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さきどり・スクェア(田中オフィス・スピンオフ)  作者: 和子


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№14_白狐のアシスタント~九文先生の白熱教室


ーー鎖国日本から世界の旅へーー


「さて今宵は――鎖国の世にありながら、はるか西方、イタリア・ベネチアへと至る「見えぬ航路」を、言葉の船で辿ってまいりましょう。

 まずは日本の南端より、(えにし)を頼るところから始まります。薩摩藩の人脈に、そっと糸を垂らすのです。表には出ぬ密やかな繋がり、それがこの旅の第一歩――」


 時刻はまだ昼前であるが、江戸城奥深くの座敷は、障子を閉めれば昼の光もやわらかく遮られ、ほの暗い静寂に包まれる。そこは、時の感覚すら曖昧になる、どこか現実から切り離された空間であった。


 その薄暮の座敷に、九文の声が低く響く。


 ゆったりと、耳に心地よく。

まるで夜更けに布団の中で聴くラジオのように、言葉は形を持たぬまま、しかし確かな景色となって、それぞれの胸に広がっていく。


 水の匂い、町行くの往来、遠くで鳴る波の音――。

誰も見たことのない世界が、まぶたの裏に鮮やかに浮かび上がる。


 長福丸(ながとみまる)はじっと息を潜め、源五郎(げんごろう)は腕を組んだまま静かに聞き入り、三姉妹もまた、それぞれの思い出と重ねるように、その声に身を委ねていた。


 市杵が、ふと首を(かし)げる。現代の感覚が、どうにも引っかかっていたのだ。


「ねえ九文先生。だったら――品川あたりから、そのまま船で琉球まで行ったほうが早いんじゃないですか?」


 その問いに、九文は扇子で口元を隠し、くつくつと静かに笑った。


「……そうしたいところだがの。残念ながら、それは叶わぬ」


「えっ、どうして?」


 九文は、語り口をそのままに、まるでラジオの解説コーナーのように続ける。


「まず、江戸前の海というものを思い浮かべてみなされ。あの湾はな、見た目よりもずっと浅い。大きな船――たとえば千石船や菱垣回船の類は、隅田川の河口あたりまでしか入れぬのだ」


 源五郎が腕を組み、低くうなずく。

「……ゆえに、品川沖や佃島沖に停泊する、と」


「左様。そこが江戸の“外港”である。荷はさらに小舟に積み替え、新川や日本橋川へと運び込む。――つまり、大船がそのまま江戸の奥深くから出入りすること自体、なかなかに難しいのだよ」


 市杵は「なるほど」と言いながらも、まだ納得しきれない様子だ。


「でも、それでも外海(そとうみ)に出ちゃえば、そのまま南に行けそうじゃないですか?」


 九文は、今度は少しだけ声の調子を落とした。


「そこにもう一つの壁――鎖国の法度、というやつだよ」


 その一言に、三姉妹は「うわ、出た」とでも言いたげな顔を見合わせた。


 空気が、わずかに引き締まる。


「琉球はな、薩摩藩の支配下にありながら、“異国”として扱われておる。ゆえに、江戸から直接船を出して往来することは、基本的に許されておらぬのだ」


 湍津が目を丸くする。

「え、じゃあ直行便みたいなのはゼロってこと?」


「ほぼ、な。仮に強行すれば……密航、あるいは密貿易と見なされるやもしれぬ」


「うわ、急にリスク高い……」


 田心が肩をすくめた。


 九文は、軽く扇子を閉じ、話を切り替える。


「さて――では現実的な道筋をお話ししよう」


その声は、まさに番組の“本編”へ入る合図のように響いた。


「江戸を発つなら、まずは西へ。紀伊半島沖、土佐沖を経て、薩摩へ向かう。船であれば、風待ちを含めておおよそ一月前後――早ければ二十日ほど、遅ければ四十日以上かかるであろう」


 源五郎が静かに補足する。

「黒潮と風向きに左右される、ということか」


「その通り。千石船は追い風でこそ進む船。逆風にはからきし弱い」


 市杵が、少し感心したようにうなずいた。

「思ったより不自由なんですね……」


「うむ。そして薩摩――たとえば山川港あたりで一度足を止める。ここが大きな関門だ」


「関門?」


「薩摩藩の監視と許可を受けねば、先へは進めぬ。琉球行きの船団と合流するか、あるいは乗り換える必要がある」


 湍津が吹き出す。

「乗り換え!? まさかのトランジット!」


「ふふ、そういうことだな」


 九文は、わずかに楽しげに目を細めた。


「そこから先、奄美の島々を経て、ようやく那覇へ。順調でも十日から二週間。――すべて合わせれば、やはり一月から一月半の旅となる」


 しばし、沈黙。


市杵はぽつりと呟いた。

「……思ってたより、ずっと遠い」


「距離だけではない。制度と風と人の都合――それらすべてが、旅の長さを決めるのだ」


 九文の声が、静かに部屋に広がる。


「だからこそ、この時代に異国へ渡るということはな……ただの移動ではない。“覚悟”そのものなのだよ」


 その言葉に、誰もすぐには返事ができなかった。


 やがて、田心がぽつりと笑う。


「でもさ……だからこそ、ロマンあるよね」


 九文は、ゆっくりとうなずいた。


「うむ。遠いからこそ、人は夢を見る」


 扇子が、静かに開かれる。

九文は、持ってきた頭蛇袋の中から、巻物を何巻か取り出した。

まず一巻目、巻物を開き、最初の絵、琉球王国を見せる。

挿絵(By みてみん)

「――さて、小さき船に身を預け、潮の香りに包まれて南へ。たどり着くは琉球王国。ここは日本と大陸を結ぶ、静かなる交差点。異国の言葉と風が混じり合う場所にて、次なる船を待ちます。


 やがて現れるのは、巨大な帆を張った清国の商船。波を割り、我らを澳門(アオメン:現在のマカオ)へと運びます。ここは西洋の影が色濃く差す港町――香と鐘の音が交差する、不思議な世界。

挿絵(By みてみん)

 さらに乗り継ぐは、ポルトガルの誇る大船、ナウ船。重々しい船体は海を支配するかのように進み、インドのゴアへ、そして遥か南、荒ぶる海の関門――喜望峰を回り込みます。(まだスエズ運河はありません)


 嵐と静寂を幾度も越え、ようやく辿り着くのがリスボン。世界の富と文化が集まる西欧の玄関口でございます。……しかし、旅はここで終わりではありません。さらに北東へ――運河の都、ベネチアへ。


 ……しかし、夢の都へ入るには、一つの関門がございます。東方からの旅人を待ち受けるのは、厳格なる検疫の関所、『ラッザレット・ヌオーヴォ』。これは長崎の出島のようなものでございます。ここでおよそ四十日。病なきことを証明するまで、静かなる孤独の時間を過ごすこととなります。


 ですが、その四十日を越えたとき――目の前は鮮やかに彩られます。

挿絵(By みてみん)

 鐘の音。鳩の羽ばたき。人々のざわめき。

そして眼前に広がるのは、世界の中心とも言うべき名所――サン・マルコ広場。


 これを見てようやく、旅人は「ベネチアに来た」と実感するのです。


 持参した工芸品はここで資金に換えます。さすれば宿は、この広場近くに確保できましょう。

そしてもし言葉が通じるなら――ぜひ足を運んでいただきたい場所がございます。


 カフェ・フローリアン。


 享保5年創業の、知識人、芸術家、旅人たちが交差する場所。

一杯のコーヒーの向こうに、時代と思想が行き交う、まさに「言葉の港」でございます。


――さて。


 こうして私は長き航海を終え、水の都ベネチアへと辿り着きました。


石畳の代わりに水が道となり、馬車の代わりにゴンドラが揺れる。

建物は水面から立ち上がり、空と水が境を失う街。


 この都は古来、「アドリア海の女王」と呼ばれております。

その名に偽りはございません。


 遠き日本から、幾重もの海を越え、ようやく辿り着いた水の都。

その光景は、果たして夢か現か。


 ここで旅はしばしの休息となります。今夜の航海はここまで。

次の放送では、この街のさらに奥深く――仮面の裏に隠された人々の物語へとご案内いたしましょう。


 それでは皆さま、どうぞ良い夜を。

お相手は、九文でございました。



ーーギャラリーの拍手と不満ーー


――ぱち、ぱち、ぱち……。


 静まり返っていた座敷に、遅れて広がる拍手の余韻。

だがそれは、賞賛だけでは終わらなかった。


「いいところで終わっちゃった!これで“また来週”なんて言われたら、一週間仕事にならないわ!」


 田心がぱたりと手を止め、恨めしげな視線を九文へと突き刺す。


 その隣では、先ほどまで目を輝かせて聞き入っていた長福丸が、名残惜しそうに源五郎の袖をくいと引いた。

「……ベネチアに入ったのに……これから、であろう……?」


 小さな声には、明らかな未練が滲んでいる。


「そうよ! ここからが本番じゃない!」

湍津も腕を組み、憤懣やるかたないといった様子で畳を軽く踏み鳴らした。


「サロンも、美術も、仮面夜会マスカレードも、全部これからなのに……!」


 三者三様の“リスナーの不満”を浴びながら、九文はどこ吹く風といった調子で、ゆるりと扇子をあおぐ。

そして、少しだけ声を低く――いつもの“番組の締め”の調子で告げた。


「……次回は、今宵(こよい)


「え?」


三人の声が揃う。


「皆が寝静まってから、続きを語ろう。―――だが、さすがに深夜に大人の男が大奥にいては、(いささ)か具合が悪いのでな」


 源五郎が、ふっと口元を緩める。

「それは……確かに、私は若君の寝所の近くで夜詰(よづめ)しておるが、一人前の男とは思われておらん」


「でしょう?」

九文は肩をすくめるように笑い、そしてふと視線を奥へと向けた。

「――だが、案ずるには及ばぬ。いい助手のあてがありました」


 その言葉に、場の空気がわずかに変わる。


「紹介しよう」


 九文が声をかける。

「お万様―――」


 す、と。奥まった襖が、静かに開いた。


 差し込むわずかな光の中、ゆっくりと現れたのは一人の女性。

凛とした(たたず)まい。

無駄のない所作。

そして、場の空気を一瞬で引き締める気配。


 御中臈(おちゅうろう)――。


 それは大奥において、御正室や側室に次ぐ上級職。

選び抜かれた家柄、教養、そして美貌を兼ね備えた者のみが就くことを許される地位。


 一歩、また一歩と進み出るその姿に、三姉妹は思わず息を呑む。


「……うわ、レベチ……」

市杵が小声で呟く。


 田心も、思わず背筋を伸ばした。

「これが……本物の上級職……」


 湍津は、なぜか小さく正座し直している。


 その女性――お万は、静かに一同へ目を配り、やがて九文へと視線を戻した。

九文は、まるで番組の新コーナーを紹介するかのように、穏やかに言う。

「今宵より、私に代わり、深夜の案内を共に務めていただく方だ」


 座敷に、再び静寂が落ちる。


昼餉(ひるげ)前のはずの空間は、いつしか完全に“夜の気配”を帯びていた。

――次の放送は、深夜。


 その予告だけが、確かに全員の胸に刻まれていた。



ーーお稲荷様の白狐(しろぎつね)ーー


「伏見稲荷より、この江戸へ参りまして百年――『お万』と申します」

しとやかに一礼したその女は、まさに絵巻から抜け出たような気品をまとっていた。


 柔らかな声音でありながら、どこか底知れぬ響きを含んでいる。

八意(やごころ)思兼命(おもいかねのみこと)のご命とあらば、このお万、微力ながらお役に立てればと存じます」


 市杵は思わず小声で囁いた。

「……“微力”ってレベルじゃない気がするんだけど」


 湍津がこくこくとうなずく。

「絶対ラスボス級よ、あれ」


 田心は腕を組み、妙に納得した顔で言った。

「いやでも、“お稲荷様の使い”って、つまりあれでしょ?白狐(しろぎつね)的な――」


 その瞬間。

お万の視線が、ほんの一瞬だけ三姉妹をかすめた。

ぞくり、と。

言葉にできぬ圧が、空気を震わせる。

三人はぴたりと口を閉ざした。


 九文は、そんな様子を見てくすりと笑い、話を続ける。

「彼女はな、宇迦之御魂(うかのみたまの)大神(おおかみ)の命により、この江戸に遣わされた。野に棲む狐ども――いわゆる野狐を導き、徳を授け、各地に稲荷の祠を築かせたのだ」


 源五郎が低く呟く。

「……それで、あの数か」


 昭和の頃では、すでに戦火にて多くは失われていたが、それでも四百以上ある。

街角の小さな祠まで含めれば、かつては万を超えていたであろう。


 田心が目を丸くする。

「万って…道を歩けば稲荷に当たる、と言われるほどよね」


 お万の声は穏やかだが、その内容は常識を超えている。

「ゆえに私は、江戸における総元締めとして――この大奥に身を置いております」


 その一言で、場の空気が変わった。

“棲みついている”。

その言葉の意味を、誰も軽く受け止めることができなかった。


 九文は懐から一巻の巻物を取り出し、そっと差し出す。

「今宵の講義内容は、こちらに記してある。道具は頭陀袋に」

 九文は頭陀袋をお万に預け、三姉妹へと視線を向ける。

「使い方も、その巻物にすべて書いてあるよ。よく読んでおいてくれ」


 そして、静かに言い添えた。

「――そなたでなければ、できぬ(わざ)だ」

その言葉が、お万の胸に妙に重く残る。


 何かが始まる――いや、すでに事は進んでいるのだと、三姉妹はようやく理解し始めていた。


 そのとき。

ドン……ドン……ドン……

江戸城に、昼を告げる太鼓が響き渡る。

現実へと引き戻すような音。


 若君付きのお(つぼね)が、部屋に入ってきて、ぱっと空気を切り替えた。

「そなたたち、膳を運んでおくれ。ここで皆で頂きましょう」


「は、はい!」

三姉妹は慌てて立ち上がる。


 先ほどまでの緊張感が嘘のように、場は一転して日常の気配へ戻っていく。


「では――今宵に」

お万はそう言い残し、音もなく奥へと消えた。


 その背を見送りながら、市杵がぽつりと呟く。

「……なんか、怖いんだけど、夜が待ち遠しいわ」


 昼餉(ひるげ)が運ばれてきた。


 整然と並べられた膳。

一人一膳――だが、長福丸と九文の前には二の膳まで添えられている。


 九文は目を丸くした。

「ほう……これはまた、見事な」


 田心がひそひそ声で言う。

「九文先生、テンション上がってる」


「これまではな、街中で見世物や語りをして糊口をしのいでおったが……いやはや、贅沢(ぜいたく)を尽くした食事だな」

 源五郎も、お局も、三姉妹も一膳ではあるが、その内容は庶民のそれとは比べ物にならない。


 だが――。

「失礼致します」源五郎が静かに進み出る。


 彼は長福丸の膳の前に座り、一品ずつ、確かめるように箸をつけていく。

椀、皿、汁――すべてに一度、口をつける。

そして、箸を置くと、じっと時を待つ。

――二分、三分

誰も言葉を発しない。


 さきほどまでの和やかな空気は、音もなく消え失せていた。


 市杵が、かすかに息を呑む。

(……毒見)


 歴史の教科書で見た言葉が、いま、目の前の現実として息づいている。

源五郎の表情は微動だにせず、ただ静かに時の経過を待っている。


 ――やがて。

「……問題ございません」

低く、確かな声が落ちる。

「お召し上がりください」


 長福丸が、ようやく箸を取った。


 その一瞬。三姉妹は、はっきりと悟った。

ここは――教科書の中で安全に眺める「過去」ではない。

権謀術数が渦巻く、国の中枢そのもの。天下の覇者たる徳川のダイナスティであっても、ほんのわずかな油断が、即座に命を奪う。


 とりわけ大奥という閉ざされた世界では、若君の急逝など、いつでも起こりうる話なのだ。


 笑いも、食事も、そのすべてが、かろうじて保たれた均衡の上にある。

昼の光の下でさえ、影は確かに息づいていた。



ーー食後の団欒ーー


 食後の座敷には、穏やかな静けさが戻っていた。

膳はすでに片付けられ、ほのかに残る出汁(だし)の香りが、満ち足りた余韻を漂わせている。


 長福丸の前には、数枚の水墨画が広げられていた。

琉球の門前、異国の香り漂う港町マカオ、そして水の都ベネチア――いずれも見たことのない景色でありながら、不思議と胸の奥に訴えかけてくるものがある。


 お局がそっと身を乗り出し、絵を覗き込んだ。


「……見事な絵ですね。これ、みな九文先生がお描きになったのですか?」


 感嘆を隠さぬ声に、九文は扇子を軽くあおぎながら、いつもの調子で応じる。


「いえいえ。中国の水墨画を手本にして描いたものです。実際に見てみねば、何とも申せませぬが……」


 どこか飄々とした、とぼけた言い方だった。


 市杵がちらりと九文を見る。

(絶対ウソでしょ、それ……)


 湍津も小さく肩を震わせる。

(あのリアルさで“手本”は無理があるって)


 田心は口元を押さえ、必死に笑いをこらえていた。


 ――実際には、見てきたのだ。

遥か遠き異国の風景を、この目で。


 だが、それを口にすることはできない。鎖国の法度を破ったことがバレる。


 この時代の絵の常識は、「写すこと」にある。

古き名画を手本とし、筆致をなぞり、構図を受け継ぐ。そこにこそ技量が問われるのであって、「見たままを描く」だの「独自の表現」だのは、まだ価値として確立されてはいない。


 九文の言葉は、むしろごく自然な受け答えであった。


 お局は深くうなずき、感心したように言う。


「それでも、これほどの臨場感……ただの模写とは思えませぬ。まるで、その場にいるかのようでございます」感づいているわけではない。ただのお世辞の表現である。


 長福丸も、じっと絵を見つめている。

その眼差しは、先ほどの旅の語りを思い出しているのか、どこか遠くを見ているようだった。


「……行って、みたい」


 ぽつりと漏れたその言葉に、座敷の空気がわずかに揺れる。


 九文は、その声を聞き逃さなかった。

だが何も言わず、ただ静かに微笑む。


 源五郎は腕を組み、低く呟く。

「……絵が、心を動かしたか」


「絵もまた、言葉と同じ。見る者を遠くへ連れてゆく力を持つものだ」


 九文の声は、柔らかく、それでいて確信に満ちていた。


 外では、昼の光がまだ強く差している。

だがこの座敷の中だけは、どこか時の流れが緩やかだった。


 食後のひととき。

笑いと、驚きと、ほんのわずかな秘密を抱えながら――


彼らは再び、見えぬ旅の余韻に浸っていた。



ーー師匠と呼ばせてください!ーー


 昼餉の余韻も尽き、座敷の空気は再び張りつめていた。

九文の講義は午後も続く。長福丸と源五郎に加え、草薙三姉妹も同席を許されている。


 その開始前――。


「九文師匠! 私を弟子にしてください!」

ばさり、と畳に額を擦りつける勢いで伏したのは湍津だった。


 市杵が思わず顔を覆う。

「出た……湍津の暴走モード……」


 田心も苦笑する。

「スイッチ入ると止まらないのよね、この子……」


 だが湍津は顔を上げ、真剣そのものの眼差しで九文を見据えていた。


「あの水墨画――ただの模写じゃありません! 遠近法、陰影、光の捉え方……西洋画にも匹敵する、いえ、それ以上です! 江戸の世であの表現はあり得ないレベルです!」


 熱のこもった言葉が、座敷に響く。


 九文はというと、扇子を軽くあおぎながら、実にあっさりと受け流した。


「そうかな」


 そして、さらりと続ける。


「絵の才は、むしろ湍津さんのほうが遥かに上だと思うぞ。わしは――少々ズルをして描いたに過ぎぬ」


「ズル……?」


 湍津の眉がぴくりと動く。


 九文は周囲を見渡した。

人払いがなされていることを確認すると、静かに言う。


「障子を閉めてくれ」


 す、と光が遮られる。

室内は、昼でありながら仄暗い密室へと変わった。


 九文はもう一つの頭陀袋から、折りたたまれた木の箱を取り出す。

手際よく組み立てると、それは簡素ながらも奇妙な箱型の装置となった。


「カメラ・オブスクラ――イタリアでは広く用いられておる道具だ」


 箱の上には、布が掛かっている。

光を遮るためのものだ。


「さあ、布を頭からかぶって、箱の上を見てみるがよい」


 湍津が恐る恐る布をかぶり、箱の中を覗き込む。


「……っ!」


 思わず息を呑む。

(とこ)の間の生け花が――

そのまま、しかし奇妙に反転して、ガラスの上に置かれた半紙へと映し出されている。

上下も、左右も、すべて(さか)さに。


「すごい……これ……そのまま描ける……」


「うむ。西洋では木炭やチョークでなぞることが多いが、日本の半紙と毛筆は実に相性がよい。速く写し取る(わざ)を身につければ、誰でも写実の絵が描ける」


 九文は淡々と語る。


「ただし――欠点もある」


 湍津が顔を上げる。

「左右が逆のまま、ということですか」


「その通り。上下は返せばよいが、左右はそうはいかぬ」


 市杵が腕を組む。

「確かに……鏡みたいなものですね」


 九文は、わずかに口元を緩めた。

「ゆえに、ひと工夫加えた」


 空気が、再び張り詰める。


「銀塩という溶剤を、ガラスに塗ったのだ」


 市杵の眉が動く。

「……光に反応する物質ですね」


「うむ。光が当たった部分が変質する。いわば、明暗を(ネガ)に記録するガラス板ができるのだ」


 湍津の目が輝く。

「光が当たったところが暗く固まる……写真の原理……!」


 九文は続ける。

「さらに――赤、青、緑。それぞれ質の良いステンドグラスを用意し、この装置に差し込めるよう改造した」


 三姉妹が息を呑む。

「別に三色ごとに(ポジ)板を用意し、それぞれに赤・青・緑色を混ぜた銀塩液を塗る。そしてそれぞれの色の(ネガ)板を重ね合わせ、太陽光に晒す――」


 九文の声は低く、しかしどこか楽しげだった。

「すると、色ごとの()(ポジ)が現れる。すなわち――“色”が再現されるのだ」


 しん、と静まり返る座敷。

それは、この時代の常識を明らかに逸脱した技だった。


 田心がぽつりと呟く。

「……それ、もう絵じゃないじゃん……」


「技術という智恵か」

源五郎が低く言う。


 九文は、静かに扇子を閉じた。

「その一式は――お万様に預けてある」


 その名が出た瞬間、空気がわずかに冷える。


「まあ――」

九文は、ふっと微笑んだ。

「今宵を楽しみに待つとよい」


 昼であるはずの座敷に、どこか夜の気配が差し込む。

湍津は、まだ震える手で箱を見つめていた。


 その瞳には――

ただの憧れではない、何か別の熱が宿り始めていた。



ーー白狐(しろぎつね)、お万の方ーー


 彼女は、江戸城大奥の奥深くで、長い時をひっそりと過ごしてきた。


 人目を避けるように部屋に籠り、滅多に外へは出ない。


 付き従う女中もおらず、訪ねてくる者もない。


 歴代の将軍の目に留まったことも、一度としてなかった。


 もし仔細に調べる者があれば――

お万という存在が、百年以上の歳月をこの大奥で生きていることに気づいたかもしれない。


 だが現実には、そのような者はいなかった。


 大奥という場所は、常に人が入れ替わる。

若い者が入り、やがて去り、また新たな者が加わる。


 その繰り返しの中で、変わらぬ存在は、やがて「当たり前」となり――

誰の記憶にも残らなくなる。


 お万は、そうして“そこにいるもの”として、ただ静かに存在し続けていた。


 女中は、決まった刻限になると膳を部屋の前に置き、声をかける。


「昼餉にございます」


 すると、襖の向こうから、穏やかな声が返る。


「かたじけのう」


 それだけである。


 しばらくして戻ると、膳はきれいに空になっている。

姿を見せぬまま、日々は過ぎていく。


 多くの女たちが暮らすこの場所では、日常は淡々と流れるものだ。

次々と仕事に追われる女中たちにとって、一つ一つの違和など、立ち止まって考える暇もない。


 そうして――誰も、お万のことを深く気に留めなくなった。


 その静寂の中で。

お万は、ただ一人、部屋に座していた。

眺めているのは、九文から渡された巻物。

神の智恵の深さに感銘を受けながらゆっくりとそれを読み返している。

挿絵(By みてみん)

「……たしかに、これは私にしかできないわね」

独り言のように呟く声は、どこか愉悦を含んでいた。


そのとき、控えめな声が襖の外から響く。

「ご所望の、龕灯(がんどう)をお持ちしました」


「そこに置いておいて」

簡潔なやり取り。


 龕灯とは――夜の捕り物に用いられる携帯の明かり。

暗闇を切り裂き、盗賊を追い詰めるための、小さな光。

全部で三つある。


 お万はそれを手に持ち、向きを変えて構造を確認すると、再び巻物へと視線を戻す。


「あの長福丸様付きの女中三人……」


 市杵、湍津、田心。


「……これもまた、彼女たちにしかできぬ役目」


 すべてが、理に適っている。


 偶然ではない。

配置であり、導きであり、必然。


 九文の描いた“陣”の内に、すでに組み込まれているのだ。


 お万は、ふっと微笑んだ。

「さすが――八意思兼命様」


 その名を口にするとき、声はわずかに低くなる。


「すべて、この時のために整えられていたのですね」


 静かな感嘆。

それは、畏敬に近い響きを帯びていた。


 転生した神――九文。

その智は、人の及ぶところではない。


 部屋の中は、再び沈黙に包まれる。

白狐お万の方は、龕灯の一つに小さな狐火(きつねび)を灯した。狐火は熱を帯びず、強い光を放つ。九文から託された頭蛇袋の中から、赤いステンドグラスの板を取出し、龕灯の投光口に被せると、赤みを帯びた映像が襖に写った。なにかの風景のようだ。


 今宵――

その光が、何を照らし出すのか。

まだ誰も知らない。



――夜五つ!全員集合、大奥・月下(クリーピング)潜入作戦(・アンダーザムーン)――


 江戸城大奥、夜五つ(午後八時)。

表の喧騒が嘘のように、広大な御殿は深い闇の底に沈んでいた。昼間は華やかな衣擦れの音や女たちの笑い声が絶えないこの場所も、今はただ、重厚な静寂が支配する別世界である。


 その静寂のただ中で、ひとつの布団が、もぞりと動いた。


「……みんな、起きてる?」

市杵が、布団からカメのように首だけを出して囁いた。


「モチのロンよ……」

即座に返ってきたのは田心の声だ。しかし、その語気には隠しきれない眠気が混じっている。薄暗い行灯の残り火に照らされた彼女のまぶたは、すでに半分以上閉じかけていた。


「みんなで起きれば……怖くない……」

湍津たぎつの返事は、もはや現世と夢の境界線を漂っていた。語尾はふにゃふにゃとほどけ、今にも寝息に変わりそうである。


「起きて、起きてってば!」

田心が半分寝ぼけながらも、隣の湍津の肩をぐいぐいと揺さぶる。


「んあっ!? はいはい任務ね、任務!」

ぱちっと目を開ける湍津。一瞬で意識を覚醒させるその切り替えの早さは、こういう悪だくみ……もとい、極秘任務の時だけ妙に頼もしい。


 三人はそそくさと布団を抜け出し、寝巻きの上に羽織をひっかける。足音を殺し、障子の隙間から廊下の様子を窺った。


 ――し~ん。


 冷たい板張りの廊下には、人影ひとつない。


「……さっきまで、見回りがいたよね?」

市杵が吐息のような小声で尋ねる。


「うん。でもこの時間は、もう最後の巡回が終わってるはず」

田心が、妙に冷静な分析を口にした。


「夜に動く人なんて、せいぜいトイレ……あ、(かわや)くらいでしょ」

緊張感があるのかないのか、暗闇の中でどうでもいい雑談が続く。


 再び、廊下を見る。

――大丈夫、いける。


 三人は闇の中で顔を見合わせ、こくりと頷いた。

忍び足で、す……す……と廊下へ。畳と違い、漆塗りの板床は油断すれば派手な音を立てて軋む。一歩、また一歩。彼女たちの神経は足裏に集中していた。


「ねえ……」

先頭を歩いていた湍津が、唐突に振り返った。


「なに?」


「暗闇の中で作戦遂行するガールズってさ……」


 湍津の瞳が、いたずらっぽく輝いている。

「……私たち、江戸のキャッツ・シーフみたいじゃない?」


 言うが早いか、彼女は鼻歌でそれっぽい旋律を奏で始めた。

「ちゃんちゃらら~ん♪ ちゃらら~♪」


「よしなさいってば!」

 田心が慌てて湍津の口を両手で塞ぐ。

「音を出したら即・御用でしょ!」


「えー、でも雰囲気大事じゃない?」


「雰囲気で捕まってナギナタでお手打ちになったら元も子もないの!」


 市杵が小声で割って入った。

「いいから、進む! 任務優先!」


「はいはい隊長~」


 ひそひそ声の応酬を続けながら、しかしその表情には隠しきれない高揚感が滲む。彼女たちが向かうのは、長福丸(ながとみまる)の寝所。そこには源五郎がおり、お万の方も来ているはずだ。


 そして何より――今夜、ベネチアから持ち帰った「あの技術」を披露する“本番”が待っているのだ。


 きし……。


わずかな床の音に、三人が同時に石像のように固まった。

「……今の、誰の?」

「あなたでしょ!」

「違うってば!」


 暗闇の中で再び揉め始める三人。だが幸いにも、人の気配が近づく様子はない。

三人は細く長い息をつき、再び歩みを進めた。


 江戸城大奥の深奥。

緊張と高揚、そしてほんのりとしたコメディを連れ立って、江戸の怪盗三姉妹は闇の中へと消えていく。



ーー享保の「スライドショー」ーー


 夜の帳がすっかり降りた頃、長福丸の寝所には、ひそやかな熱気が満ちていた。

畳の上に円を描くように人々が腰を下ろし、三姉妹たちの到着を待っている。


「おう、待ちかねたぞ」

源五郎が低く声をかけ、長福丸が手招きをする。


「はやく! 九文先生の旅の続きが見たいよ」

長福丸は弾む声で言い、身を乗り出す。


 言葉が聞き取れるようになったことで、その好奇心は一層あらわになっていた。まるでどこにでもいる年相応の子供のように、胸を躍らせていて、抑えきれない好奇心がその瞳に宿っていた。


「待ってたわよ。はい、これを持って」

お万が静かに言い、三姉妹へ薄いガラス板と龕灯(がんどう)を手渡す。


「下にガラスを乗せる台があるわ。そこに乗せて、白い壁へ向けて」


 三人はおそるおそる手元を確かめながら準備を進める。

灯りを落とした室内では、白壁だけがぼんやりと浮かび上がっていた。


「……いい? 驚いて落とさないように、しっかり持っていてよ」

お万の声が空気を引き締めた次の瞬間――


 ふ、と。


 龕灯の奥に、小さな火が灯る。


 いや、それは火ではなかった。

揺らめきながらも熱を持たず、異様に澄んだ光。

目を奪うほど強く、それでいて静かな輝き。


 狐火。

お万の妖力が、そっと形を取ったものだった。


「……っ」

壁に像が浮かび上がる。


赤。

青。

緑。

三つの光が、それぞれ同じような建物の輪郭を描き出していた。


「これを――」


 お万が囁く。


「一つに重ねてごらんなさい。ばらばらの絵を、ひとつに」


 三姉妹は息を合わせ、慎重に位置を調整する。


「もうちょい右!」

「待って、そっちが高い!」

「え、これで――」


 ぴたり。


 三つの光が重なった。


 その瞬間。

「……!」

壁に現れたのは、もはや“絵”ではなかった。

挿絵(By みてみん)

 光と影が確かな立体感を帯び、まるでそこに実物が存在するかのように壁へ定着している。

遠くに広がる水面。

精緻な建物の装飾。

空気の冷たささえ感じられそうな奥行き。


 三姉妹は同時に声を上げた。


「写真だわ!」

「きれい……!」

「こんな強い光、江戸に来てから初めて見た……!」


 源五郎は腕を組んだまま目を細め、長福丸は口を開けたまま見入っている。


 動きはない。


 音もない。


 だが――。

それは確かに、“その場所”を切り取った存在だった。


「……まるで、そこに立っているようだ」

誰かが呟く。


 九文の語りがなくとも、この光景だけで人々は遠い異国へと連れ出されていた。


 壁に映し出されたのは、遥かベネチアの姿。


 静止したままの世界。

だがその静けさこそが、かえって現実味を帯びて迫ってくる。


 それは――

動かぬままに心を動かす、もうひとつの“語り”。


 享保の世にひっそりと現れた、名もなき技。


 ――スクリーンに投影された「映画」であった。


 次のガラス板が、そっと三姉妹の手に渡された。


 市杵、湍津、田心は顔を見合わせる。

さきほどの光景がまだ胸の奥で脈打ち、指先がかすかに震えていた。


「いくわよ……」


 市杵が小さく息を吸い、湍津が真剣な眼差しで頷く。

田心も龕灯を握り直し、静かに呼吸を整えた。


 ――灯りがともる。


再び、赤。

青。

緑。

三つの光が、壁へそれぞれ別の像を描き出す。


「……合わせて」


 お万の静かな声が落ちる。


 三人は慎重に位置を調整した。

ほんのわずかなズレが像を歪ませる。

指先の震えすら、結果を左右する。


 そのとき――


「なんてことなの!」


 湍津の声が漏れた。

光がわずかにずれ、建物の輪郭が二重にぶれた。

幻想的でありながら、どこか不安定な像へと崩れていく。


「ちょっと!」

市杵がすかさず声を上げる。


「しっかり! ちゃんと合わせて!」


「言われなくても――!」


 湍津はぐっと龕灯の持ち手を握り直した。


「合わせマ~ス!」


 その声には、さきほどとは違う熱が宿っていた。

ただの遊びではない。

この光を、正しく“完成させたい”という強い意志。


 ――静寂。


 三つの光が、ゆっくりと寄り添う。

息を合わせ、わずかな角度を調整し、影を整える。


 そして――


 ぴたり。


 三つの光が重なった。

その瞬間。


「……っ!」

息を呑む音が、部屋のあちこちで重なった。


 現れたのは――

圧倒的な美。

挿絵(By みてみん)

 光と影が織りなす、精緻なる構図。

人の手で描かれたとは思えぬほどの奥行きと気配。

天へと伸びる構造。

神秘を湛えた光。

静けさの中に宿る、圧倒的な存在感。


 それは、ルネサンスの巨匠ティツィアーノが生み出した世界。


 享保年間の江戸の片隅に、

サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の内部が、

まるで本物のように立ち上がっていた。


 祭壇に鎮座する巨大な絵画――

『聖母被昇天』。


 朝日が差し込む時間に訪れれば、色彩が燃えるように輝くという。

「色彩の魔術師」と呼ばれたティツィアーノの真骨頂。


 その光景が、いま、江戸の闇の中に再現されている。


「……すごい……」


 田心が呟く。


「これが……本物の……」


 市杵は言葉を失い、湍津はただ立ち尽くした。


 先ほどの失敗が嘘のように、像は完璧だった。

壁はもはや壁ではない。

そこは、世界の窓だった。


 誰も動かない。


 動けない。


 ただ、光の中へ引き込まれていく。


 ――心が躍る。


 知らぬはずの世界が、確かにここにある。

その奇跡に、誰もが言葉を忘れていた。



ーー真夜中の展覧会ーー


 九文が撮ってきた映像は、全部で二十枚。

しかも一枚につき三色の原版があるから、合計六十枚。


「……こんなの、どうやって持ち歩くのよ」

市杵が呆れたように袋を覗き込む。


頭蛇袋ずだぶくろに入れておけって言われたけど……絶対ムリよね」

湍津も眉をひそめる。

普通の袋なら、とうに破れて中身が散乱している量だ。


 そんな二人の前で、お万が一本の巻物を取り出した。

「九文先生から渡された書付に、こう書いてあったわ」


 お万は咳払いして読み上げる。


『この袋は、亜空間の入り口なり。地球にやさしい、巨大な収納袋。自動で再配置して目録も作ってくれるので、断捨離不要』


「……は?」

三姉妹はそろって固まった。


 田心がぼそっと呟く。

「未来から来たネコ型AIに付いてる無限ポケットみたいなものね」


「ちょっと田心、それは……」

市杵が慌てて手を振る。

「権利問題に引っかかるわよ!」


「えっ、そうなの?」


「そうなのよ! そういうのは、ほら……大人の事情ってやつ!」


 湍津が腕を組んで頷く。


「じゃあ、どう言えばいいの?」


「そうね……“未来の技術でできた、なんでも入る袋”とか……」


「それ、ほぼ同じじゃない?」


「気にしないの! 言い方が大事なの!」


 三人のやり取りに、部屋の空気が一気にゆるむ。


 だが、袋の中身は次々にベネチアの風景を白壁に投影する。

その六十枚のガラス板は、まるで重さを感じさせないのだ。


「……ほんとに出し入れ自由ね」


「しかも軽い……」


「これ、絶対妖術じゃなくて、もっとヤバい技術よね……」


 三姉妹は袋を囲んで、しばし沈黙した。

そして――


「ま、便利だからいいか!」

湍津が明るく言い放つ。


「そうね! 九文先生の旅の続き、全部見られるんだもの!」

市杵も笑顔になり、田心は袋を抱きしめるように持ち上げた。


「じゃあ……真夜中の展覧会、続けましょうか」


 お万が灯りを落とすと、

闇の中、亜空間袋はかすかに光っていた。


 その中には、まだ見ぬ世界がぎっしり詰まっている。


 江戸の夜は、これからが本番だった。


ーー続くーー

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