第二十三話 魂の力(上)
「エルフの森の領土侵犯に対する調査嘆願書に森林の樹木の異常成長に関する調査嘆願書。全く、最近私の元に届く書類は半分以上が嘆願書だ。私はこれでもこの領地を少しでも良くしようと日々努力を重ねているというのに、彼等は一体私にこれ以上何を求めているのやら。カノン、君はどう思うかね?」
執務室にて届いた様々な書類を見比べながら、シラノはやっていられないと言わんばかりにため息を付いた。そんなシラノの様子に執務室の扉の横で待機していたカノンが辛辣に答える。
「強いていうならシラノ様が悪いかと」
「君は雇い主の私に対していつも辛辣だな」
「そのような事はありません。むしろ私はシラノ様を信仰していると言っても良いほどです」
「君は数秒前に自分がした発言を覚えているかね?」
コントのようなやり取りにシラノは自分で突っ込みを入れるが、当然のようにカノンからの反応はない。彼は一端書類をすべて横によけると、休憩だと言ってカノンにお茶を用意させた。
「君も実はピクニックの件で怒っているのかね? エレナはピクニックから帰ったかと思えば何故か憤慨して私に危険手当を要求してきたが、もしかすると君もその口かね」
「いえ、私はむしろとても有意義なものになったと感じています。シラノ様の術式を間近で見ることが出来たのですから。あれを見て、私はまだまだ人の身から逸脱出来ていない事を痛感しました」
カノンは森から帰ってすぐに、あの森で起きた異変を仕事仲間から伝え聞いていた。曰く、アードラース領の南にあるヘンネフェルト領の半分にも及ぶ土地が森に飲み込まれたとか。それを聞いてほかのメイドがこの領土はどうなるのだろうと話しているのを横目に、彼女は改めてシラノの偉大さに感銘を受けていた。
シラノの所業を一般人が聞けば与太話だと信じないか、信じた者は恐れて彼に近寄れないだろう。しかしカノンは人をやめたその日から、徐々に人としての恐怖や驚愕といった感情を無自覚に失いつつあったため、彼の魔術を見ても畏敬の念を抱けども、単純な恐怖といった感情は抱かなかった。
「安心したまえ。君は徐々にではあるが確実に人からはずれていっている。今君が隠している背中の羽が良い証拠だ」
シラノの言っていることは紛れもない事実であり、彼女の感性が人のそれから逸脱してきたということは、それだけ彼女の思考が旧支配者的なものに近づいているという事でもある。それでも契約者は所詮契約者であり、完全に人を何とも思わないようになるほど汚染されるにはまだまだ時間が掛かる事を知っているシラノは、その変化を放置していた。
もしもこれだけの力と異形の体を持ちながら、その思考が完全に人から逸脱し狂気に染まりあがったのなら、それはもはや人ではなく、全く別種族と言って差し支えないだろう。そういった意味では、彼女はまだまだ人の範疇にいるといって間違いなかった。
「私は……私は最近改めて貴方のそばに仕えたいと考えるようになりました。貴方が私などの下等な存在の助けなど必要ないことは重々承知しております。ですが、それでも許しを頂けるのなら、私は貴方に仕えたい」
まっすぐとシラノを見つめるカノンの様子に、彼は片目をつぶってしばし考える。
「私には君が何を思ってそう考えたのかは理解出来ないしするつもりもないが……そうだな。私は元々君の好きにさせようと思い私に仕えることを許可したのだったな。ならば、そうするのも一興か」
一人で納得するシラノの様子に、カノンは不信そうに首を傾げた。
「どの程度の存在が私に仕えるに値すると考えているのかは知らんが、そこまでいうなら君にある秘術を授けよう。他者の魂を喰らえば喰らうほど自信の存在が高みへと昇華されていく呪いのような魔術だよ」
シラノから魔術を与えてもらえると聞いたカノンは、すでにいつもの落ち着いた表情ではなく、子供のようにきらきらとした期待した瞳でシラノをじっと見つめていた。しかし冷静な部分もあるようで、そのシラノの言葉に引っかかりを覚えた彼女はふと思った疑問を口にした。
「呪い……ですか? その話だけを聞くと、良いことしかないように思えるのですが……」
「ああ、本当に呪いだよ。自信の存在が高みへと昇華されていくというのはとても気持ちの良いものでね。俗的だと思うかもしれないが、そういった快楽に人はとても弱いのだ。現に私も、それに憑かれてしまったことがあってね。滅ぼしてしまったのは、それも原因の一つではあるのだが……」
「滅ぼした……ですか?」
「いや、こちらの話だ。それよりも秘術の事だったな。後に回すようなものでもないし、定着にも一日ほどかかる。すぐに行ってしまおう」
語りすぎてしまったと感じたシラノは少々強引に話を戻した。すぐにという事で喜びを口にしたくなったカノンは、机に積まれている書類の山を見てそれを控える。
「あの……シラノ様。この書類の山の処理はどうするのですか?」
「問題ない。どうせ殆どが嘆願書だ。有象無象の嘆願など、気にする必要などあるまい?」
「え……でもこの前のエルフの嘆願は」
「では行くぞ。ついてきたまえ」
カノンの話を遮るようにして、シラノは付いてくるように促した。部屋から出るシラノの後を、彼女は駆け足気味に追っていった。
しばらく歩いていくと、彼等は一つの扉の前で立ち止まった。そこはこの城で働くもの全員が入ってはいけないとキツく言いつけられている場所だった。
「あの……ここは……」
それ故にシラノが扉を開けて入ってくが、カノンはその前で躊躇していた。
「構わんよ、これからすることは、誰にも見られるわけにはいかなくてね。私も人のことは言えんが、普通の場所ではどこに黒い神父の目があるか分からんからな」
「……黒い神父様?」
黒い神父に関しては一切触れずに、シラノは扉の向こうに続く階段を下りていく。それをカノンが慌てて追いかける。
まるで地の底まで続いているのではないかと思うほど深い階段に、カノンは若干不安になった。
「あの……これはどこまで続いているのですか?」
「もうすぐだ」
そして彼らはしばらく無言で階段を下り続けると、無骨な鉄の扉の前に着いた。
「シラノ様、この文字にはなんと書いてあるのですか? 最近勉強していますが、やはり難しい言葉は読めなくて……」
「ふむ……まあ今の君には丁度いい言葉かも知れないな」
「え?」
シラノがカノンの疑問の声には答えずに、ゆっくりと扉を開くと、そこには玉虫色をした不定形の肉塊が相も変わらず蠢きながら宙に浮いていた。
それを視界に入れたとたん、カノンは全身が震えるのを抑えることが出来なかった。それでも狂気に走らずにいられたのは、それが本体ではなくほんの一部分にすぎなかったからだろう。
「し……シラノ……様。あ、あれは……?」
「あれについては気にするな。私達が目指しているのはここより更に奥の部屋だ。あれは今の君では少し荷が重い」
シラノはカノンの震えを気にせず更に部屋の奥へと歩いていく。彼女はそんな彼を追うために、生まれたての子鹿の様に震える足を必死に動かし歩いていった。
シラノは降りてきた階段とは反対側の壁へと到着すると、そこで立ち止まってカノンが辿り着くのを待った。部屋の広さはそこそこのものだが、普通に歩けば十秒掛かるものではない。しかし彼女の足は震えており一歩一歩がとてもゆっくりにしか動かせず、シラノの元までたどり着くのにしばし時間を要した。
「申し訳……ございません……」
「気にする必要はない。こっちだ」
カノンの謝罪を軽く流すと、シラノはゆっくりとそのまま壁に向かって進んでいき、そのまま壁をすり抜ける。
「え?」
「そのまま突き抜けて来たまえ」
壁の向こうから聞こえるシラノの指示に、カノンは意を決し思い切り壁へと飛び込んだ。




