5知らない草の名
魔物たちが去ったあと、一行は再び勇者の拠点へ向けて歩き出した。
せめてもの礼にと、商人は馬車の積荷から食料を少し分けてくれた。
森の道は、少しずつ湿った谷筋へと変わっていった。
片側には木々の根が張り出した斜面があり、反対側には浅い沢が細く流れている。足元の土は水を含み、踏むたびに柔らかく沈んだ。
ゼドは先ほどと同じように、ケンサクたちより少し前を歩いていた。
白い外套の背中はまっすぐで、足取りにも大きな乱れはない。
けれどリテナは、時折その背中を見ていた。
「ゼド、大丈夫かな」
先ほどの魔法で、また大きく魔力を使ったはずだ。
小さく呟いたリテナに、ケンサクは前方を見たまま答える。
「また平気だって言うだろうな」
「うん。言いそう」
リテナは困ったように笑った。
ホタルはケンサクの肩の上で、ふわふわと光っている。
「まったく、子どものくせに素直じゃないよね」
「お前は何もしていないくせに偉ぶるな」
「私にとってはあの子もケンサクもリテナも、みんな可愛い子どものようなものだよ」
「じゃあ次からは食べ物を選ぶのは一番最後だな、大人なんだろ?」
「そ、それは神が優先だよ!大人より子どもより神!!」
そんなやり取りを聞いていたのか、前を歩くゼドが振り返らずに言った。
「……騒がしい」
「確かに子どもらしくないよなあ、ゼドは」
ケンサクが返すと、ゼドはむっとしたように肩を揺らしただけで、それ以上は言わなかった。
道はさらに細くなっていく。
斜面側の木々は、どれも少しだけ同じ方向へ傾いていた。根元の土が濡れて黒ずみ、ところどころ細い亀裂が走っている。
ケンサクは、ふと足を止めた。
最初は、ただの景色だった。
斜めに生えた木。
道端に転がる新しい小石。
岩肌からにじむ、濁った水。
草の根元に走る細い割れ目。
どれも、特別なものには見えない。
けれど、どこかが引っかかった。
「ケンサク?」
リテナが振り返る。
「どうかしたの?」
その問いが耳に入った瞬間、ケンサクの中で、ばらばらだった景色が言葉の形を取り始めた。
何が引っかかっている?
問いが立つ。
すると、目の前の情報がひとつずつ意味を持ち始めた。
傾いた木は、地面の内側が動いている証拠。
新しい小石は、斜面から落ちたばかりのもの。
濁った水は、土の奥が緩んでいる可能性。
細い亀裂は、表面だけでなく斜面全体がずれかけている兆候。
それらが並んだ瞬間、答えが短く浮かんだ。
崩れる。
ケンサクは顔を上げた。
「道の端に寄れ。斜面から離れた方がいい!」
ゼドが眉を寄せ振り返る。
「何かいるのか?」
「いるんじゃない。崩れる」
「崩れる?」
リテナが斜面を見上げた。
「この斜面が?」
「たぶんな。今すぐ離れた方がいい」
ゼドは一瞬だけ疑うようにケンサクを見たが、すぐに小さく舌打ちした。
「……反対する理由はないからな」
そう言って、ゼドは斜面から離れた。
リテナも慌てて沢側へ寄る。ケンサクはホタルを肩に乗せたまま、全員が離れたのを確認した。
その直後だった。
ぱら、ぱら、と小石が落ちた。
次に、濡れた土がずるりと滑る。
斜面の一部が崩れ、さっきまで四人が歩いていた場所へ、黒い土と草の根が流れ込んだ。
大きな崩落ではなかった。
けれど、その場に立っていれば足を取られ、転んでいてもおかしくない量だった。
リテナが息を呑む。
「本当に崩れた……」
ゼドも黙っていた。
ホタルだけが、ケンサクの肩の上で小さく光を揺らしている。
リテナが崩れた斜面を見ながら尋ねた。
「ケンサク、どうして分かったの?」
「木が斜めに傾いていた。斜面から落ちたばかりの小石があった。水も濁ってたし、地面に亀裂もあった」
ケンサクは自分で説明しながら、少しだけ違和感を覚えた。
説明はできる。
理由も並べられる。
けれど、それをどうやって一瞬で結びつけたのかが、自分でも曖昧だった。
見たものを思い出したわけではない。
誰かに教わった記憶を引き出したわけでもない。
問いになった瞬間、景色が条件に変わった。
条件が並び、答えが返ってきた。
「……似てるな」
ケンサクは思わず、声には出さずに呟く。
何に似ているのか。
そこまでは、まだ言葉にならなかった。
「ケンサクって、地面まで読めるの?」
リテナが素直に感心したように言う。
「読んでるわけじゃない。見てるだけだ」
ゼドが横から少し皮肉っぽく言った。
「賢者っていうのは、そういうことも分かるものなの?」
「俺が聞きたいくらいだ」
ケンサクがそう返すと、ゼドは冗談だと思わなかったのか、少しだけ黙った。
ホタルも何も言わなかった。
いつもなら、そこですぐに「さすがケンサク!」とでも騒ぎそうなのに、ただ小さく光を揺らしている。
ケンサクはホタルを見た。
ホタルは、気づかないふりをするように、崩れた斜面の方へ光を向けていた。
「少し迂回した方がいい。まだ上が緩い」
ケンサクはそう言って、崩れた道を避けるように歩き出した。
ゼドが半歩遅れてついてくる。
「それも見れば分かるのか?」
「今度は見れば分かる」
「さっきと何が違うんだよ」
「さっきより分かりやすい」
「意味が分からない。賢者ならもっと分かりやすく説明してよ」
ケンサクに質問をぶつけるゼドの少し子どもっぽい一面に、リテナが小さく笑った。
ほんの少しだけ、空気が和らいだ。
斜面を避け、沢沿いの細い道を進む。
そこは湿気が強く、足元には見慣れない植物がいくつも生えていた。
細く銀色がかった葉が、地面から扇のように広がっている。葉の裏には淡い青い斑点があり、根元には小さな白い花がついていた。
ケンサクはその草に目を留める。
見たことはない。
前の世界にあった植物とも違う。
けれど、リテナがふいに声を上げた。
「あ、それ踏まない方がいいよ。たしか村のおばあちゃんが、触るとかぶれるって言ってた」
「かぶれる?」
ケンサクは足を止め、草を見下ろした。
この植物は何だ?
そう思った瞬間、また問いが形を取った。
そして、答えが浮かぶ。
「……ミズヨケ草」
無意識に口からこぼれた。
その瞬間、ホタルの光がぴたりと止まった。
リテナが不思議そうに振り返る。
「ケンサク、それ知ってるの?」
ケンサクは、道端の銀色の葉を見下ろしたまま眉を寄せた。
「いや……知らないはずなんだけどな」
ゼドが少し呆れたように言う。
「知らないなら名前は出ないだろ。ミズヨケ草はこの辺りじゃ普通にある。
葉に触るとかぶれるけど、根は乾かすと湿気避けになる」
その言葉を聞いた瞬間、ケンサクの中で、さらに情報がつながった。
「根を乾かして粉にする。倉の床に撒くと湿気を抑える。虫除けにもなる。ただし、火に近づけると煙が目にしみる」
ゼドが目を細めた。
「……知ってるじゃないか」
「今、出てきた」
ケンサクは自分のこめかみに触れる。
「名前を口にしたら、続きが出てきた」
リテナはぱちぱちと瞬きをしたあと、ぱっと表情を明るくした。
「そっか。ケンサク、賢者だもんね。そういう知識が出てくるのかも!」
「……賢者って、そういうものなのか?」
ゼドが少し考え込む。
「俺も詳しくは知らないけど……そういうものなのかもしれない」
「僕が昔会った賢者は、色んな魔法を使ってたけどな」
ゼドはケンサクの頭の上を見た。
「でも、お前も賢者って出てるし……」
ゼドはまだ納得しきっていない顔だったが、否定もしなかった。
「まあ……魔法使いにも色々いるし。そういうことがあってもおかしくないのか」
その横で、ホタルだけが黙っていた。
いつもなら一番に騒ぎそうなのに、何も言わない。
リテナが首を傾げる。
「ホタル様も、そう思う?」
ホタルの光が、一拍だけ遅れて揺れた。
「……うん。ケンサクは、賢者だからね。とっても賢いのは、間違いないよ!」
声はいつも通り明るくしようとしていた。
けれど、ほんの少しだけ弱かった。
ケンサクはホタルを見る。
「ホタル?」
「ほら、湿った道は危ないからね! 早く行こう!」
ホタルはそれ以上、その草の話に触れなかった。
ケンサクはミズヨケ草を見下ろす。
見たことのない植物。
知っているはずのない名前。
けれど、今は用途まで分かる。
採れる季節。
似た毒草。
乾かし方。
倉での使い方。
それらが、知識としてそこにある。
賢者の力。
そう言われれば、そうなのかもしれない。
そう思ってしまえば、今はそれ以上考えなくても済む。
けれど――。
疑問を言葉にすると、答えが返ってくる。
それは、記憶を思い出すのとは少し違う。
目の前のものを見て、問いを立てる。
すると、どこかから返ってくる。
「……似てる」
今度は、声にならないほど小さく呟いた。
何に似ているのか。
その答えだけは、まだ浮かばなかった。
「ケンサク?」
リテナが心配そうに呼ぶ。
ケンサクは顔を上げた。
「いや、なんでもない。行こう」
ゼドはまだミズヨケ草を横目で見ていたが、すぐに白い外套を翻した。
「もう少しで中継地点の村がある。遅れるなよ」
「はいはい」
ケンサクが返すと、ゼドは少しだけ不満そうに前を向く。
リテナはミズヨケ草を踏まないように避けながら進み、ホタルはケンサクの肩の上で、いつもより静かに光っていた。
湿った谷道を抜ける風が、草の葉を揺らす。
ケンサクは歩きながら、もう一度だけ考える。
問いにすると、答えが返る。
前の世界の知識だけではない。
この世界の知識まで、返ってくる。
それが何なのかを問おうとした瞬間だけ、何も浮かばない。
まるで、そこだけが空白になっているようだった。
ケンサクは答えのない違和感を抱えたまま、勇者の拠点へ続く道を進んだ。




