6しろい旗の村
湿った谷道を抜けるころには、空の色が少しずつ変わり始めていた。
森の影は深くなり、枝葉の隙間から見える夕空には、薄い橙色がにじんでいる。足元の土も、昼間より冷たく感じられた。
ゼドは少し前を歩きながら、道の先を指した。
「もう少し行けば村がある」
リテナが顔を上げる。
「村?」
「拠点の手前にある村だ。ここを過ぎれば、勇者様の拠点までは半日くらい」
「じゃあ、もうすぐなんだね」
リテナの声には、少しだけ緊張が混じっていた。
勇者の拠点。
その言葉を聞くだけで、空気が少し変わるような気がした。
ケンサクは前を歩くゼドの背中を見ながら尋ねる。
「今から向かえば、夜には着くのか?」
「着く頃には真っ暗だろうな」
ゼドは振り返らずに答える。
「夜道を歩いてまで急ぐ必要はない。今日はその村に泊まる」
「ずいぶん慣れてるな」
「何度も来てるからね」
ゼドは当たり前のように言った。
その声には、ほんの少しだけ得意げな響きがあった。
やがて、木々の間から村の灯りが見えてきた。
それまでの小さな集落とは、少し雰囲気が違う。
道は比較的整っていて、街道沿いには低い柵が並んでいる。村の入口には簡素な木の門があり、そのそばには白い旗が立っていた。
旗には、光をかたどったような紋様が描かれている。
リテナがそれを見上げた。
「あれ、勇者様の印?」
ゼドが短く頷く。
「そう。拠点に近い村には、よく掲げてある」
ホタルがケンサクの肩で小さく光った。
「へえ……思ったより、ちゃんと組織っぽいね」
「感想が軽いな」
「でも本当にそう思ったんだよ。勇者一人が歩き回ってるだけじゃないんだね」
その言葉で、ケンサクはこの世界へ来る前の神との会話を思い出した。
『勇者は、魔王を倒したあとも、平和な世界を作ろうとしている』
神が平和のために創った勇者。
その勇者を中心にした仕組みが、この世界にきちんと根を下ろしている。
ホタルは、それに少しだけ安堵しているようにも見えた。
(ホタルにそんな感情があるのかは知らないが……)
ケンサクは改めて村を見た。
整った道。
白い旗。
門の前でこちらに気づいた村人が、すぐに姿勢を正す。
村の入口にいた中年の男が、ゼドの姿を見るなり目を見開いた。
「ゼド様……!」
男は慌てたように頭を下げる。
「お疲れさまでございます。今日は勇者様はご一緒ではないのですか?」
ゼドは慣れた様子で答えた。
「別行動だ。今日はこの人たちと泊まる」
「かしこまりました。では、宿にお伝えいたします」
リテナは少し驚いたようにゼドを見る。
「ゼド、有名人なんだね」
「当たり前だろ。勇者様の仲間なんだから」
ゼドは胸を張る。
ホタルがすかさず光った。
「小さいのにすごいね!」
「子ども扱いするな」
「小さいって言っただけだよ?」
「それが子ども扱いだろ」
ゼドがむっとする。
リテナは小さく笑ったが、ケンサクは村人たちの視線を見ていた。
親しげではある。
だが、どこか丁寧すぎる。
ゼドを心配しているようでもあり、同時に、勇者側の者として扱っているようでもあった。
村の中に入ると、何人かの村人がゼドに気づき、次々に頭を下げた。
「ゼド様、お戻りでしたか」
「お疲れでしょう」
「今日は勇者様はご一緒ではないのですね」
ゼドは短く頷くだけだった。
リテナは少しそわそわしていた。
「なんか……すごいね。みんな、ゼドにすごく丁寧」
「僕にというより、勇者様への尊敬の気持ちだろう」
ゼドは当然のように言った。
それが誇りなのだと、ケンサクには分かった。
村の中央には小さな広場があり、井戸と掲示板があった。
掲示板には、拠点からの知らせらしき紙がいくつか貼られている。
魔物の出没、街道の修理予定、祈りの日程。
字は整っていて、村人が何度も見に来ているのか、紙の端が少し擦れていた。
その一方で、掲示板の下の木枠だけが新しかった。
打ち直したばかりなのか、そこだけ木の色が明るい。
ケンサクは一瞬だけ目を留める。
(最近、直したのか)
だが、村人たちは誰もそこを気にしていないようだった。
広場の端では、子どもたちが数人、石を並べて遊んでいた。
そのうちの一人がケンサクたちを見て、思わず声を上げる。
「ゼド様だ!」
子どもたちが駆け寄ろうとした、その瞬間。
近くにいた女性が慌てて腕を伸ばした。
「静かにしなさい。ゼド様がいらっしゃるんだから」
子どもたちは、びくりと肩を跳ねさせた。
そして、誰に言われるより先に頭を下げる。
「……ごめんなさい」
ただ騒ぎかけただけだった。
それなのに、広場の空気が一瞬だけ固まった。
ゼドはそれを当然のように受け流している。
「別にいい。走るなら道の端にしろ」
「は、はい」
子どもたちは小さく頷き、少し離れた場所へ戻っていった。
リテナはその背中を見て、眉を下げる。
「……なんか、悪いことしたわけじゃないのに」
ケンサクは答えなかった。
村は整っている。
道も清潔で、家々の灯りも温かい。
だが、どこか静かすぎた。
やがて、一行は宿に着いた。
街道沿いに建つ、二階建てのしっかりした宿だった。
馬小屋もあり、旅人用の水場も整っている。
宿の主人は、ゼドを見るなり深く頭を下げた。
「ゼド様。お疲れさまでございます。お部屋は伺っております。いつものお部屋と、皆さまの分を二部屋、ご用意しております」
「食事も頼む」
「はい。ただいま」
主人が奥へ下がろうとしたとき、ゼドがふと思い出したように聞いた。
「変わったことは?」
主人はすぐに振り返った。
「ありません。何も。村は平和です」
返事は早かった。
少し、早すぎるようにも聞こえた。
ケンサクは、ほんの少しだけ目を細める。
主人はすぐに柔らかな笑顔へ戻った。
「拠点に近い村ですから。皆、勇者様にご心配をかけぬよう、きちんと暮らしております」
「そう」
ゼドはそれ以上聞かなかった。
宿の裏手へ荷物を運ぶ途中、ケンサクは新しい木の匂いに気づいた。
柵の一部だけが、打ち直されている。
そこだけ木の色が白っぽく、まだ雨に馴染んでいない。足元の土も、他の場所より乱れていた。
ケンサクは何気なく宿の主人に尋ねる。
「最近、ここを直したのか?」
主人は一瞬だけ柵を見る。
「ええ。古くなっておりまして」
「そうか」
「旅人の馬が驚かないように、早めに直したのです」
主人は穏やかに笑った。
その笑顔に不自然なところはない。
だが、ケンサクは柵の下に残る土の乱れを、少しだけ長く見つめていた。
夕食は宿の食堂で取ることになった。
木のテーブルが並ぶ広い部屋には、何人かの旅人と村人がいた。
拠点へ向かう者、拠点から戻る者。話し声はあるが、大声を出す者はいない。
食事は温かいスープと焼いた肉、黒いパン、それから先ほど商人にもらった干し果物も少し加えられた。
リテナはスープを一口飲んで、ほっとしたように息をつく。
「おいしい……」
ホタルがすかさず光った。
「ケンサク〜、私にも供物を〜!」
「さっきから食べ物のときだけ神になるな」
ケンサクが呆れると、ホタルは堂々と言った。
「神は食事の場に宿るものだよ」
「便利な信仰だな」
ゼドは向かいの席でパンを小さくちぎっていた。
リテナが、少し迷ってから尋ねる。
「ねえ、ゼド」
「なに」
「勇者様の拠点って、どんな場所なの?」
ゼドはパンを持ったまま少し考えた。
「静かな場所だ」
「静か?」
「訓練場があって、礼拝堂があって、薬を作る部屋があって、報告をまとめる部屋がある」
ケンサクが反応する。
「拠点というより、施設だな」
ゼドはむっとした。
「勇者様が世界を守るための場所だ」
「報告が集まるなら、判断する仕組みもあるのか?」
「ある」
ゼドは短く答える。
「各地から、魔物や争いの報告が来る。病や災害も。従者や、礼拝堂にいる者たちがまとめて、必要なら勇者様に伝える」
「勇者は全部見るのか?」
「全部じゃない。でも、大事なことは見る」
「その“大事”は、誰が決める?」
ゼドは少しだけ黙った。
「役割ごとに見る者がいる。見回る者、癒す者、祈る者、戦う者。報告を整理する者もいる」
リテナが目を丸くする。
「そんなにたくさんいるんだ」
「勇者様一人で全部はできないからな」
ゼドは当然のように言ったあと、すぐに付け足した。
「でも、最後に世界を守るのは勇者様だ」
その言葉だけは、迷いがなかった。
ケンサクはスープの湯気を見つめる。
「ゼドの役割は?」
「見回りと報告。それから魔法での補助」
「危険要素の確認か」
「平和を乱すものがあれば、勇者様に知らせる」
ゼドは淡々と言った。
ケンサクは光の化身の祭りの村や、荷馬車の魔物を思い出す。
ゼドは魔物を制御した。
傷つけず、正確に、見事に。
けれど、最終的な判断は自分では下さなかった。
止める。報告する。勇者に委ねる。
それが、ゼドの役割。
リテナが少し不安げに尋ねた。
「勇者様は、今は拠点にいるの?」
「いる時もある。いない時もある」
「どこに行ってるの?」
「平和を乱すものがある場所」
ゼドは迷わず答えた。
「魔物、争い、病、災害。勇者様が必要な場所なら、どこへでも行く」
ホタルが小さく光を揺らした。
「勇者は忙しいね」
「勇者様は休まない」
ゼドは誇らしげに言った。
ケンサクは顔を上げる。
「人間なら、休む必要がある」
ゼドはすぐに返した。
「勇者様は特別だ」
その言い方は、あまりにも自然だった。
勇者を人間として数えていないようにも聞こえた。
食堂の端で、子どもが椅子を少し倒した。
がたん、と音が響く。
ただそれだけだった。
けれど、食堂の空気が一瞬止まった。
子どもは青ざめ、すぐに椅子を起こした。
「ごめんなさい」
母親らしき女性が、慌てて子どもの肩を抱く。
「申し訳ありません。騒がしくしてしまって」
その謝罪は、ケンサクたちに向けられているようで、ゼドに向けられているようでもあった。
ゼドは少しだけ顔を向ける。
「別に、椅子が倒れただけだろ」
それだけ言うと、またパンに視線を戻した。
母親はほっとしたように頭を下げた。
リテナは膝の上で手を握っていた。
「……ここ、安全そうなのに」
小さな声だった。
ケンサクは聞き返さない。
リテナは続ける。
「なんか、みんな緊張してるね」
ゼドが少し不機嫌そうに言う。
「拠点に近い村だから、みんなちゃんとしてるだけだ」
「ちゃんとしてる……」
リテナはその言葉を繰り返した。
ホタルは何も言わない。
さっきまで食事に口を出していたのに、勇者の話になると、どこか言葉を選んでいるようだった。
食事が終わるころ、宿の主人が追加の水を持ってきた。
ケンサクはふと思い出して尋ねる。
「困ったことがあれば、拠点へ報告するのか?」
主人は穏やかに頷いた。
「ええ。もちろんです」
「それなら安心だな」
「はい。けれど、些細なことで勇者様のお手を煩わせるわけにはまいりませんから」
その言い方は、感謝というより、言い訳に近かった。
「村のことは、村で。平和に。静かに。そう心がけております」
主人はそう言って微笑んだ。
ケンサクは何も返さず、静かに頷いた。
夜が深まり、食堂の人影も少なくなっていく。
宿の主人に案内され、ケンサクたちは二階の部屋へ向かった。
廊下は磨かれていて、窓の外には村の灯りが整然と並んでいた。
リテナは窓の外を見ながら呟く。
「きれいな村だね」
「そうだな」
ケンサクは短く答える。
整っている。
安全そうに見える。
それでも、どこか息苦しい。
ゼドは廊下の先で振り返る。
「明日は早い。拠点まで半日だ」
「ああ」
ケンサクが頷くと、ゼドは自分の部屋へ入っていった。
その背中は、村人たちに頭を下げられていた時より、少しだけ小さく見えた。
ホタルがケンサクの肩で小さく光る。
「勇者の拠点、か」
「どうした」
「ううん。近づいてきたなって思っただけ」
ホタルの声は、いつもより少し静かだった。
ケンサクは窓の外を見た。
白い旗。
整った道。
静かすぎる食堂。
新しく打ち直された柵。
早すぎる返事。
村は平和です。
その言葉が、頭の奥に残っていた。
拠点に近づくほど、勇者の影が濃くなる。
ケンサクはそんなことを思いながら、夜の村を見下ろした。




