8夜風の約束
宿の裏手で起きた騒ぎが収まると、村はまた何事もなかったように静かになった。
外れかけた柵は、とりあえず縄で固定され、荷車は明日の朝に改めて調べることになった。
荷運びの男と宿の手伝いは、ぎこちないながらも互いに頭を下げていた。
それで終わった。
少なくとも、表面上は。
宿の中へ戻ると、廊下には夜の冷えた空気が流れていた。
食堂の灯りは落とされ、二階へ続く階段も薄暗い。窓の外には、整った村の灯りが静かに並んでいる。
リテナは自分の部屋の前で、一度足を止めた。
「……じゃあ、また明日ね」
「ああ。明日は早いらしいからな」
ケンサクが答えると、リテナは小さく頷いた。
けれど、扉に手をかけたまま、すぐには中へ入らない。
その表情に、ほんの少しだけ迷いがあった。
「リテナ?」
ケンサクが声をかけると、リテナははっとしたように顔を上げた。
「あ、ごめん。なんでもないよ」
そう言って笑う。
いつものように明るく笑おうとしている。
けれど、完全には笑えていなかった。
ケンサクは少しだけ考えてから、廊下の先にある小さな窓を指した。
「少し、外の空気でも吸うか」
リテナは目を丸くする。
「え?」
「眠れそうにない顔してたから」
「……ケンサクも?」
「まあ、少しな」
そう言うと、リテナは少しだけ安心したように笑った。
二人は宿の裏手にある小さな中庭へ出た。
昼間に見た柵からは少し離れた場所で、庭と呼ぶには質素だったが、木の椅子がひとつと、水桶が置かれている。
夜風は冷たく、湿った土の匂いがした。
空には星が出ていた。
村の灯りはきれいに並んでいるのに、どこか作り物のようにも見える。
リテナはその灯りをしばらく眺めていた。
「この村、きれいだね」
「ああ」
「道もちゃんとしてるし、宿も立派だし、みんな礼儀正しいし」
「そうだな」
リテナはそこで少し黙る。
それから、ぽつりと言った。
「でも、少し怖かった」
ケンサクは横を見る。
リテナは村の方を見たままだった。
「子どもが椅子を倒しただけで、みんな固まってたでしょ。
柵のことも、誰かが悪いって決めないといけないみたいになってた」
「……ああ」
「悪いことをしないように、っていうより……悪いことに見えないようにしてる感じがした」
リテナらしい言い方だった。
理屈ではなく、空気をそのまま言葉にしている。
ケンサクは少しだけ頷いた。
「勇者に心配をかけたくない。……そう思いすぎてるのかもな」
その言葉に、リテナの肩がわずかに揺れた。
勇者。
その名前が出た途端、夜の冷たさが少しだけ増したように感じた。
リテナは自分の手を胸元で軽く握る。
「勇者様は、すごい人なんだと思う」
声は静かだった。
「魔王を倒したのも本当だし、今もたくさんの人を助けてるんだよね。
ゼドも……勇者様に救われたんだよね」
「ああ」
「ゼドが言ってたこと、嘘じゃないと思う。あの髪も、目も……ゼドにとっては本当に、救われた証しなんだと思う」
リテナはそこで言葉を切った。
夜風が、彼女の髪を少し揺らす。
「でも、あたしは……」
その声は、さっきより少し小さかった。
「勇者様のことを考えると、まだ少し怖い」
ケンサクは何も言わなかった。
リテナの中にあるものを、急いで掘り返す必要はないと思った。
両親のこと。
浄化という言葉。
炎。
勇者の存在。
それらが、リテナの奥にまだ残っていることは分かっていた。
リテナは慌てたように笑う。
「あ、でもね。勇者様が悪いって言いたいわけじゃないよ。ゼドのことも、村の人たちのことも、助けられた人たちのことも、本当なんだと思う」
「分かってる」
ケンサクが短く答えると、リテナは少しだけ表情を緩めた。
「ケンサクは、そういうところちゃんと聞いてくれるよね」
「そうか?」
「うん。決めつけないでくれる」
リテナは木の椅子にそっと腰かけた。
ケンサクはその横に立ったまま、村の灯りを見る。
少しの沈黙。
それからリテナが、ぽつりと続けた。
「あたしね、最初は冒険者に憧れてただけだったんだと思う」
ケンサクは横を見る。
リテナは自分の膝の上で指を重ねていた。
「村の外に出て、知らない場所を見て、誰かを助けて……そういうの、ずっと憧れてた」
「そう言ってたな」
「うん。ケンサクについていけば、外の世界を見られるって思った。冒険者みたいになれるって」
リテナは少しだけ笑った。
けれど、その笑顔は昼間のような明るさだけではなかった。
「でも、今は……それだけじゃない気がする」
ケンサクは何か言おうとして、言葉を選ぶ。
リテナは続けた。
「うまく言えないんだけどね。外の世界が見たいのは本当。冒険者に憧れてるのも本当。
でも、それだけだったら……たぶん、こんなに怖くなったり、嬉しくなったりしない気がする」
夜風が二人の間を通る。
リテナはケンサクを見上げた。
「ケンサクと一緒にいると、怖いこともあるけど……少しずつ、大丈夫って思えるんだ」
その言葉に、ケンサクはすぐには返せなかった。
ゼドは勇者に救われた。
救われる側でいていいと言われて、攻撃魔法を手放した。
リテナは、ケンサクとの旅の中で少しずつ、自分で歩こうとしている。
どちらも救いなのかもしれない。
けれど、その形はまるで違う。
ケンサクは、リテナの不安を軽くできればと思って口を開いた。
「無理についてくる必要はないぞ」
リテナの表情が、ほんの少し止まった。
ケンサクは気づかず続ける。
「リテナには、俺についてくる義務なんてないんだから。
危ないと思ったら、戻ってもいい。村に戻って暮らすことだって――」
「ケンサクは優しいね」
リテナが静かに言った。
その声に、ケンサクは言葉を止める。
リテナは微笑んでいた。
けれど、少しだけ寂しそうだった。
「あたしのこと、ちゃんと考えてくれてるんだよね」
「ああ。そのつもりだけど」
「うん。分かってる」
リテナは膝の上の手を、ぎゅっと握った。
「でも、あたしがついていきたいって思ってるのも、本当だよ」
ケンサクはようやく、自分の言葉が少しずれていたことに気づいた。
リテナは、行きたくないと言っているわけではない。
怖くないと言いたいわけでもない。
それでも、一緒に行きたいと言おうとしている。
ケンサクは息を吐いた。
「……追い返したいわけじゃない」
「うん」
「ただ、苦しいなら、選べるようにしておきたかった」
リテナは少しだけ目を細める。
「そういうところ、ケンサクらしいね」
「褒めてるのか?」
「うん。たぶん」
リテナが小さく笑った。
その笑顔は、さっきより少しだけ自然だった。
ケンサクは村の灯りから視線を戻し、リテナを見る。
「なら、言い方を変える」
「うん?」
「今は、一緒に来てくれると助かる」
リテナの瞳が、ほんの少し大きくなる。
ケンサクは続けた。
「俺だけじゃ気づけないこともある。リテナがいるから助かった場面も多い。
だから……無理はしてほしくないけど、来てくれるなら心強い」
リテナはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「うん」
その声は、さっきよりずっと柔らかかった。
「任せて。あたし、ちゃんと歩くから」
「頼りにしてる」
ケンサクがそう言うと、リテナは少し照れたように視線を落とした。
夜風がまた吹く。
さっきまで冷たかった空気が、少しだけやわらいだように感じた。
リテナは立ち上がる。
「そろそろ寝るね。明日、早いんだよね」
「ああ」
「ケンサクも、ちゃんと寝てね」
「善処する」
「それ、寝ない人の返事だよ」
リテナがくすっと笑う。
「おやすみ、ケンサク」
「おやすみ、リテナ」
リテナは軽く手を振り、宿の中へ戻っていった。
その後ろ姿は、最初に外へ出た時よりも少しだけ軽く見えた。
ケンサクはしばらく中庭に残り、村の灯りを見ていた。
ゼドの言葉が頭に残っている。
人も?
壊れたものは、直せばいい。
自分はそう言った。
だが、人は柵や荷車ほど単純ではない。
壊れた理由が分かっても、すぐに直るとは限らない。
それでも、見ないよりはいい。
理由を見ないまま誰かを責めるよりは、ずっといい。
「ケンサクってさ」
不意に、肩のあたりから声がした。
ケンサクはびくりとする。
「お前、起きてたのか」
ホタルが、いつの間にかケンサクの肩の上で淡く光っていた。
さっきまで完全に気配を消していたはずだった。
「神は寝ないよ」
「さっき部屋で寝息みたいな音を立ててただろ」
「あれは神秘的な振動だよ」
「便利な振動だな」
ホタルはふよふよと浮かび、ケンサクの顔の前に回り込んだ。
そして、にやりと笑うように光を揺らした。
「ケンサクは賢いのに、女ごころは分かってないのかもね」
ケンサクは眉をひそめる。
「……女心?」
「うわあ、本当に分かってない」
「何の話だ」
「今の話だよ」
「リテナが旅についてくるかどうかの話だろ」
ホタルは大げさに光をしぼませた。
「これは重症だね」
「お前に診断されたくない」
「神は恋愛にも詳しいんだよ」
「酒と食べ物にしか興味がなさそうなのに?」
「恋と食は世界を動かすんだよ」
「雑に壮大なことを言うな」
ホタルはくすくすと笑うように光った。
それから、少しだけ声を柔らかくする。
「でも、ちゃんと言い直せたのは偉いと思うよ」
ケンサクは黙る。
ホタルは続けた。
「まあでも、リテナは嬉しそうだったよ」
「……そうか」
「うん」
ホタルはケンサクの肩へ戻る。
「だから、次からはもうちょっと言葉を選ぼうね」
「努力する」
「それも分かってない人の返事だよ」
「厳しいな」
「神だからね」
ケンサクは小さく息を吐いた。
夜の村は、まだ静かだった。
白い旗。
整った道。
息をひそめるような家々。
その中で、リテナの笑顔だけが少し温かく残っている。
ケンサクは空を見上げた。
勇者に救われたゼド。
旅の中で、少しずつ前を向こうとしているリテナ。
救いにも、いろいろな形があるのかもしれない。
そう思いかけて、ケンサクは首を振った。
まだ、答えを出すには早い。
ただ今は、明日も一緒に歩く。
それだけで十分だと思った。




