7荷車のなぞ
夜が深まり、宿の食堂から人の気配が少しずつ減っていったころだった。
ケンサクたちは二階の部屋へ戻ろうとしていた。
廊下には磨かれた木の匂いがあり、窓の外には整然と並ぶ村の灯りが見えている。
食堂で感じた息苦しさは、廊下に出てもまだ胸の奥に残っていた。
そのとき――。
がたん、と裏手の方から大きな音がした。
自分の部屋へ入ろうとしていたリテナが肩を跳ねさせる。
「今の音は……?」
続いて、抑えきれないような声が聞こえた。
「だから、俺じゃないって言ってるだろ!」
「またそうやって言い逃れするつもりか!」
宿の裏手から、言い争う声が響いている。
ゼドの部屋の扉が開いた。
白い外套こそ脱いでいたが、ゼドはすでに外へ向かう顔をしていた。
リテナもすぐに後を追う。
「行こう、ケンサク!」
「ああ」
ホタルがケンサクの肩で小さく光る。
「……なんか嫌な空気だね」
三人と一匹が宿の裏手へ向かうと、そこには数人の村人が集まり始めていた。
宿の裏手には、昼間ケンサクが見たばかりの新しい柵がある。
その一部が、また外れかけていた。
新しく打ち直された木材が斜めにずれ、釘が半分抜けかかっている。
完全に壊れたわけではないが、無理に押せば倒れてしまいそうだった。
その前で、二人の若い男が言い争っていた。
一人は宿の手伝いらしい青年。もう一人は、荷運びをしているらしい男で、そばには小さな荷車が置かれている。
宿の手伝いが、怒りを抑えきれない声で言った。
「前もそうだっただろ! 掲示板を壊したときも、お前は知らないって言った!」
荷運びの男は顔を真っ赤にして言い返す。
「だから、あれも俺じゃない!今回だって、普通に荷車を通しただけだ!」
「普通に通して、柵が勝手に壊れるわけないだろ!」
周囲の村人たちは青ざめていた。
誰かが小さく呟く。
「ゼド様がいらっしゃる日に、なんてことを……」
別の誰かが、声を低くする。
「また揉め事だなんて……」
宿の主人は顔色を悪くし、二人の間に入ろうとしていたが、うまく止められていない。
「おやめなさい。今は……今は、ゼド様がいらっしゃるのですから」
その言葉で、言い争っていた二人がはっと振り返った。
ゼドが前に出る。
「静かにしろ」
子どもの声なのに、その場の空気がすぐに縮まった。
荷運びの男も、宿の手伝いも、口を閉ざす。
ゼドは外れかけた柵を見たあと、二人へ視線を向けた。
「誰が壊した?」
その問いに、宿の手伝いがすぐに荷運びの男を指した。
「こいつです。前の掲示板の時も、この荷車を押していたのはこいつでした」
「違う!俺はぶつけてない!」
荷運びの男が叫ぶ。
ゼドの目が少し細くなった。
「前にも同じことがあったのか」
宿の主人が慌てて口を挟む。
「い、いえ。たいしたことでは……掲示板の木枠が少し傷んだだけで、すぐに直しました」
「傷んだだけ?」
ゼドの声が低くなる。
宿の主人は言葉に詰まった。
周囲の村人たちが、さらに息を詰める。
ゼドは淡々と続けた。
「同じことが繰り返されているなら、報告する必要がある」
「報告……」
荷運びの男の顔から血の気が引いた。
宿の手伝いも、勢いを失う。
リテナが慌てて前に出た。
「待って、ゼド。このくらいでそこまで……」
ゼドはリテナを見た。
その目は冷たくはない。
けれど、揺らいでもいなかった。
「柵や掲示板が壊れたこと自体が、平和を乱すわけじゃない」
リテナは少し安心しかける。
だが、ゼドは続けた。
「でも、村人たちが互いを疑っている。罪を認めない者がいる。言い争いが続いている」
ゼドの視線が、荷運びの男と宿の手伝いへ向く。
「それが問題だ」
場がさらに静まった。
荷運びの男が唇を震わせる。
「俺は……本当にやってないんだ」
「でも、疑われる理由があるんだろ」
ゼドは淡々と言う。
「なら、確認する。必要なら勇者様に報告する」
「勇者様に……」
宿の主人が小さく息を呑む。
どちらが悪いにせよ、争いがあるなら正さなければならない。
ゼドの目は、そう言っているように見えた。
ケンサクはその様子を見ていた。
誰も、柵を見ていない。
誰も、荷車を見ていない。
皆が見ているのは、ゼドの顔と、互いの表情だけだった。
ケンサクは一歩前に出る。
「待て。まだ判断するには早い」
ゼドが振り返る。
「また?」
以前の件を思い出したのか、ゼドの声には少し不満が混じっていた。
ケンサクは頷く。
「まただ」
リテナがほっとしたようにケンサクを見る。
ホタルは小さく光を揺らしただけで、口を挟まなかった。
ゼドは眉を寄せる。
「今度は人間同士の話だ。魔物とは違う」
「だから余計に、早く決めつけない方がいい」
ケンサクは外れかけた柵の前にしゃがんだ。
「誰が悪いかを決める前に、何が起きたかを見る必要があるだろう」
ゼドは何か言いたそうにしたが、黙った。
ケンサクは柵の木材に触れないよう、近づいて観察する。
新しい木材の表面に、斜めの擦れ跡があった。
爪でも、刃物でもない。
何か硬いものが、横からではなく斜めに引っかかってこすれた跡。
釘はまっすぐ抜けたのではなく、同じ方向へ少しだけねじれている。
地面には車輪の轍があった。
荷車の通った跡だ。
ただし、その轍はまっすぐではない。
宿の裏手を抜ける細い通路の途中で、片側だけが外へふくらむように曲がっていた。
ケンサクは荷車を見る。
「この荷車、少し動かしてもいいか?」
荷運びの男は戸惑いながら頷いた。
「あ、ああ……」
ケンサクは荷車の後ろへ回る。
リテナが近づいた。
「手伝う?」
「いや、まず動きを見る」
ケンサクは荷車を少しだけ押した。
荷車は前へ進む。
一見、問題はない。
だが、曲がり角に差しかかると、後ろの荷台だけがわずかに外側へ振れた。
ケンサクはそこで止める。
もう一度、今度は少し角度を変えて押す。
やはり、後ろが外へ流れる。
荷車を押している本人からは見えにくい。
前を見て進めば、まっすぐ押しているつもりになる。
けれど実際には、後ろの角が外側へ振れて、柵に触れる。
ケンサクは荷台の角を指差した。
「ここだ」
宿の手伝いが眉をひそめる。
「そこが何だっていうんですか」
「柵の擦れ跡と高さが同じだ」
ケンサクは柵を示す。
「柵は殴られたわけじゃない。強く蹴られたわけでもない。斜めに何かが引っかかって、釘が抜けかけた」
荷運びの男が目を見開く。
「じゃあ……」
「荷車の後ろが当たったんだと思う」
宿の手伝いがすぐに言った。
「ほら、やっぱりこいつが!」
「違う」
ケンサクは静かに遮る。
「本人がぶつけた自覚がないのも、おそらく本当だ」
「え……?」
「押している場所からだと、後ろの角は見えにくい。特に夜なら、なおさらだ。
しかもこの荷車、曲がるときに後ろだけ外へ振れる」
ケンサクは車輪にしゃがみ込んだ。
車軸の片側が、わずかに歪んでいる。
古い傷があり、木の輪も片側だけ減っていた。
「車輪か車軸が歪んでる。まっすぐ押しているつもりでも、曲がる時に後ろが余計に振れる」
周囲の村人たちがざわついた。
ケンサクは続ける。
「掲示板も同じだ」
宿の主人がびくりと肩を揺らす。
「なぜ、それを……」
「広場で見た。掲示板の下の木枠だけ新しかった」
ケンサクは荷台の角を見る。
「たぶん、同じ高さに擦れ跡があったんじゃないか。荷車が通る場所に掲示板があって、同じように後ろが当たった」
宿の主人は口を閉ざした。
それが答えだった。
荷運びの男は、力が抜けたようにその場に座り込みかける。
「だから言っただろ……俺は、わざとやったんじゃないって……」
宿の手伝いは気まずそうに視線を落とした。
「でも、荷車を押してたのはお前だったし……前も今回も……」
「責任がないわけじゃない」
ケンサクは言った。
荷運びの男が顔を上げる。
ケンサクは荷車を指す。
「でも、悪意でも、乱暴でもない。荷車の不具合だ。気づかないまま使い続ければ、また壊れる」
ゼドが静かに言う。
「壊したのは事実だ」
「ああ。だから直せばいい」
ケンサクは即答した。
「荷車の車軸を直す。それまではこの裏道を通らない。荷物は一度に積みすぎない。柵の角には当て木をつけた方がいい。掲示板も、荷車の通る場所から少しずらせるならずらす」
宿の主人が呆然と聞いていた。
ケンサクはさらに続ける。
「報告が必要なら、こう報告すればいい」
ゼドがケンサクを見る。
「平和を乱した人間がいた、じゃない。壊れやすい荷車と、狭い通り道があった。
報告するなら、そっちだ」
ゼドは黙った。
その言葉は、すぐには飲み込めないようだった。
リテナが小さく息を吐く。
宿の主人は、深く頭を下げた。
「申し訳ありません……掲示板の時も、些細なことと思い、拠点へは……」
言葉の途中で、主人は唇を噛んだ。
「勇者様のお手を煩わせるほどではないと、思いまして」
ケンサクは主人を責めなかった。
ただ、静かに言う。
「些細なことでも、隠すと大きくなる。
ちゃんと見て、話していれば、ここまで疑い合わずに済んだはずだ」
ケンサクは、外れかけた柵を見る。
「平和を乱さないようにしていたのに、そのせいで話せなくなってたんじゃないか」
主人の肩が小さく震えた。
荷運びの男と宿の手伝いは、互いに気まずそうに顔を見合わせた。
先に頭を下げたのは、宿の手伝いだった。
「……疑って、悪かった」
荷運びの男は、少しだけ唇を曲げる。
「俺も……ちゃんと荷車を見てなかった。すまん」
完全に晴れたわけではない。
けれど、さっきまで張りつめていた空気が、少しだけほどけた。
ゼドはその様子を見ていた。
静かな目だった。
ケンサクが外れかけた柵を見る。
「壊れたものは、直せばいい」
ゼドが小さく言った。
「……人も?」
ケンサクはすぐには答えなかった。
その問いが、ゼド自身のことを指しているようにも聞こえたからだ。
白金の髪。
救われた証し。
攻撃を失った魔法使い。
ケンサクは少しだけ考え、答えた。
「直せることもある。少なくとも、壊れた理由は見た方がいい」
ゼドは何も言わなかった。
ただ、外れかけた柵と、荷車と、謝り合った二人の村人を順に見た。
宿の裏手に、夜の冷たい風が流れる。
村は平和だった。
少なくとも、そう見えるように整えられていた。
けれど、壊れたものを隠し、疑いを飲み込み、誰かを責めることで保たれる平和なら――それは本当に平和なのだろうか。
ケンサクは、宿の窓に映る白い旗を見上げた。
勇者の影は、静かな村の夜にも落ちていた。




