オブジェクトフィリア
ギシ…ギシ…
また“あの音”で目が覚めてしまう。毎晩夜中になると2階から聞こえてくる気色の悪い軋み音。隣を見ると、妻はぐっすりと眠っていた。
妻に毛布を掛け直すと、あの音に背を向けるように寝返りを打つ。
───数十分の辛抱や、たった数十分の───
背中を丸めて耳を塞いでも、あの音はどこまでも追いかけて来るようだった───
息子のセクハラ騒動で警察が来た日から、近所の方々がウチの方を見ながらヒソヒソと話し込んでいるのを見かける事が増えた。
───小さい集落なのだ、悪い噂が広まるのも早いだろう───
自分はそう割り切って、気にしないように振る舞っていた。もしかしたら、もう感覚が麻痺していたのかもしれない。しかし、妻はそうではなかった。
元々、ご近所付き合いなどは好きではなかったため、全て妻に任せっきりにしていた。近所の好奇の目や非難の声に晒され続けた妻が精神を病んでしまうのは、最初から分かりきっていた。
───分かりきっていたはずなのに───
その結果、妻は精神を病んで幻聴に悩まされるようになってしまった。今でも、医者が処方する強めの睡眠薬がないと、夜も寝付けないようだった。
───私はまた、守れなかったのか。娘も、妻も───
後悔とともにゆっくりと微睡に落ちてゆく。薄れゆく意識のどこか遠くから、あの耳障りな軋み音だけが聞こえていた。
その心療内科は、数年前にアレを通わせていた病院だった。数分ほどの軽い診察を受け、薬をもらって帰る、それを隔週で繰り返していた。
最初のうちは病室まで付き添っていたのだが、気を遣ってなのか妻が「1人で大丈夫ですよ」と言うもので、最近は車での送り迎えだけにしていた。
しかし、今日はまた病室まで付き添って入った。
「───それじゃあいつもの薬出しておくので、また2週間後に来てくださいね」
「ありがとうございました」
そう言って立ち上がった妻を先に待合室に向かわせ、医師に声を掛ける。
「先生、息子の事で…順平の事で相談したい事があるんですけど、聞いてもらえんでしょうか」
それは、夜な夜な繰り返されるあの軋み音の話だった。
最初に“それ”に気付いたのは3ヶ月ほど前の事だった。
夜も更け、そろそろ寝ようかという時間、ふとアレがまだ風呂に入ってないのが気になり、階段の下から声を掛けた。
「おーい、順平、風呂空いたけんのぉ」
少し待ったが返事は無かった。聞こえてないのだろうか。
「お父さんたち、もう寝るけんのお」
少し待つが、やはり返事は無い。
扉の隙間からは光が漏れていた。もしかしたら、電気を付けたまま寝てしまったのかもしれない。
「しょうがない奴だな…」
左手で頭を掻きながら小さくため息をつくと、ゆっくりと階段を上る───が、その途中で違和感に気付く。
階段を上がるにつれて、ギッギッという軋み音が聞こえてくる。最初は自分の足音かと思い、立ち止まってみたが、その軋み音は止まらなかった。
───上から鳴ってる…?───
何だろう?と怪訝に思いながら更に階段を上ってゆく。
と、ドアの隙間に何かが挟まっており、ギシギシとドアの軋む音が鳴っている事に気がついた。
───あれは…指…か?───
隙間から漏れ出る明かりが逆光になっており、よく見えないが、指のような“何か”が挟まっているように見えた。小さく「フスー、フスー」という呼吸音も聞こえてくる。
───なんだ、起きてたのか───
「順平何やっとるんや、風呂空いたぞって言っとるのが聞こえ───」
扉の外からそう声を掛けた瞬間、その“何か”は引っ込み、そしてドタドタと慌ただしい音がして扉に鍵が掛けられた。
───今のは…指じゃない、あれは───
それが分かった上で尚、今何が起きていたのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「───先生、そんな事があるんでしょうか。人が、人間が、その…ドアに───」
───こんな話、信じてもらえずに笑われてしまうだろう。むしろ笑ってもらったほうが気が楽になるかもしれない───
そんな不安とともに語るアレの話を、しかし医師は笑うことなく最後まで聞き終わると、少し考え込み、そしてゆっくりと口を開く。
「浜さんは、オブジェクトフィリアという言葉を聞いたことがありますか?」
オブジェクトフィリア───それは、初めて聞く言葉だった。
「日本語で言うところの対物性愛と呼ばれるもので、人間ではなく無生物を性の対象にしてしまう、という病気です。順平さんの件も同様に無生物、特にドアに対する性的錯誤が起きているのかもしれません」
───ドアに対して欲情する、そんな意味のわからない病気が本当に存在するのか?───
「アレがその、そういう病気って事ですか?そんなの…なんで…」
「信じられないかも知れませんが、実際に世界中で確認されてる症例なんですよね。特に対物性愛はASD、いわゆる自閉症の患者さんに見られやすい性的錯誤でして…」
───自閉症、数年前にアレを診察してもらった時にも言われた症状だ。確か、コミュニケーション障害や特定の物事へのこだわりが強すぎる、など───
「…なので、順平さんもそのケースに当てはまるのかも知れないですね」
「し、しかし、先生、アレは女性にも欲情しとったんです。数ヶ月前に、女性にそういうメッセージを送ってることがあって…本当に…」
───アレは、もう人では無くなってしまったのか?───
「…本当に、もうアレはドアにしか欲情できないんでしょうか?」
その問いには答えず、医師はゆっくりと目を閉じる。しばらく沈黙が続き、医師はまた目を開けると静かに口を開いた。
「実は、対物性愛であっても、他者と性的な関係を持とうとするケースがあると言われてます。それは───」
医師の表情から、酷く言い辛い内容なのだろうと言うことが容易に見てとれた。それでも只々、縋るように続く言葉を待った。
「───それは、他人を物としてしか見ていない場合です」
それ以降の会話は、もう覚えていなかった。耳に入ってはいたが、頭が理解する事を拒んでいた。信じたくないという気持ちと、やはりそうだったかという諦めにも似た気持ち、その相反する感情が私の中に同時に存在していた。
───アレにとっては、他人など、家族など、単なる物と同義だったのだ───
…ギシ…ギシ…
今夜もまたあの音が聞こえてくる。
人ならざる者が2階のドアを汚す、あの耳障りな音が今夜もまた始まった。
───全部聞こえとるんやぞ、バカタレが───
汚されてゆくドアの悲鳴にも似た軋み音。
家人が寝静まった浜家の夜更けに、ただその悲鳴だけが響いていた。




