第59話 何がそんなに彼を惹きつけたの?
◆組織の屋敷〜魔術学院前/リゼ視点
リゼは扇子を口元に寄せ、笑みを作った。
いつも通りの、計算された笑みだった。
組織に与えられた屋敷へ戻る。
仕事用に整えられた部屋は無駄がない。
磨かれた机。整列した資料。香を控えた空気。
あの男──レオンは、変わらないからこそ扱いやすかった。
裏稼業に向いた心の構造。必要最低限の欲。冷えた合理。
人を切り捨てる時に、迷いがない。
歪んだ美しさすらあった。
それが──変化している。
確信ではない。
ただ、長い付き合いで培われた勘が告げていた。
皮肉がなかった。冷笑もなかった。
あの男が黙る時は、何かを拒絶している時だけだ。
胸の内に、嫌な予感が落ちる。
恋でも情でもない。レオンにそんなものは似合わない。
だが、もしも──
思考がそこへ触れかけた瞬間、リゼは立ち止まった。
(違う。そこまで飛ぶのは早い)
可能性はいくつもある。
学院で何かあったのかもしれない。
誰かと揉めたのかもしれない。
けれど、どれも決め手がない。
確信の持てない状況ほど、リゼにとって苛立つものはなかった。
「……調べる必要がありそうね」
誰に向けたでもない呟きが、夜に落ちる。
扇子が閉じられ、硬い音を立てた。
情報こそが、彼女の財産だ。
得体の知れない変化を放置するなど、あり得ない。
翌日から、リゼは学院外縁の記録を洗い始めた。
旧研究棟近傍の外部監視記録。
そこに、夜半の崩壊級波動という数字だけが浮いていた。
禁術監察局が動く案件だ。
(レオンが変わる理由? 滑稽ね。そんなもの、あるはずがなかったのに)
赤い唇が微かに歪む。
だが一つだけ、揺るがない事実がある。
今のレオンは、少なくとも今までのレオンではない。
それが愉悦か、不快か──答えはまだ出ない。
けれど、リゼはもう歩き始めていた。
数日後。
リゼの机に、魔力封印された黒い封筒が置かれた。
差出人は──禁術監察局。
本来なら局から届くはずがない。
届いたのは、局の末端に金を流したからだ。正式な書類ではなく、非公式の観測記録の写し。
封を切ると、短い報告書が現れた。
──学院外縁。旧研究棟近傍。
──夜半、崩壊級の魔力波動を観測。
──翌朝の外部観測では建造物の外観に顕著な損壊なし。
──結界封鎖により内部確認不能。
──原因不明。学院は「事故」として処理予定。
──監察局として外部監査の実施を要請中。
リゼは紙を指で弾いた。
(崩壊級の波動が出て、外観が無傷? そんなの、あり得ない)
そして、ふと――あの男の沈黙が重なる。
(学院の矛盾と、レオンの変化。同じ線上にあるなら)
照準は自然と決まった。
まず照準を合わせたのは、レオンの隣にいたあの女。
夜会用の机に魔力記録を数枚並べる。
魔術師の観測眼で記録された少女の姿を見た瞬間、思わず肩が落ちた。
「……地味」
率直な感想だった。
目は素直で綺麗。
清潔感もある。
けれど、華やかさは皆無。
化粧気ゼロ。流行から外れた服。装飾品もほとんどない。
たまに身につけている高価そうな服や小物は、調べた限りレオンが与えたものらしい。
「……これが好みって? さすがに笑うしかないわね」
記録を弾き、机に落とす。
(魔力資質はEクラス。孤児。素行優良。友人少なし……ただの小娘にしか見えない)
資料を読み返すたび、眉間が痛む。
本気で分からなかった。
「……地味すぎて逆に刺さる、ってこと?」
乾いた笑いが漏れる。
沈黙の質が違った。
今までの彼なら、皮肉のひとつでも返して距離を測ったはずだ。
「壊れてるのか、恋なのか……どっちでも厄介ね」
彼女に触れれば――レオンは確実に敵に回る。
その未来だけは、はっきり想像できた。
リゼはゆっくりと息を吐き、再び資料に目を落とす。
(……何がそんなに彼を惹きつけたの?)
記録の少女は答えない。
だが、沈黙はかえって不気味だった。
(調べる価値はある。少なくとも、私の縄張りに影響が出る前に)
扇子がぱたりと閉じられた。
学院への侵入は、思ったより簡単だった。
禁術監察局の外部協力顧問という肩書きは、リゼが三日かけて仕立て上げた。局の末端から盗み出した書式、買収した事務官の署名、魔力封印の複製。学院側が照合するのは書類の形式だけで、発行元への確認など取らない。必要なものを揃えれば、あとは相手の怠慢が通してくれる。
黒塗りの馬車が静かに正門を抜ける。
ステップを降りたリゼは、学院の空気を一度だけ吸い込んだ。
魔力の密度が高い。さすが、とだけ思った。
正門から数歩、石畳を踏んだところで、声が降った。
「外部協力顧問? 随分と大仰な肩書きですね」
石壁の影から現れる白衣の青年。
銀髪、紫の瞳、穏やかな微笑。
それなのに、空気が一段、冷える。
リゼは即座に読んだ。
待ち構えていた。偶然ではない。
オルフェ・クライド。
Sクラス。禁術管理指定者。書類で名前は見ていた。
「あら。歓迎してくれるの?」
「学院から外部協力顧問が来るということを耳にしましたので」
笑みを崩さないまま、探っている。
リゼは扇子を開いた。
「旧研究棟の件。崩壊級の波動が出たのに、翌朝の外観は無傷。学院だけで事故として片付けるには、無理があるでしょう?」
オルフェは黙って聞き入れる。
だがその目は、笑っていなかった。
リゼは肩をすくめる。
オルフェはそのまま歩き出す。
リゼはひと呼吸置いて、後に続いた。
背中を見ながら、内心で一つだけ記録する。
(この男――要注意)
学院の石畳が、ヒールの音を吸い込んでいった。




