障がい者
昨年で定年を迎え、今ごろは悠々自適な老後を過ごしているはずの龍巳の現実は、残念ながら決して平穏なものではなかった。
浜家の長男が、未だに両親を悩ませ続けているからだ。
順平は今年で38歳になるが、働こうという意思は全く見られなかった。この歳になってもまだ実家にしがみつき、親が買って来た服を着て、親の作った飯を3食食べ、親の年金で生活しているのだ。
働かないのだから当然家に金なんて入れるわけもなく、逆にお小遣いやお年玉まで欲しがる始末である。自分はこんな穀潰しを養うために年金を納めてきたんじゃない、とあまりの情けなさに泣きたくなって来る。
見かねて「いつになったら働くつもりやお前」と問い詰めたところ、「オラハアイサレテルカラ、ハラタカナクテモイイ」などとふざけた事を抜かすものだから、さすがに頭に来てしばき回した事もあったが、結局は何も変わらなかった。
口を開けば「ショウセツカニナル」だの「プロデューサーニナル」だの、出来もしない妄想に逃げ込むだけで、地に足をつけて働くという最も現実的な選択肢には、決して触れようとしないのだ。
───こんな厄介者が家に居座り続けているのだ、平穏な老後など夢のまた夢だろう───
そう思うと、今日もまた気が重くなって来るのであった。
一方で、この数年で明確に変わった事もあった。その一つは「毎年夏になると順平が東京に出てゆく」というもので、なぜか夏になるとアレは蝉のように飛び立って行き、そして夏が終わる頃に戻って来るのであった。
───別に、無理して帰って来なくても良いんだがなあ───
このまま家に居座っていても、息子は何も変わらない。龍巳にはその確信があった。
今の順平が実家を出て、一人で生きていけるとは到底思えなかったが、それでも生きて行く上で流れる汗や涙が息子を成長させてくれるかもしれない、そのわずかな可能性に賭けたかったのだ。
しかし、父の願いも虚しく、順平は必ず帰ってくる。昨年もそうだった事を龍巳は思い出す。
昨年は“変な竜”と言う名前の大柄なYouTuberとその妻らしき女性がウチを訪れ、順平を東京に連れ出して行ったのだった。龍巳は手切れ金として五万円を息子に手渡し、「もう戻って来なくて良い」とはっきり伝えて送り出した。妻も、もう息子を止めはしなかった。
それから二ヶ月ほどして、東京の交番から電話が入った。どうやら順平の世話をするのに疲れた“変な竜”夫妻から放り出され、取っておいた手切れ金で遊び回った挙句、金を使い果たしたので交番に駆け込んで「家まで送って」と訴えていたようだ。
「申し訳ないけど、署まで迎えに来てもらえませんかね」
警官の声には、明らかな呆れと疲労の色が表れていた。
「こちらこそ申し訳ないですが、もう息子もいい歳なんで、自分で何とかするように言ってやって下さい。ごねるようなら、交番から放り出してもらっても構いません」
警官には申し訳無いが、こんな馬鹿息子のためにわざわざ東京まで迎えに出向くつもりも、家まで連れ帰るつもりもなかった。
しかし、続く警官の言葉は意外なものであった。
「それが息子さんが言うには、自分は障がい者だから親には自分を養う義務がある。家から追い出すのは虐待だ、って言ってるんですよね」
───障がい?何を言ってるんだ───
「順平に障がいなんて…」
「…なので、申し訳ないけど迎えに来てくださいよ。正直、困ってるんですよね、息子さん何度言っても帰ってくれないし。このままじゃこっちも仕事にならないんですよ」
それからも暫く問答があったものの、警察側の「何としても息子を引き取ってもらう」という強い意思に押され、結局は龍巳が折れる事になった。
東京駅で待ち合わせ場所に現れた息子は、悪いとは微塵も思ってない様子だった。当たり前のように帰りの新幹線のチケットを受け取ると、「オミヤゲカッテ」などと言い始めるものだから、強めの拳骨を二発ほど見舞っておいた。
半べその息子と共にのぞみに乗り込むと、順平の抱えた荷物を挟んで3人席の両端に座る。お互いに暫くは無言だったが、新幹線が走り始めたのを確認し、こちらから口を開いた。
「お前、自分は障がい者って言っとったらしいのお」
「…」
「お父さん知らんかったわ。お前、何の障がいがあるんや?」
「…アトピーガ、カユクテ」
「はあ?アトピー?」
「アト、オシリモカユイ」
「アトピーとケツが痒いから障がい者って言っとったんか?」
「…」
───たかがアトピーとケツが痒いだけで障がい者を名乗っとったんかお前…アトピーでも真っ当に生きてる人なんてなんぼでもおるし、ケツが痒いならそんなもんは自分でケツ掻いとけアホが───
品川駅で仕事帰りのサラリーマンがどっと乗り込み、急速に車内が混んで来たためそれ以上の追求はしなかった。それで無くても呆れて声も出せない状態だったのだが。
今振り返ると、あれが転機だったように思う。
ここ最近の変化の二つ目、順平が“障がい者”を自称するようになったのは、ちょうどあの時期からでは無かっただろうか。
「家に置いて欲しいなら働け」と詰め寄ると「オラ、ショウガイガアル」と言い訳をし始め、「じゃあ障がい者向けの施設行くぞ」と返すと「シセツニ、イクホドジャナイ」と言い訳をする。しつこく詰めると最後は「イヤイヤミンミンミン…」と蝉になって誤魔化そうとするので、もう手が付けられなかった。
都合よく障がい者と健常者を使い分け、恥も外聞もなく労働から逃げ続ける息子を見ていると、龍巳は情けなくて涙が出て来るのであった。
───アレは、悪い方向に知恵を付け始めている。働く事から逃げるために、悪知恵を働かせるようになって来た───
龍巳の胸の内で、不安と焦燥が煙のように充満してゆく。
───私や妻が死んでも、順平が働くことなどあり得ないかもしれない。ともすれば遺産を独り占めし、それも使い果たしたら次は娘達を宿主とし、死ぬまで他人に寄生しながら生きていく可能性すら───
最悪の未来が、徐々に現実味を帯びつつあることに、龍巳は気付いていた。
何とかする───娘と交わしたその約束は、未だ果たされていない。




