9大きな計画
翌朝、村を出るころには、空は薄く晴れていた。
夜のあいだに冷えた空気が、まだ道の端に残っている。
宿の前では、荷運びの男と宿の手伝いが、昨日の荷車を囲んでいた。
車輪を外し、車軸を確かめている。
二人の間にまだぎこちなさは残っていたが、昨夜のような刺々しさはない。
宿の主人は、柵のそばで二人に何かを説明していた。ときどき広場の方を指差している。
おそらく掲示板の位置も含めて、荷車の通り道を見直すつもりなのだろう。
リテナはそれを見て、小さく息を吐いた。
「ちゃんと話してるね」
「ああ」
ケンサクは短く答えた。
壊れたものは、直せばいい。
そう言った。
だが、直し始めるには、まず壊れていると認めなければならない。
それだけでも、この村にとっては少し難しいことだったのかもしれない。
ゼドは少し離れたところで、その様子を黙って見ていた。
白い外套はいつも通り整えられ、表情もいつも通り少し偉そうだったが、その目は昨日より少しだけ静かだった。
宿の主人がゼドに深く頭を下げる。
「お気をつけて。勇者様にも、どうぞよろしくお伝えください」
「うん」
ゼドは短く頷いた。
「荷車はちゃんと直しておけよ。また同じことになったら意味がない」
「はい。必ず」
主人はもう一度頭を下げた。
荷運びの男と宿の手伝いも、気まずそうに、けれど並んで頭を下げる。
「その……ありがとうございました」
ケンサクは首を振った。
「俺は見ただけだ。直すのはそっちだろ」
荷運びの男は少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「……はい」
リテナが笑う。
「頑張ってね」
「はい!」
今度は宿の手伝いも、少しだけ表情を緩めた。
一行は村を出た。
白い旗が朝風に揺れている。
整った道。
きれいに並んだ家々。
昨日と同じ村なのに、朝の光の中では、少しだけ違って見えた。
それでも、勇者の印は変わらず村の入口に掲げられている。
ゼドが先頭に立つ。
「ここから拠点までは半日くらいだ。昼を少し過ぎる頃には着く」
「本当に近いんだな」
「拠点の手前の村だからな」
しばらく歩いたところで、ケンサクはふと思って口を開いた。
「なあ、ゼド」
「なに」
「ここまで来れば、お前一人でも拠点まで行けるんじゃないか?」
ゼドが振り返った。
その眉が、少しだけ不満そうに寄る。
「ここまで来たんだから、勇者様の拠点を見ていけ」
「見せたいのか?」
「別に」
ゼドはすぐに前を向いた。
けれど、その声には隠しきれない誇らしさがあった。
「でも、見れば分かる。勇者様がどれだけ世界を守っているか」
リテナが少しだけ緊張した顔になる。
「勇者様の拠点か……」
ホタルはケンサクの肩で小さく光った。
「ケンサク、どうするの?」
その声は、いつもより少し静かだった。
「……そうだな。ここまで来たんだ。見ていく」
道は森を抜け、ゆるやかな丘陵に変わっていった。
空が広い。
遠くには低い山並みが見え、草原の向こうに、白い街道が一本伸びている。
拠点に近づいているからか、道はよく整えられていた。
石は取り除かれ、ところどころに白い道標が立っている。
ケンサクは歩きながら、前を行くゼドに尋ねた。
「勇者は、何を目的に平和を守ってるんだ?」
ゼドは足を止めかけた。
それから、不思議そうに振り返る。
「目的?」
「ああ」
「変なことを聞くな」
「変か?」
「変だろ」
ゼドは少し考えるように目を伏せた。
「平和を守るために、勇者様は存在する」
迷いのない答えだった。
ケンサクはその言葉を受け止める。
「それは目的というより、役割じゃないか?」
ゼドは眉を寄せた。
「役割と目的って、そんなに違うの?」
「違う場合もある」
「じゃあ、お前は何のために生きている?」
今度はケンサクが黙った。
ゼドは前を向いたまま続ける。
「生まれたから生きている。そう答える人もいるだろ。理由なんて、後からつけるものだ」
風が草を揺らす。
ゼドの白い外套の裾も、少しだけ揺れた。
「勇者様が平和を守るのも、それと同じくらい自然なことだ」
ケンサクは返事をしなかった。
自然なこと。
生まれたから生きる。
息をする。
水が低い方へ流れる。
太陽が昇る。
それと同じくらい自然に、勇者は平和を守る。
もし本当にそうなら。
もし勇者にとって平和を守ることが、目的ではなく存在そのものなのだとしたら。
それを止めるには、どうすればいい。
ケンサクは胸の奥で、声にならない問いを立てた。
どう止める?
その前に何を止める?
答えは返ってこなかった。
前の世界の知識でも、この世界の知識でもない。
これは人の心と、役割と、存在の話だ。
ケンサクの中に、すぐ使える答えは浮かばなかった。
しばらく歩くうちに、道は少し広くなった。
ゼドとリテナが前の方で、道標の文字を見ている。
その隙に、ケンサクは肩のホタルへ小さく声をかけた。
「ホタル」
「なに?」
「勇者を止めるとして……何を、どう止めればいい?」
ホタルの光が、ほんの少しだけ揺れた。
いつものように茶化す気配はない。
「……難しいね」
「そこはもう少し具体的に言え」
「言えるなら言ってるよ」
ケンサクは目を細めた。
「お前、何か知ってるだろ」
「知ってることと、言えることは違うんだよ」
「便利な言い訳だな」
「便利じゃないよ」
ホタルの声は、珍しく軽くなかった。
「勇者は、悪意で動いてるわけじゃないから」
「それは分かってる」
「それに、勇者は……平和を守ることから降りられない」
ケンサクは歩みを少しだけ遅める。
「降りられない?」
ホタルはすぐには答えなかった。
光が、小さく揺れる。
「勇者だから」
「説明になってない」
「うん」
ホタルは短く言った。
「でも、それが一番近い」
ケンサクは前を歩くゼドの背中を見る。
勇者の従者。
信じる者。
勇者に救われた少年。
ゼドには言えない。
自分がこの世界へ来た理由が、勇者を止めることだとは。
少なくとも、今はまだ。
「世界のため、なんだろうね」
ホタルがぽつりと言った。
ケンサクは低く返す。
ケンサクは、ほとんど息だけで返した。
「世界のためなら、何をしてもいいのか?」
ホタルは黙った。
その沈黙が、答えの代わりのようだった。
「勇者様の話?」
不意に、前を歩いていたゼドが振り返った。
ケンサクは表情を変えずに顔を上げる。
聞こえていたのは、おそらく「勇者」と「世界」くらいだろう。
「まあな。拠点が近いから、どういう場所か聞いてた」
「ふうん」
ゼドは少しだけ疑うようにケンサクを見たが、すぐに胸を張った。
「見れば分かる。勇者様の拠点は、普通の場所じゃない」
「そうらしいな」
「世界中から報告が集まる。怪我人も、助けを求める人も来る。
従者たちも、礼拝堂の者たちも、みんな勇者様のために動いてる」
ゼドの声には誇りがあった。
けれど、少しだけ違うものも混じっていた。
ケンサクはそれに気づく。
「ずっと、そんな感じなのか?」
ゼドの表情が、ほんのわずかに変わった。
「ずっと?」
「ああ。勇者は忙しいんだろ」
「……忙しい」
ゼドは前を向く。
「勇者様は、最近は特に忙しそうにしている」
リテナがゼドを見る。
「前から忙しいんじゃないの?」
「前も忙しかった。でも、最近は少し違う」
ゼドは道の先を見ながら話す。
「拠点に戻っても、すぐ報告を読みに行く。
従者たちへの指示も増えた。前より細かく、いろんな場所のことを集めている」
ケンサクは黙って聞いた。
ホタルも何も言わない。
ゼドは続ける。
「礼拝堂にいる時間も長くなった。夜も、部屋の明かりが遅くまで消えない」
リテナが小さく呟く。
「そんなに……」
「勇者様は休まないから」
ゼドはそう言った。
だが、そこにあるのは誇らしさだけではなかった。
声の端に、少しだけ寂しさがあった。
「前は、見回りから戻ると、少しは話してくれた」
ゼドはすぐに口をつぐんだ。
言いすぎたと思ったのか、少しだけ不機嫌そうに眉を寄せる。
「……別に、今も話してくれるけど」
ケンサクは何も言わなかった。
リテナも、ゼドを急かさない。
ゼドは草の揺れる道を見つめながら、ぽつりと言った。
「何か大きいことをやるつもりなのかもしれない」
その言葉に、空気が少しだけ変わった。
リテナが不安そうに聞く。
「大きいこと?」
ゼドは首を振る。
「知らない。僕には、まだ話してくれない」
まだ。
その言葉が、妙に引っかかった。
話してくれない、ではない。
まだ話してくれない。
ゼドは、自分がいずれ知らされる側だと信じている。
勇者に信頼されていると信じている。
だからこそ、その言葉は少しだけ寂しく聞こえた。
けれどゼドはすぐに顔を上げる。
「でも、勇者様が決めることなら必要なことだ」
その声には、いつもの強さが戻っていた。
リテナは小さく頷いた。
「……それって、なんだろうね」
ケンサクはリテナの表情を見る。
昨夜、勇者のことを考えるとまだ怖いと言った顔を思い出す。
「まだ何も分かってない」
ケンサクは静かに言った。
リテナがこちらを見る。
「うん」
短い返事だった。
けれど、前より少しだけ落ち着いていた。
ケンサクはホタルを見る。
ホタルは何も言わない。
光だけが、いつもより弱く揺れている。
何か大きいこと。
勇者が細かく報告を集めている。
礼拝堂に長くいる。
夜遅くまで明かりが消えない。
従者たちへの指示が増えている。
条件が並ぶ。
けれど、答えはまだ見えない。
ケンサクの中に、また問いが立つ。
なにを、どう止める?
やはり、答えは返ってこなかった。
道はさらに開けていった。
丘を越えると、遠くに白い建物が見えた。
最初は、雲かと思った。
だが、違う。
丘の向こう、緩やかな高台の上に、白い壁が連なっている。
中央には細い塔が立ち、その先端に光を受けた旗が揺れていた。
建物の周囲には低い外壁があり、そこからいくつもの道が伸びている。
街というほど大きくはない。
だが、ただの屋敷や砦でもない。
訓練場らしき広場。
礼拝堂の屋根。
人の出入り。
白い旗。
整えられた道。
遠目にも、そこが特別な場所なのだと分かった。
リテナが息を呑む。
「……あれが」
ゼドは立ち止まり、誇らしげに胸を張った。
「あれが、勇者様の拠点だ」
その声は、まるで自分の宝物を見せる子どものようだった。
ケンサクは白い拠点を見つめる。
美しい。
整っている。
そして、どこか大きすぎる。
あの中に、勇者がいるのかもしれない。
あるいは、勇者が進めている何かの痕跡があるのかもしれない。
「ここまで来たんだから、ちゃんと見ていけ」
ゼドが言う。
ケンサクは短く答えた。
「ああ」
ホタルは肩の上で、ひどく静かだった。
風が吹く。
白い旗が揺れる。
何か大きいこと。
何を、どう止める?
ケンサクは、その二つの言葉を胸の奥で繰り返しながら、勇者の拠点を見上げた。




