第58話 仕事はもういらない
◆学院近くの街・喫茶店/レナ視点
夕方の街は、華やいでいるのに、どこか薄く冷えていた。
舗道の花壇には季節の花が咲き、路地裏の喫茶店からは柔らかな音楽が滲んでくる。人々のざわめきと重なり合ったその音の中を、ひときわ目を引く二人が歩いていた。
金髪碧眼の少年と、赤い髪の少女。
通りすがりの視線が、無意識にその背を追う。
「綺麗……」
「誰?」
「隣の子は?」
囁きは風にほどけて消えていく。けれどレオンは、そんなものなど最初から存在しないかのように歩みを崩さない。
ただ、その意識のどこかだけが、隣を歩くレナに触れ続けていた。
喫茶店の扉が開き、ベルが澄んだ音を立てた。
「わあ……ここ、初めて来る」
席に腰を下ろしたレナは、店内をゆっくりと見渡した。
深い色の木のカウンター。壁一面の本棚。淡く落ちる照明。静かなのに冷たくはなくて、誰かの気配がちゃんと残っているような店だった。
「いい店だろ。静かで、飯も悪くない」
レオンはメニューを開いたまま言う。
いつも通り淡々とした声なのに、今日はその奥に、かすかなやわらかさが混じっていた。
「ここ、時々使ってるの?」
「まあな。……ああ、そういえば」
ふと、レオンの視線がレナへ向く。
「合鍵、まだ持ってるだろ」
「えっ……うん、あるよ。無くしてないよ」
そう答えた途端、なぜか自分が少しだけ試されたような気がして、レナは指先で机の縁をそっと撫でた。
「……また作ってくれよ。飯」
一瞬きょとんとして、それからレナは小さく笑った。
「うん、わかった。また作るね」
その返事に、レオンの目元がほんのわずかに緩む。
自分でも気づかないほど、小さな変化だった。
「そうだ!」
レナは、ぱっと思い出したように声を上げた。
「あっ、それじゃその時、誕生日プレゼント渡すね! ドタバタして、過ぎちゃったけど……」
レオンの眉が、かすかに動く。
「お前、また変なバイトでもする気じゃないだろうな」
「あはは、今回はしないってば。ちゃんと用意してあるの。……結構、実用的なやつだから」
「実用的?」
「うん。ずっと使えるもの、かな。 だから……受け取ってほしいな」
レナの声は明るかったがその言い方だけが、どこか妙に静かだった。
「……まあ、期待しておく」
ちょうどその時、店員がケーキと紅茶を運んできた。
立ちのぼる湯気が二人のあいだをやわらかく曇らせ、甘い香りがそっと落ちる。
喫茶店を出て、寮へ続く石畳を並んで歩いていた時だった。
「……ちょっと、話があるの。いいかしら?」
街灯の下に、女が立っていた。
艶やかな赤のドレス。丁寧に巻かれた髪。紅い唇。
夜の中で、その女だけが別の温度をまとっているように見えた。
「リゼ……」
レオンが、その名を低く呼ぶ。
「……あら、お邪魔だった?」
リゼは女優のように笑った。
その目が、ほんの一瞬だけレナをなぞる。
値踏みするような視線だった。
けれど熱はなく、ただ店先の商品を見る時のように淡い。
レナはぞくり、と背筋が冷えた。
うまく説明はできない。
けれど本能だけが、この人に近づいてはいけないと告げていた。
「……先に帰っててくれ」
レオンがそう言う。
「え……でも……」
呼び止める言葉は、喉の奥で固まった。
レオンはもう、リゼの方へ一歩踏み出していた。
街灯の輪を抜け、二人の背中が夜の奥へ沈んでいく。
笑い声と靴音だけが、薄く、遠く、石畳の上に残った。
レナはその場から動けなかった。
指先だけが、やけに冷たかった。
まるで、彼だけが自分の知らない扉を開けて、その向こうへ戻っていくみたいだった。
知っていると思っていた背中が、急に遠くなる。
さっきまで隣にいたはずなのに、今はもう、手の届かない場所にいるようだった。
レナは黙ったまま、その背が闇に溶けきるまで見ていた。
***
◆夜の路地裏/リゼ視点
路地裏の石畳に、リゼのハイヒールが乾いた音を刻む。
その背後を歩くレオンは、ただ黙っていた。
以前の彼なら、こんな沈黙はしなかった。
ひとつ挑発すれば、薄く笑って返してきたはずだ。
相手の腹を探るように、あるいは喉元に刃を添えるように。
けれど今夜のレオンは、視線ひとつよこさない。
「ねえ、レオン。ザイラスの件、妙に綺麗に終わったわね。拠点は潰れたのに、背後に繋がる線だけ何も残っていないなんて」
レオンは何も答えない。
「でも、しょうがないか。キメラにまで手を出して、学院や街の近くで騒ぎ始めてた。あれはやりすぎよね」
リゼは肩をすくめ、唇だけで笑った。
「ザイラスはやりすぎた。背後がいたとするのなら、むしろ、手間が省けたって思ってるかもね」
それでも、レオンは沈黙したままだった。
反応がないこと自体が、逆に妙だった。
「……ふふ。あの子は学院のお友達かしら?」
リゼは振り返り、甘くやわらかな声で言った。
けれど、その声の芯には細い毒が通っている。
レオンの足が止まる。
横顔は無表情だった。
「……さあ」
「珍しいわね。あんな地味な子を気にかけてるなんて」
リゼは試すように笑う。
それでもレオンは、何も言わない。
「──まさか、本気で気に入ったとかじゃないでしょうね?」
軽い調子の問いかけだった。
だがその奥には、警戒と薄い侮蔑が混じっていた。
この世界で、情は綻びになる。
「リゼ、伝えたいことがある」
「何かしら?」
「仕事は、もういらない」
唐突で、揺らがない声だった。
扇子を揺らしながら、リゼは目を細める。
「急に真っ当ぶって。人を殺すのは、貴方の得意技でしょう?」
「学院の金で足りる。もう、わざわざ依頼を拾う必要はない」
夜気が、ひやりと肌を撫でた。
「急に手を引かれては困るのよ」
「すぐには切らない。……だが、距離は置く」
短い沈黙が落ちる。
「つまらなくなったわね、貴方。闇に沈むのが似合う男だったのに。学院で、そんなに楽しいことでもあった?」
皮肉だった。
けれどレオンは、もうその言葉に針を返そうともしない。
「お前は、仲介だろ。俺の事情を詮索する権利はない。依頼の受け渡しだけしていろ。俺の選択に踏み込むな」
言葉を残し、レオンは踵を返す。
迷いのない足取りだった。
その背中を見つめながら、リゼは扇子の骨を指先で軽く叩く。
変わった。
それも、上辺だけじゃない。
前のレオンなら、何かを切り捨てる時でさえ、そこに愉しさか残酷さがあった。けれど今の彼は違う。何かを守るために、自分から闇を切ろうとしている。
それは、らしくない。
らしくないくせに──妙に厄介だった。
「さて、どうしたものか」
闇の向こうへ彼の影が消えたあと、リゼはようやく小さく息を吐いた。
笑みは浮かべたままなのに、その目だけは少しも笑っていなかった。




