第二十四話 魂の力(下)
カノンは壁を突き抜けた瞬間、まるで体があらゆる方向に捻れたような感覚にとらわれ、腹部から押し上げられるような圧迫感に耐えきれず彼女は思わずその場に吐き出してしまった。彼女の吐き出した汚物が地面で跳ね、メイド服の裾を汚してしまう。
シラノはそんな彼女の様子を少し離れた場所から眺めながら落ち着くのを待っていた。
「限定的な異界として作り上げた空間なのだが……さすがにキツかったかな?」
「見苦しいものを……お見せしまして、申し訳……ございません」
シラノが涙を浮かべ謝る彼女を見ながら指を鳴らすと、嘔吐物のかかった部分から蒸発するように白い煙が立ち上がり始め、見る見るうちにそれは消えて綺麗になった。
「さて、ここで君に秘術を授けようと思うのだが、体調はもう大丈夫かね?」
「問題ありません」
カノンは有る程度余裕が出てくると自分がどこにいるのか確認するように辺りを見回した。そこは延々と広がる暗闇の中。しかし、彼女は自身が立つ周囲の石畳のみは見えており、ある一定以上先の場所はまるで闇に飲まれているかのよう一切見えなくなっている。
「では、これから起こるすべてを受け入れたまえ」
シラノはカノンの眉間にそっと指を当てると、そのままドミノでも倒すかのような気軽さでそっと押した。それになんら抵抗することなく、カノンはその力に任せてゆっくりと後ろへ倒れ込んだ。
彼女はまるで夢を見ているようだった。体の感覚はなくまるで魂そのものがむき出しになった感覚に、彼女は若干不安に駆られる。
(ここは……)
彼女はゆっくりと目を開けると、眼前には遠ざかっていく青く輝く光の揺らめき。それを見て彼女はここが海の中であり、海底へ向けて沈んでいく最中なのだと理解する。それと同時に、彼女はいつか同じ様なことがあったなと思い出す。
それはカノンがクトゥルフと契約を果たした日。ルルイエへと到達した日の状況に酷似していた。
(ということは、今回もルルイエに行くのでしょうか……)
――それは違うとも。君には今から、クトゥルフと契約するのではなくクトゥルフそのものを取り込んでもらう。
(……へ?)
完全に視界から光が遠ざかり、辺りがすべて暗闇に包まれると、彼女の頭の中にシラノの声が響きわたった。
(それは……一体どういう……)
――言葉通りの意味だ。この術式の発動には、強大な依り代があったほうが都合がいいものでね。安心したまえ。今の君にあれと戦えなどというつもりはない。君はただ、あれを自身の魂に受け入れればそれでいい。あとはこちらでどうにかしよう。
カノンはその言葉に聞き入っていると、いつの間にか海底に横たわっていた。
(あの時と同じ……)
以前ルルイエを訪れたときのように立ち上がり辺りを見渡すが、そこにかの年はなく、見渡す限り暗闇が続いているだけだった。
しかしそれでも、彼女は以前と同じように自らの意志とは関係なく歩き始めた。
どれだけの時間歩いたか分からないが、彼女は以前のように発狂しそうになるようなことはなく、永遠にも感じられる時間を歩き続けていても、まるで苦にすら感じなかった。
(そうか……こうして一人で尋常ではない場所に来てみると実感できますね。確かに私は人間ではなくなってきているようです)
そんな自虐に走っていると、彼女の視界に巨大な物体が現れた。タコの様な頭部に鋭い鉤爪を持つそれは、以前彼女が会った時のように眠ってはおらずはっきり起きていると分かるが、以前と違うのはそれだけではなかった。
その巨体は全身が鎖に雁字搦めに拘束され、地に伏していた。
(……クトゥルフ)
地に伏してもなお彼女の数十倍は巨大な体は、見るものすべてに恐怖を与えるほどの威圧感を放っていたが、彼女はそれを目にしても何も感じることはなかった。
――さて、君は今困惑しているのではないだろうか。かつて恐怖した偉大なクトゥルフが、今や下の存在としてしか認識できないのだろう。
聞こえてくるシラノの声に、カノンは図星を付かれ動揺してしまった。彼女は眼前にいる巨大な旧支配者が、まるで下等な家畜か何かにしか思えなかったのだ。
――そうだ、それでいい。君はこれからそれを自らの魂に取り込み支配するのだ。その無力な旧支配者に触れ、それを自らのものにするといい。その時から君は私と同じものだ。
カノンはシラノの言葉を聞き、その内心は喜びに満ちていた。そしてその内心とは裏腹にゆったりとした動作でクトゥルフへと近づき、その頭部にゆっくりと手を伸ばした。
(ああ、かつて私に力を貸してくれた偉大なるクトゥルフよ。あなたの魂は、私の為に有意義に使わせていただきます。それが巡り巡ってシラノ様のお役に立てるのなら、あなたにとっても至高の喜びでしょう)
彼女はそのままクトゥルフに触れると、自身の中に暖かくも冷たい、何とも名状しがたい力が自身の中に流れ込んでくるのを感じ、そのまま意識を失った。
「さて、カノン。準備は良いかね?」
「問題ありません、シラノ様。いつでもいけます」
ヘンネフェルト城の上空に浮かぶ彼等は、眼前に広がる城下町を見下ろしていた。
すでに明かりの灯っている家はほとんどなく、月と星々の明かりが待ちを照らしている。シラノはいつもの様に漆黒のローブを身に纏い薄ら笑いを浮かべているが、カノンの様相は普段と全く異なっていた。彼女は普段の様な白と黒のメイド服ではなく、黒一色のメイド服を来ており、ある種の不吉さを纏っている。
そして彼女の姿形は、もはや人間というにはおぞましいほどの様相をしていた。彼女の皮膚はゴム状の質感を持っており、全身に鱗のような模様が浮き出ている。彼女の手には長く鋭い鍵爪が付いており、その髪は一本一本全てが細い触腕になっている。
「何度もいうようではあるが、君のその姿は術が定着しきっていないが故に唯一取り込んだ魂が前面に出てきてしまっているに過ぎない」
「承知しております。シラノ様」
シラノは気を使ってカノンにその話しを何度かしているが、しかし彼女としては既に人の姿形に執着はなかった。
「ならばよろしい。では、手始めにこの領地に住むすべての魂を取り込んできたまえ。私もいい加減彼らから届く嘆願書にはうんざりしていたのだから、これで一石二鳥というものだ」
「もしかしたら、実は私に体良く始末させようとしているだけではありませんか?」
「そんなことは断じてないとも」
シラノは飄々とした様子で答えた。
「もしそうだとしても、正直にそう仰ってくだされば私は実行しますよ。私はこの力を持ってシラノ様にお仕えすると決めたのですから」
そう宣言して、彼女は宙を浮きながらゆっくりと前に進む。そして彼女は右手を掲げ一つの魔術を発動した。
空高くに展開されたその魔方陣は以前シラノがエルフの森で展開したものより俄然小さいが、それでもこの世界の基準からは大きく逸脱した規模のものだった。
「幸いこの領地には海がありますし、全てを飲み込んでしまえば早いでしょう」
そして彼女は展開した魔術を発動するために、掲げた手を無慈悲に振り下ろした。
――その日、ヘンネフェルト領は未曾有の大津波に襲われ壊滅した。そして不思議なことに、その津波は拡大したエルフの森の直ぐ手前でとまり、それ以上浸水せずに引いていったのだという。




