№13_ラジオ番組と受験勉強~九文先生の白熱教室
ーー享保の改革ーー
江戸城の静寂を破るように、板敷きの廊下を急ぐ足音が響いた。
中奥、控えの間。
そこには、天下の知恵を一身に集めたかのような怪物――九文が、まるで自宅の居間にいるかのように寛いでいた。
「九文先生! 今日から、何卒よろしくお願い申し上げます」
現れたのは、若干十三歳の小姓、大岡源五郎である。その瞳は興奮に輝いていた。
「それにしても驚きました。あの上様が、これほど早く長福丸様のご指南役を認められるとは……」
九文は、若き源五郎の初々しい驚きを、慈しむような笑みで受け止めた。
「案ずるな、源五郎。これは大岡越前殿の並々ならぬお働き、そして何より、お主が若君を想う懸命な願いが、上様の頑なな心を動かしたのだ」
九文の視線の先には、もう一人、威厳を湛えた人物が座していた。江戸町奉行、大岡越前守忠相である。源五郎が訪れるまでの間、九文から諸国事情の講義を受けていたのだ。
「九文先生、感服いたしました。今しがた伺った諸国の情勢、まさに目から鱗が落ちる思いにございます。私は早速、蘭方医学の奨励と、貧民のための無料医療・療養施設の開設を上様に言上するつもりです」
「――それは、なんと素晴らしいことでしょう!」
源五郎が声を弾ませた。「施薬の場ができれば、将軍家のご威光もいや増しましょう」
しかし、九文は人差し指を立てて、悪戯っぽく越前に目配せをした。
「江戸の医療がタダになる。それは確かに徳川の『仁政』だ。だが源五郎、これには町民の救済を超えた、途方もない意義が隠されているのだよ」
越前が重々しく頷き、源五郎を諭すように言葉を継いだ。
「源五郎、この医療の施しには、三つの『功』がある。第一に、百万の民がひしめくこの江戸の公衆衛生だ。疫病が蔓延すれば、将軍のお膝元は一瞬にして地獄絵図と化す。まずは養生所を通じて、民に衛生の教育を徹底させることだ」
源五郎は、頷きながら聞き入る。
「第二に、貧しき民に高額な医療を届ける仕組み。財源は町方の寄付や、小石川薬園で育てた薬草の売上で賄うつもりだ」 後に吉宗は青木昆陽の献策、サツマイモのような飢饉を救う知恵により、種芋販売の収益もここの財源となるだろう。
越前の瞳に、より鋭い光が宿った。
「そして第三。これが最も肝要だが――これは、国を守るための戦いなのだ。今の日本、医術においては諸外国に遥かに劣っておる」
九文が、どこから取り出したのか、地球儀を持って回しながら言葉を添えた。
「左様。かつて欧州の強国すら、東方のオスマン帝国に王都を包囲される危機に陥った。なぜ敵がそれほど強かったのか。それは彼らの医学が優れていたからだ」
源五郎が息を呑むのを確かめ、九文は淡々と、しかし峻烈に続けた。
「同じ数で戦っても、我が国の侍は傷を負えば手当ても虚しく死んでいく。だが敵は、息さえあれば半数以上が医術で回復し、再び戦場に立つのだ。半分以上が蘇って攻めてくるような軍隊に、どうやって勝てる? 医学の差こそが、国力の差なのだよ」
「……医学こそが、国を強くする法……」
源五郎の言葉に、越前が断固とした口調で応じた。
「鎖国という殻に閉じこもるだけでは、国は守れぬ。今のうちに医学を発展させ、その知見を集積せねばならぬ。小石川の養生所は、ただの救済施設ではない。ここは、進んだ知恵を貪欲に吸収する『蘭学研究所』の役割を果たすことになるのだ。同時に漢方の施薬も処方を体系化し、傷の治療、体力の回復などの症例治験の記録をまとめる。写本を刷り、広く日本全国に行き渡らせるのだ」
江戸城の奥深く。
一人の奉行と一人の教師の会話は、単なる医療制度の話を超え、まだ見ぬ近代日本への布石を打ち始めていた。
九文は満足げに立ち上がり、源五郎の肩を叩いた。
「さあ、源五郎。未来の準備は整った。若君の元へ参ろうか。彼こそが、この『仁の医学』を背負って立つ、瑞祥の主となるのだから」
ーー若き幕臣の決意ーー
源五郎の背筋を、今まで感じたことのない冷たい戦慄が駆け抜けた。
いかに武勇の誉れ高い徳川の譜代、旗本たちが死を恐れぬ精鋭といえど、切り倒したそばから傷を癒やし、再び立ち上がってくる敵を相手に、どう立ち向かえというのか。それはもはや、個人の武芸や勇猛さで抗える次元の話ではない。
「……九文先生」
源五郎の声は、わずかに震えていた。しかし、その震えは恐怖ではなく、新たな真理に触れた者の武者震いであった。
「その治世のご見識、何卒、何卒長福丸様にお授けください! そして、若君がこの国を背負って立つ真の将軍となれるよう、導いていただきたいのです!」
源五郎は、先ほどまでの高揚をかなぐり捨て、九文の足元へあらためて深く平伏した。額を畳にこすりつけるその姿には、若君を支える側近としての、そしてこの国の行く末を憂う一人の武士としての、悲壮なまでの決意が宿っていた。
九文は、その様子を眺めながら、ふっと力を抜いたように笑った。
「案ずるな、源五郎。長福丸様はな、生まれながらに王者の風格を備えておられる。あの方は、他者の痛みを己のものとして感じる、稀有な魂の持ち主だ」
九文の声が、優しく、しかし鋭利な響きを帯びる。
「だが、その類まれなる『仁』を政治の力に変え、若君を補佐していくのは、他ならぬお前の役目だ。それができるよう、わしの指南はいささか……いや、相当に厳しいものになるがの」
九文は、獲物を見つけた獣のような、あるいはすべてを見透かす神仏のような、得体の知れない眼光で源五郎を射竦めた。
「覚悟は、できておるか?」
その視線の圧力に、一瞬だけ息が止まりそうになる。だが、源五郎に迷いはなかった。これほどの知恵を、これほどの怪物を師と仰げることが、どれほど幸福なことか。
「――いかようなりとも!」
源五郎は顔を上げ、九文の眼差しを真っ向から受け止めた。
「どのような苦行、いかなる叱責も厭いませぬ。わが命、この瞬間より九文先生の教示に従い、若君のために捧げる覚悟にございます!」
自分が願った師匠に、間違いはなかった。源五郎の胸には、熱い感激がこみ上げていた。同時に、この「知恵の怪物」が回す巨大な歯車の一部となり、共に時代を動かしていくことへの、命を賭した決意がその小さな体に満ち満ちていた。
九文は、その若き決意を満足げに見届けると、立ち上がりざまにひらりと手を差し伸べた。
「よい返事だ。では、参るか。徳川の未来……いや、日の本の未来を変える最初の一歩だ」
二人の影が、西日の差し込む中奥の廊下を、力強く踏み出していった。
ーー歴史は躍動するーー
「来たわよ、キタキタ……。市杵、湍津、見て! あの人が九文先生よ!」
大奥の女中部屋。格子戸の隙間から、田心が声を弾ませて手招きした。渡り廊下の先、先導する源五郎の後ろを、悠然と歩く僧侶姿の男――九文の姿があった。
「田心から聞いていたのは、もっとこう、浮浪者のような風体を想像していたけれど……。今こうして見ると、とても堂々としていて、気品すら感じるわね」
市杵が感心したように呟いた。神話の時代では「剣」として在った彼女たちの瞳には、男の背後に立ち昇る、時代を動かす巨大な知恵の奔流が見えていた。
「ここが歴史の分岐点なのかもしれないわ。男子禁制の大奥に、将軍以外の成人男性が足を踏み入れる。家康公以来のご法度を破ってまで改革を断行する……吉宗公の並々ならぬ覚悟を感じるわね」
そんな姉たちの神妙なやり取りを余所に、湍津はもぐもぐと口を動かしていた。
「……大奥の食事って、本当に物足りないわ。出入り商人の差し入れがなきゃ、この重労働には耐えられないっての」
頬をリスのように膨らませ、饅頭を放り込む。
「市杵は要領がいいし、田心は長福丸様の言葉がわかるから重宝されてるけど、私ばっかり雑用を押しつけられて、しわ寄せが来ちゃうんだから」
「もう、だから私たちの分もあげてるでしょ!」
田心が苦笑して嗜めた、その時だった。湍津の頭の上に、いつの間にか一羽の鳥――文一が、しれっと止まっていた。
「これで歴史は、ようやく良い軌道に乗ったわけだな」
文一の呟きに、市杵がふと疑問を抱いて問いかける。
「ねえ、文一。あの九文先生って、私たちの知る本来の歴史には存在しなかったはずよね? これ、歴史改変になっちゃうんじゃないの?」
「でも」と、田心が九文の背中を見つめながら言葉を継いだ。
「これまで関わった人たちの、凄まじい熱量を感じるの。これが歴史の外側の話だなんて、とても思えないわ」
文一は翼を整えながら、達観したような声で言った。
「歴史は少しずつだが、常に変化しているのだよ。過去は変えられないというのは、単なる固定観念に過ぎない。現在も過去も、より良い未来に向けて絶えずアップデートされているのさ」
いわゆるタイムトラベルものにありがちな“歴史改変の禁忌”は、そこまで神経質に気にする必要はない――三人はこのとき、ようやくそれを理解したのだった。
「えー? 歴史に干渉しないように、ずっと気をつけていたのに……」
市杵は、これまでの慎重さが無駄だったような気がして、どこか損をしたような顔になる。
「文一、そういうことはもっと早く言ってよ~!」
ーー日本史のモブキャラ、表舞台へーー
湍津は、自らの頭上で悟りを開いたような口を叩く文一に、半眼で視線を投げた。
「そうなの? じゃあ日本史や世界史を一生懸命勉強しても、役に立たないじゃない。テストの答えがアップデートで変わるなんて、たまったもんじゃないわよ」
そんな言い合いをしていた、その時。
「ははあ。お主ら、どこかの女学生だな?」
廊下を渡っていた九文が、ふと足を止め、女中部屋の隙間から覗いていた三人を見据えて笑った。その瞬間、湍津の頭の上で「歴史の真理」を語っていた文一が、シュパッと音を立てるような速さで、一本の古風な「簪」の姿に化けた。
「お主らからは、他の女中たちとは違う『匂い』がする。どうだ、お前たちも一緒に勉強しないか?」
九文の唐突な誘いに、隣の源五郎も大きく頷く。
「九文先生からのお誘いだ! 特に田心、お主は長福丸様と言葉が通じる稀有な女子だ。来てくれると非常に助かるんだが…」
さらに、背後から現れた長福丸付きの厳格なお局様が、扇子でパシッと畳を叩いた。
「お前たち三人は、掃除をさせれば埃を残し、お使いに出せば迷子になる。今ひとつ使い勝手が悪うて困っておったのだ。長福丸様のご学友の仕事を命じるゆえ、九文先生について行ってまいれ!」
「はいっ! 喜んで!」
田心は、待ってましたとばかりに目を輝かせて立ち上がった。歴史の当事者になれる喜びが全身から溢れている。
一方、長女の市杵は、肩でため息をついたまま「ええ~……」と不満げな声を上げた。
「そんな、窓際族みたいな評価だったんですか?私、結構、文書係としてお役に立てていたと思うんですけど……」
そして、もっとも不心得なのが食い意地の張ったの湍津である。彼女は懐に隠していた饅頭の最後の一口を飲み込むと、図々しくも指を一本立てた。
「行ってもいいですけど、お饅頭、追加でいただけるなら行きます! 勉強って脳の栄養(糖分)を消費するんですから!」
「ははは! 面白い女子らだ。よし、お前には知恵の回る特製饅頭を用意させよう」
九文の豪快な笑い声が響く。こうして、神話から来た三姉妹は、掃除当番から「将軍家跡継ぎの学友」という、大奥始まって以来の超エリート(?)コースへと華麗なる転身を遂げたのであった。
ーー第一回・九文ゼミナールーー
開講される直前、妙な間が流れた。
「……厠に行っておきましょうか?」
源五郎の至極まっとうな問いかけに、若君・長福丸がコクンと深く頷く。源五郎に手を引かれ、若君がパタパタと座敷を出ていくと、部屋には九文と三姉妹だけが取り残された。
九文はおもむろに胡坐をかき直し、ニヤリと口角を上げた。
「……さて。お主らも、わしと同じだな?」
「は?」「同じって、何がですか?」
市杵と田心が首を傾げ、湍津が「え、先生も隠れて饅頭食べてるんですか?」と的外れな反応を返した、その時である。
湍津の頭で「簪」に化けていた文一が、ボフッという音と共に鳥の姿に戻った。
「説明しよう! この九文なるお方、実は高天原方面からの『転生者』なのだよ!」
「ええええええ!?」
三姉妹の絶叫を余所に、文一は翼を広げて講釈を続ける。
「お前たちも知っているだろう。八意思兼命。知恵の神にして、天界の最高技術顧問、いわば『高天原のチーフ・ナレッジ・オフィサー』だ! 天照大御神が岩戸に引きこもった際、フェスを開催して引きずり出すというトンデモ解決策を提案した、あの御方だよ!」
すると、九文の身体から神々しい光の帯が溢れ出し、その姿が一瞬、透き通るような神の威厳を帯びた。八意思兼命(九文)は、朗らかに語りかける。
「いやあ、宗像三女神が人間界に転生しているとは聞いておりましたが……まさか江戸城大奥の女中に紛れ、偶然お会いできるとは。幸甚の至りに存じます」
「神様……っていうか、大先輩じゃないですか!」
市杵が口をあんぐりと開ける。湍津は「知恵の神様なら、もっと美味しい饅頭のレシピとか知ってます!?」と、相変わらずの食い気だ。
「私も知恵の神ですからな。たまにこうして下界に降りて、知識をアップデートしておかんと、天界の会議で話についていけなくなるのでして……おっと、若君がお戻りのようだ」
九文がパチンと指を鳴らすと、部屋を包んでいた神聖な光の帯が霧散し、どこからどう見ても「怪しい坊主」の姿に戻った。
「…………」
あまりの急展開に呆然とする三姉妹。しかし、田心だけは妙に納得した顔でポンと手を打った。
(そうよね。九文先生のあの神出鬼没ぶり、人間業じゃないと思ってたわ。八意思兼命様なら、鎖国中の日本で地球が丸いことくらい、グーグルマップを見る感覚で知ってるはずだわ……!)
そこへ、スッキリした顔の長福丸と源五郎が戻ってきた。
「お待たせいたしました、九文先生。……あれ、皆さん、なんだか魂が抜けたような顔をしていますが?」
源五郎の不思議そうな声に、九文は「いやあ、今、ちょっとした『宇宙の理』について議論しておりましてな」と、食えない笑みを浮かべるのであった。
ーー奇跡の共鳴交信ーー
「あ……う……」
長福丸の唇から漏れるのは、いつも通りの、形にならない微かな音だった。
いつもは、周囲の者は戸惑い、その真意を汲み取れずに立ち尽くばかりであった。今、九文は慈愛に満ちた、しかし絶対的な確信を宿した瞳で若君を見つめた。
「若君とは、一度腹を割って語り合いたいと思っておりました。どれ……少々、工夫を」
九文が静かに瞼を閉じ、深く呼吸を整えた瞬間、座敷の空気が一変した。
奇跡は音もなく、光の渦となって現れた。九文の「耳」が、まるで霊的な変容を遂げるかのように、自身の顔ほどもある巨大な金の蓮華のごとき形へと拡大していく。
それは、世界のあらゆる微細な振動を、魂の言葉へと翻訳する神の聴覚。
しかし、その超常の光景は、常人である源五郎や長福丸の目には映らない。彼らにとっては、ただ九文が深く、深く若君の声に耳を傾けている静謐な時間として流れている。
だが、三女神は違った。
「えっ……なにこれ、すごい!」
市杵と湍津が同時に声を上げ、互いの頭を指差した。いつの間にか、二人の髪飾りには、柔らかな光を放つ「ウサギの形をした櫛」が挿し込まれていた。因幡の白兎が神の言葉を伝えたように、それは耳を介さず心へと声を届ける霊的な受信機であった。
「……聞こえる。若君の、心の声が、こんなにハッキリと」
二人が驚きに目を見開く中、九文は静かに目を開け、田心を見つめた。
「田心殿。お主には、このような櫛は不要であるな」
田心は深く頷いた。彼女には、若君が発する「あ……う……」という音の背後に流れる、美しく、繊細で、濁りのない思考の旋律が、濁流のような情報となって流れ込んでいた。
「はい、九文先生。若君は今……『自分を受け入れてくれる場所が、ここにあることが嬉しい』と、そう仰っています」
その言葉が発せられた瞬間、部屋に渦巻いていた光の帯が、弾けるような祝福の粒子となって全員を包み込んだ。
もはや、そこには障害も、身分の壁も、言語の不自由も存在しなかった。
源五郎は、若君の表情がかつてないほど晴れやかに、理知的な光を帯びていくのを驚愕の思いで見守っている。
「さあ、始めましょうか。心と心が直接響き合う、真理のゼミナールを」
九文の朗々とした声が、江戸城の深奥に、新しい時代の産声を響かせた。神と、人と、未来の王が、一つの円卓を囲んだ奇跡の夜が幕を開けたのである。
ーーラジオパーソナリティー、九文ーー
静まり返った座敷に、どこからともなく心地よい異界の旋律が流れ込んできた。それは雅楽のようでもあり、あるいは未来の異国で奏でられるチェロの低音のようでもある。
「私は、紀州の徳川家の子として生まれた。母は私が物心付く前に亡くなっていた。父とは滅多に会えず、この大奥に来て誰とも言葉を交わすことができなかった。それは……ただ独り、終わりのない暗闇にいるのと同じであった」
その声は、震える吐息ではなく、驚くほど透き通った理知的な響きを持って全員の脳裏に直接届いた。
源五郎は目を見開き、市杵と湍津は頭のウサギ櫛をそっと押さえる。長福丸が紡ぐ言葉は、淀みなく、深く、彼の内側に秘められていた膨大な思考の深淵を物語っていた。
「やがて、源五郎が私の言葉を解してくれるようになった。そして田心……今はここにいる全員と話ができる。嬉しい。こんな日が来るとは、夢のようだ」
若君の魂の独白が、夜の静寂に溶けていく。
すると、九文がゆっくりと扇子を広げ、まるで熟練の放送主のような、包み込むような低音で語り始めた。
「お初にお目にかかります。九文と申します。僭越ながら、父君吉宗公より若君のご指南役を拝命いたしました。これからは、この世の理、美しき物事、民の暮らしと心……それらを詳らかに、心地よくお話しして参りましょう。どうぞ、楽しみながらお付き合いください」
その鮮やかな語り口に、市杵は思わず呟いた。
「……これって、まるでお気に入りのラジオ番組のスタートみたい」
「そう!深夜ラジオはね、受験生の心のオアシスなのよ!」
田心のその叫びに、市杵も湍津も、そしてどこか遠くを見つめる源五郎までもが、不思議な一体感に包まれた。
「わかるわ……! 私も模試の結果がボロボロで泣きそうな夜、あのノイズ混じりの声にどれだけ救われたか」
市杵が拳を握りしめて熱弁を振るう。
「お葉書コーナーに、電話リクエスト……。あの独特の距離感、独りじゃないって思える感覚。あれがあったから、辛い勉強を乗り切ってこれたのよね〜!」
すると、隣で必死に笑いをこらえるような仕草をしていた湍津が、肩を震わせて乗っかってくる。
「そうそう! リスナーのお悩み相談とか最高だったわ。あと投稿小噺! 必死に口を押さえて笑い死にしそうになって……翌朝、寝不足で顔がパンパンになるのまでがワンセットよね!」
その様子を思い出した市杵が、呆れたように、しかし合点がいったという顔で指を差した。
「……湍津、あんたが夜中に布団の中で、芋虫みたいに痙攣しながら『くふっ、くふふっ』って異様な音を立てていたのはソレだったのね。てっきり何かの呪術にでもハマったのかと思ったわよ」
三姉妹の盛り上がりに、頭の上で「簪」から「鳥」へと戻った文一が、翼をパタつかせて不満げな声を上げた。
「おいおい、我輩の存在を忘れてもらっちゃ困るな。お前たちが志望校に合格できたのは、我輩の緻密な出題傾向アドバイスと、神掛かり的なヤマ当てのおかげであろうが。まさか、我輩のありがたい講釈をBGMにして、ラジオの小噺で笑い転げていたとは……。よくそれで国立大学にに潜り込めたものだ」
文一の呆れ顔に、田心は胸を張って言い返す。
「文一、わかってないわね。深夜ラジオは単なる娯楽じゃないの、生存戦略よ! 暗闇で一人、ペンを握る孤独を癒やしてくれる……そう、まさに砂漠の中のオアシスだったんだから」
九文……いや、知恵の神・八意思兼命は、その喧騒を満足げに眺めていた。
「ははは、女学生諸君の熱意、しかと受け止めた。どうやら『耳から入る言葉の力』については、私から教えるまでもなかったようですな」
九文は改めて、目を丸くしてこの光景を見つめている長福丸へと視線を戻し、再びあの、深く響く低音を響かせた。
「左様。書を読むのも大事ですが、耳から伝わる言葉は、暗がりでも心に鮮やかな絵を映し出します。転寝していても、微睡んでいても、それはいつの間にか血肉となって残るもの。若君、どうぞ気負わず、ゆるりとお聞き流しください……」
九文の言葉が、深夜のラジオ番組のように、長福丸の孤独だった心へ染み込んでいく。それは同時に、源五郎や三姉妹にとっても、見たこともない世界へと漕ぎ出す冒険の合図であった。
九文は扇子を閉じ、マイクを握り直すかのような仕草で、星空の向こうを見据えた。
「――七つの海の世界旅行。今夜のお相手は、あなたの旅の案内人、九文が務めさせていただきます。……さて、今夜は、たくさんの船が集まり多くの商人が往来する、イタリアはベネチアの街中からご案内いたしましょう。水の路に揺られるゴンドラの音を聞きながら……しばしの間、異国への旅路をお楽しみください」
ラジオの周波数が合うように、全員の意識が九文の物語に同調する。江戸城の奥深く、秘密の深夜放送が、今、静かに幕を上げた。
ーー続くーー




