で示した。
爪の赤が、紙の白に映える。
レナは椅子に座り、最初の一枚に目を落とした。
数字が並んでいた。整然と。事務的に。
――年齢。
――性別。
――特性。
――引き渡し価格。
その下には「加工済」「未調整」の分類欄。
見慣れない略語が続く。
薬物検体コード。処理済ルート。魔術適性の等級。
指先が止まった。
紙を持つ手が、微かに震えている。
「……これ……人の、情報ですか」
声が掠れた。
書かれている内容が何を意味するのか、読んだ瞬間に分かってしまった。
「移送リストよ」
リゼは背後に立ったまま答えた。
「人を買って、売って、契約先に渡す。役割は色々あるけれど、基本はそれだけ。……知らない方が、きっと幸せだったわね」
レナの背筋が冷えた。
指先から体温が引いていく。
ここは、ただの仕事場ではなかった。
「このあと、少しだけ現場も見せてあげる」
断る隙は、最初から用意されていなかった。
廊下は薄暗い。
壁に染みついた香と薬品の匂いが、呼吸のたびに喉の奥にまとわりつく。自分の意思で歩いているはずなのに、体が自分のものではないような感覚がする。
リゼが立ち止まった。
扉に小さな覗き窓がある。
四角い穴から覗いた向こう側に、人がいた。
少女だった。
手首を拘束され、椅子に括りつけられている。
意識が朦朧としているのか、頭が揺れていた。
唇が動いている。何かを呟いているのに、言葉にならない。
「魔物との契約用の素材。価値のある子は丁寧に扱うの。雑に壊しちゃうと、もったいないでしょう?」
リゼの声には、罪悪感の欠片もなかった。
まるで、陳列棚の商品を説明するように。
次の部屋。
魔術加工の装置が並んでいた。乾燥した何かが棚に分類されている。肉のように見えた。魔石と一緒に、ラベルを貼られて。
胃の底が、ひっくり返りそうだった。
レナは壁に手をついた。
爪が食い込む。吐き気を、呼吸だけで押し返す。
「レオンも請け負っていたのよ。移送も、殺しも。彼、処刑人って呼ばれてるの」
リゼの声が、背中に落ちた。
足が止まった。
聞き間違いではない。
聞き間違いであってほしかった。
「……嘘」
振り返る。リゼは微笑んでいた。
「嘘なら素敵だったわね」
その一言で、リゼの仮面がするりと剥がれた。
もう必要がなくなったから、自分で外したのだ。
先日のカフェで見せていた穏やかな笑顔の下から、別の温度の瞳が覗いている。
「彼、顔色も変えず人を殺すじゃない。あなた、知らなかったの?」
甘い声。残酷な内容。その二つが同じ口から出てくる。
レナの視界が滲んだ。世界の輪郭が崩れていく感覚だった。
信じてきた日常が、足元から剥落していく。
レオンの横顔。不器用な優しさ。あの冷たい指先が、自分の肩を支えてくれた夜。同じ手で、多くの人を殺していた。
「ねえ、レナちゃん」
リゼが一歩近づいた。
覗き込むように、顔を傾ける。
「あなた、レオンの何を見ていたの?」
言葉が胸を貫いた。刃よりも鋭く。
答えられなかった。
「どっちが怖いのかしら? レオンの過去?それとも、彼の隣に立っていた自分?」
レナが震える指先で壁を掴んだまま、呼吸だけで必死に現実を支えている。膝が笑っている。このまま崩れ落ちたら、二度と立てない気がした。
その様子を眺めながら、リゼはふっと長い睫毛を伏せた。
口元に浮かんでいるのは微笑みだった。
だが、カフェで見せたものとは、もう何もかもが違っていた。
「──そろそろ、かしらね? あなたがここに来たことは、部下が伝えてるのよ」
レナの体がびくりと跳ねた。
「……誰に」
「決まってるじゃない」
リゼは赤い扇子を開き、口元を隠した。
隠した下で、笑っている。
「レオンに」
空気が凍った。
レナの脳裏に、レオンの顔が浮かぶ。
冷たい碧の目。
「あまり一人で出歩くな」と言った声。
「あの子はね、あなたの居場所を知りたがるでしょうから」
リゼは扇子をぱちん、と閉じた。乾いた音が廊下に響く。
「可愛いペットを囲うみたいに、あなたのそばにいるの。……気づいてるでしょ?」
レナの肩が震えた。
呼吸が速くなる。
理解と否定がせめぎ合って、喉がうまく動かない。
その二つの境界線が、今、目の前で溶けて消えようとしている。
リゼの瞳が、暗い廊下の中で金色に光った。
「さあ。ここからが面白いところ」
廊下の奥で、重い扉の軋む音がした。




