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さきどり・スクェア(田中オフィス・スピンオフ)  作者: 和子


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№11_江戸から始まる異世界生活~九文先生の白熱教室


ーーその男、放浪につきーー


 向島の桜の下、狂乱を鎮めたあの鮮烈な記憶が、源五郎(げんごろう)の胸から離れない。刀を抜くこともなく、ただ巧みな口上で大勢の目を一つに集め、荒くれ者たちの毒気を智恵で翻弄して解放した男――九文(きゅうもん)


 あれ以来、源五郎の心の中には焦燥に似た衝動が絶えず訪れていた。真の師匠が見つかったのだ。


「どこにも、いない……」


 漏れた吐息は、白くもならずに初夏の空へと消えていく。


 名前を頼りに江戸の町を洗っても、宗門人別帳にその名は見当たらない。町内の古株に尋ねても、みな一様に「そんな御仁は聞いたこともない」と首をひねるばかり。


「住所不定、か」


 まだ十三歳の少年には、八百八町の広さがにわかに重く、あまりに広大な迷宮のように感じられた。


 それでも、源五郎は諦めなかった。

大奥の使いを自ら進んで引き受け、市中へ出る口実を作る。あてずっぽうに歩いているわけではない。彼は、街の隅々に漂う「噂」の欠片を拾い集めていたのだ。


「ぼろを纏った変わり者が、妙な問答をしていた」

「坊主でも浪人でもない、得体の知れぬ男だ」

「人を笑わせるだけ笑わせておいて、最後にはぴしゃりと黙らせる」


 その断片を、源五郎は心の内でひとつに繋いでいった。


「今日は、湯島よ」

隣を歩く女――田心(たきり)が、軽やかな声で言った。

大奥女中として奉公しているが、その実、彼女は一九八二年の世界から迷い込んだ未来人である。


(日本の最高学府のルーツを探る……)


 彼女の目的はそれだった。田心はどこか楽しげに、源五郎に語りかける。


「昌平坂学問所ができるのは、まだずっと先。でもね、その前に――ここ、絶対に外せないのよ」


 彼女が指さした先には、深い森が広がっていた。江戸の喧騒を忘れさせるような、静謐な気配。


 そこは湯島聖堂。

元禄の世、徳川綱吉によって建立された孔子廟である。後に幕府直轄の学問の殿堂となるその地は、現代の言葉で言えば「日本の学校教育発祥の地」であった。


 石段を上がるにつれ、木々が空を覆い、降り注ぐ光が細い糸のようになる。


「ここで、九文先生を見たって噂よ」


 田心が小声を潜める。源五郎は黙って頷いた。

これまで、噂話は全て空振りであったが、今回は確信があった。根拠などない。だが、ここに来れば必ず会える。胸の鼓動が、その予感を肯定していた。


 石段の影で、ふと二人は足を止めた。

風が梢を揺らす。源五郎は前を見据えたまま、静かに口を開いた。


「ここに、いる気がする」


 田心は少しの間、沈黙を守っていたが、やがて意を決したように声を絞り出した。


「……源五郎様」

「なんだ」

「わたし、ただの女中ではありません」


 源五郎は驚かなかった。むしろ、「ようやくその時が来たか」という凪いだ顔をしていた。


「知っている。おぬしの言葉は、時折(ときおり)、妙に遠い。江戸の者ではない響きがある」


 田心は虚を突かれたように目を見開き、やがて苦笑した。

「やっぱり……。私は、遠い未来から来ました。一人ではありません。姉妹三人、――私の他に、市杵と、湍津」


 源五郎は黙って、その告白を受け止める。


「私たちは、この時代の学問を調べに来たんです。江戸の学問所、その始まりを。そして――九文先生に会ったのは偶然ではないと思うんです」


 しばし、沈黙が降りた。

やがて源五郎は、小さく息を吐き出す。


「……そうか」


 それだけだった。疑いも詰問(きつもん)もない。戸惑ったのは田心の方だった。


「……信じてくれるんですか?」


 源五郎はゆっくりと振り返る。その瞳は、射抜くように真っ直ぐだった。

「信じるも何もない。九文先生に会う。それが先だ。それに――」


 ほんのわずか、彼の口元が緩んだ。


「あの方の方が、よほど不思議だ」


 田心は思わず吹き出した。確かに、その通りだ。未来から来た人間以上に、あの男の存在は”理”(ことわり)を外れている。


「田心がいると、心強い。実際、ただの女中ではないのは明らかだ」


 源五郎は再び前を向く。


長福丸(ながとみまる)様をお守りする為とああれば、信じるも信じないもない。行くぞ」


 一歩、踏み出す。

田心はその背中を見つめた。まだ十三歳の少年。だが、その覚悟の揺るぎなさは、すでに一角の武士(もののふ)のそれであった。


「はい、行きましょう」


 二人が石段を上りきった、その時だった。

森の奥から、低く、だがよく通る声が響いた。


「――よいか、実際に組んで見せよう。百聞は一見にしかず――」


 間違いない。あの声だ。


 木立の奥、石畳の先。

一人の男が、背を向けて立っていた。

襤褸(ぼろ)をまとい、手には何も持たず。だがその周囲には、町人、浪人、僧、子供までもが、身分の垣根を越えて集まっていた。


「書にして見せられてもなあ――字ぃ読むのは苦手なんだ」


 男――九文が言う。


「おぬしの心は、どう見るかな?文字を追うのをやめて、わしの言葉に思いを乗せて、木を組み立てるのを見てみよ」


 一同が沈黙する。その重苦しい沈黙を、男は楽しむように可笑しそうに笑った。


 源五郎は、迷わず一歩を踏み出した。


「……九文先生」


 男が、ゆっくりと振り返る。

あの日と同じ、食えない笑み。


「おや」


 九文は目を細めた。


「落し物の首を届けてやった小僧が、ようやくわしを探し当てたか」


 田心が小さく息を呑む中、源五郎は凛とした声で宣言した。


「学びに来ました」


 九文はしばし、少年の顔をじっと見つめ――やがて、天を仰いで可々と笑った。


「よろしい。ならば、ここが学問所だ」


 風が揺れ、湯島の森がざわめく。

その日、まだ誰も知る由はなかった。

この静かな聖堂の森から、後に江戸の学問を根底から揺るがすことになる「白熱教室」が幕を開けたことを。



ーー九文の値ーー


 湯島の森の奥、木漏れ日がパッチワークのように地面を彩る一角で、源五郎と田心は足を止めた。


「……やっと見つけた、九文先生」


 源五郎と田心は目を見合わせて微笑む。

そこには、江戸の最先端学術拠点(建設予定地)とは思えないほど、のんびりとした光景が広がっていた。


 簡素な作業台の前に、相変わらずの襤褸(ぼろ)をまとった男。

九文である。


「へえーっ! すげえ、『念彼観音力(ねんぴかんのんりき)』だ! 観音菩薩様(かんのんぼさつさま)のお導きだ!ありがてぇ」


 若い大工が、身を乗り出して目を輝かせている。

九文の手元には、削りかけの材木が転がっていた。


「観音力も結構だが、これは”理”(ことわり)だ。こうやって、ここの『凹』とこっちの『凸』をだな、三つ合わせると角ができるのよ……」


 九文が細い木片を、まるでおもちゃのパズルをいじるように指先で動かす。

カチリ。

小気味よい音とともに、木片同士が吸い込まれるように一体化した。釘もなければ、糊の跡すらない。


「親方の教え方じゃ、ちっともわからなかったんですよ。『気合で合わせろ!』とか『木と心を合わせるんだ!』とか言われるばっかりで」


 大工は後頭部を掻きながら、自嘲気味に笑う。

九文はそれを見て、愉快そうに鼻を鳴らした。


「それは災難だったな。これは昔からある『規矩術(きくじゅつ)』というやつだが……おまえさんの棟梁は腕がいい、体で覚えている分、言葉にするのを面倒がる。いや、言葉にできない不器用者が多いのだ」


「まさにそれです! 毎日怒鳴られて、俺、自分の物覚えが悪いのかと思ってました」


 少しだけ悔しそうに笑う大工を見て、九文は静かに頷く。


「お前は悪くない。教える側が怠慢なだけだ。いつまでも親方の影に隠れず、自分で理を掴もうとするのは、良い心がけだ。その志こそが、真の『念彼観音力(ねんぴかんのんりき)』を呼び寄せるのだからな」


 大工は感銘を受けた様子で、懐から小銭を引っ張り出した。


「先生、ホントにこれでいいんですか?」


 掌に乗った銭を一瞥し、九文は気だるげに言った。


九文(きゅうもん)でよい」


「九文…安すぎませんか? 夜鳴きの立ち食い蕎麦より安いですよ!」


 大工の驚きに、九文は肩をすくめてひらひらと手を振る。


「昼間のきつねうどん一杯か、一膳飯が食えれば十分。無病息災の秘訣はな、腹が減っていることよ。だいたい、食いすぎが病気の元だ。九文が高いか安いかは、明日のお主次第だな。明日、親方に怒鳴られずに仕事が済めば、この九文は安い。だが、明日またドジを踏んでゲンコツを食らえば……九文すらドブに捨てたも同然、高い買い物だったということだ」


 大工は一瞬、きょとんとした。

だが、すぐに意味を理解して吹き出した。


「ははは! (ちげ)えねえや! 九文なら、腹をくくって試せる安いもんだ!」


 大工は木片を宝物のように抱え、深々と頭を下げて去っていった。その後ろ姿は自信に溢れ、迷いは微塵もなかった。



ーー師のかたちーー


 若い大工が去り、湯島天神の境内には、再び柔らかな静寂が満ちていった。

初夏の陽光を吸い込んだ青葉が、重なり合って深い影を落としている。その影の中で、源五郎は静かに、しかし決然と一歩前へ出た。


 そして、深く頭を下げる。

立ったまま、腰の高さまで背を折り、額が乾いた土に届きそうなほどの、一点の曇りもない真摯な礼。


「お願いがございます」


 九文は動かない。手にした木片をもてあそぶこともやめ、ただ無言で少年の言葉を待った。

渡る風が、社殿の鈴をかすかに鳴らす。源五郎は顔を上げぬまま、畳みかけるように言葉を紡いだ。


「あの一件……向島での花見の騒ぎにて、私は己がいかに未熟であるかを思い知らされました」


 声は低く落ち着いている。だが、その底には、武家の(せがれ)としての矜持を削り取られたあとの、剥き出しの悔しさが滲んでいた。


「南町奉行、大岡越前様より下されたお裁定(さいてい)……その中のお言葉にございました。『九文先生を師と仰ぎ、学べ』と」


 ゆっくりと、源五郎は顔を上げた。

「そのお言葉は、(まこと)であると確信いたしました」


見開かれた眼差しは、十三歳の少年が持つにはあまりに鋭く、一点を射抜いて揺るがない。


---


 九文は、その真っ直ぐな双眸(そうぼう)をしばし見つめ返していた。


 やがて、困り果てたように無造作に後頭部をかく。

「……困ったのう」


 源五郎の喉が、微かに鳴る。拒絶の予感に、全身の筋肉が強張(こわば)った。


 九文は肩をすくめ、視線を空へと投げ出した。

「わしはな、わずか九文で智恵を売る。だからこそ、この身をどこにも縛られず、自由でいられるのだ」


 木陰の先に広がる、江戸の空を見上げる。


「今はたまたま、この場所におるが……普段はな、世界中を渡り歩いておるのだよ」


 ふっと、悪戯(いたずら)っぽく笑う。

その言葉を聞いた瞬間、隣にいた田心の瞳が大きく見開かれた。源五郎もまた、息を呑む。


(世界……)


 それは単なる法螺(ほら)や比喩には聞こえなかった。

もし、言葉通りの意味だとしたら。厳格な鎖国の法を、風のようにすり抜けて歩く男だとしたら。

だが、眼前の九文という男の在りようを見れば、それが「あり得ぬ話」だとは到底思えなかった。


---


 九文は、二人の動揺を余所(よそ)に言葉を継ぐ。


「わしが偉そうに学問の師匠とやらになって、高説を垂れる。……それは、どうにも座りが悪い。わしの性分には合わんのだ」


 静寂が、三人の間を支配する。

源五郎の両の(こぶし)が、青筋が浮き、白くなるほどに固く握りしめられた。

だが、九文の次の一声が、その緊張をふわりと解いた。


「おまえはな、元の出来がよい」


 思いも寄らぬ評価だった。源五郎が呆然と目を見開く。


「放っておいても、奉行どころか……この国を導く武家の棟梁にだってなれそうだぞ」


 風が、強く吹き抜けた。

ざわめく木の葉の音に混じって、その言葉が源五郎の胸の奥底を叩く。

励ましでも、お世辞でもない。

それは、まるで魂の形を見抜かれたような、峻烈な響きを持っていた。


 九文は、くるりと背を向けた。

「師などいらぬ」

 軽く手を振り、歩き出す。

「問いを持て。おぬしの中に、常に問いがあれば、それで十分よ」


---


 去りゆく襤褸ぼろの背中を、源五郎は見つめ続けた。

胸の奥で、何かが熱く、確かに脈動し始めている。


 (……それでも)


 彼は一歩、踏み出した。

「では――」


 声は静かだが、鋼のような強さを帯びていた。

「問いを持って、ここへ通ってもよろしいでしょうか」


 九文の足が、止まる。

振り返らないまま、男は一拍おいて答えた。


「……銭は取るぞ」

わずかな沈黙。

「九文な」


 その背中には、隠しきれない笑みが滲んでいた。

源五郎は、再び深く、深く頭を下げる。


「はい!」


---


 湯島天神の静謐な森の中で、奇妙な「師弟関係」が生まれた。

たった九文、うどん一杯程度で、智恵を授けるという。


 ただ「主君を支えるため」という思いを抱えた少年と、九文という名の謎に満ちた男が、歴史の片隅で交差した瞬間であった。



ーー転相(てんそう)の間ーー


(これで――まず一歩だ)


 湯島の境内に残る熱気を感じながら、源五郎は去りゆく九文の背を見送っていた。

自分が九文から学べばいい。そして、その知恵の真髄を、そのまま長福丸様へと献上すればいいのだ。


(私なら、あの方と等身大の言葉を、長福丸様にお話し申し上げることができる)


 混迷する江戸の空に、確かな光の道筋が見えるようだった。


(名君たる徳川吉宗公の後継者として、相応しい学問を身につけて差し上げるのだ)


 固く握りしめた拳に、力がこもる。


 これで、すべてが良き方へ――。


 その瞬間。


 世界が、ふわりと「ほどけた」。

鮮やかだった新緑の色が抜け、鳥の声が砂嵐のような雑音に変わる。

石畳も、木々も、遠ざかる九文の襤褸(ぼろ)の背中までもが、まるで数百年放置された古文書のように、カサカサとしたセピア色へと沈んでいく。


「……え?」


 田心(たきり)の隣にいたはずの源五郎の声が、水中で聞いたかのように歪んで響く。

猛烈な目眩。足元が底なし沼のように沈み込み、田心は抗う術もなく暗転の底へと引きずり込まれた。


 次に目を開けたとき。

そこは、重苦しい静寂に包まれた畳の上だった。

天井は低く、鼻をつくのは栴檀香(せんだんこう)の匂い。


「……大奥?」


 見覚えのある女中部屋。田心は何度も瞬きを繰り返した。

戻ったのか? いや、違う。これは「呼び戻された」のだ。


「ちょっとぉぉぉ! 遅いじゃないのぉ!」


 耳を突き刺すような、奇妙な金切り声。

振り向いた瞬間、田心は石のように固まった。


 そこにいたのは、自分とよく似た顔立ちの女――姉の市杵(いちき)だった。

だが、その姿が尋常ではない。

唇をこれでもかと突き出し、両手を羽ばたくように小刻みに振っている。そのシルエットはどこからどう見ても……。


「うわっ……市杵が『ひよこ饅頭』になってる……! 江戸(東京)土産(みやげ)の誕生の瞬間を、こんな形で見るとは思わなかったわよ!」と田心は歴史の一幕を感慨深く見つめていた。


「冗談じゃないわよ、こっちは必死なんだから!」


 市杵が畳の上でポヨンと跳ねる。

「この姿、あまり長くは()たないのよ! 用件を、手短に、かつドラマチックに言うわよ!」


 ふざけた外見とは裏腹に、その目だけは「未来人」としての鋭利な光を宿していた。

一瞬にして空気が凍りつく。


長福丸(ながとみまる)様の将軍世継ぎ――」


 市杵が声を潜める。

「内々定になったらしいのよ」


 田心の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けた。


「お局様の文書整理をしていたらね、『城外秘』の極秘文書を見つけちゃったの。もちろん、こっそり読んだわ」


 一言一言が、鉛のような重さで部屋に落ちる。


「――今より、本格的に勉学を開始せよ、って。これは事実上の『最後通告(アルティメイタム)』よ」


 沈黙。


 それは将軍家継承への号令であり、同時に、激烈な後継争いの幕開けを意味していた。


「お局様はね……あの方、すっかり弱気になっちゃって」


 市杵が声を潜め、品のよいお局の真似をして弱々しく語る。

「『長福丸様は少しお体が……。いっそ小次郎様か小五郎様をお勧めした方が、徳川の安泰のためになりはせぬか……』なーんて、泣き言を書こうとしていたのよ」


「……!」

 長福丸様では将軍は務まらぬ。その評価が定まれば、すべてが終わる。


「だから私、止めたわ。『今のうちから長福丸様では心配だなどと書けば、後で”不忠なり”とのお咎めを受けるかもしれませんよ』って、脅し……いえ、アドバイスして差し上げたの」


 田心が息を呑む。

「源五郎様が、必ずなんとかしてくれます。そう言って、賭けに出たわ」


「返事の文書は、当たり障りのない形に書き換えてもらったわ。お局様の手控え、写し取りを頼まれたから、そのついでに全部脳内にインプットしたのよ!」


 市杵が、ひよこの()(?)を指でトントンと叩く。


 時間がない。敵は城の内にこそいるのだ。


「――それを知らせに呼んだのよ」


「ちょっと待ったぁぁ!」


 別の弾んだ声が割り込む。

振り向くと、もう一人の姉妹、湍津(たぎつ)が目を輝かせて立っていた。


田心(たきり)! 江戸城って宝の山よ! 日本美術の国宝がそこら中に転がってるの!」


 深刻な状況に似合わない、爆発的な明るさ。

「これ、全部鑑賞して覚えるだけで、当代随一の教養になるわ! 源五郎様には一刻も早く戻ってもらって、私が絵画の英才教育を施すから! 長福丸様に伝わるように『翻訳』してあげて!」


 田心はそっと目を閉じた。

バラバラだったピースが、急速に形を成していく。

江戸の学問、幕府の政争、そしてあの九文という男。


「……どうであったか?」


 女中部屋の中に、いつの間にか文一が姿を現していた。

「知恵を貸してくれと頼んで――あの男が、断ることはなかったであろう?」


 田心は九文の、あの困ったような、それでいてすべてを楽しんでいるような笑みを思い出した。


「うーん……。質問すれば、九文で知恵を出すとは言われたわ……」

一拍置いて、彼女は苦笑混じりに続けた。

「でも、『教師になるのは真っ平ご免だ』って。どこまでも自由な人よ」


 市杵が「……厄介ね」と呟き、湍津が「でもそういう所、好感もてるわ!」とはしゃぐ。


 田心は目を開け、決意を固めた。

長福丸の未来。源五郎の覚悟。そして、九文という異分子。

すべてが絡み合い、歴史という名の巨大な歯車が、軋みを上げて回り出している。


 歴史の闇の中、江戸城の奥深くで、時代の扉が重く開く音が聞こえた気がした。



ーー優れたる末弟ーー


 大奥の最奥、揺れる行灯の光が壁に巨大な影を投げかけている。

その影の中に、ひよこ饅頭のようなコミカルな姿はもうなかった。市杵の瞳は、未来を知る歴史の観測者として、冷徹なまでの鋭さを取り戻していた。


「史実ではね――」


 市杵の声が、密室の空気を裂く。

田心は息を詰め、姉の次の言葉を待った。


「将軍継嗣の決定は、享保十年。……つまり、今から3年後が、歴史の分岐点なのよ」


 江戸城という巨大な伏魔殿(ふくまでん)。その胎内で今、次の「主」を決めるための静かな、けれど苛烈な綱引きが始まっている。


「長福丸様だけじゃないのよ、田心」

市杵が二本、指を立てる。

「弟君が二人。……小次郎様と、小五郎様」


 その名が出た瞬間、部屋の空気が目に見えて張り詰めた。


「小五郎様は――のちの一橋宗伊(むねただ)。長ずるにつれて、その聡明さは隠しようもなくなってくる」


 市杵は淡々と続ける。その語り口は、まるでこれから起こる「嵐」を予見しているかのようだった。


「多趣味でね、とりわけ武芸を好まれる。その苛烈なまでの精進ぶりは……」


「……吉宗公に、似ている」


 田心がぽつりと零した言葉に、市杵は深く頷いた。

「そう。鷹狩りを愛し、獲物を追うその姿は若き日の上様そのもの。けれど、彼が真に恐ろしいのは、その『剛』の裏にある『柔』の才よ」


 市杵は指で空をなぞる。

「鷹狩りの割り当て回数が足りなければ、兄君である田安宗武様と交渉し、枠を譲り受ける。その代価として、獲った鶴の血や骨を贈る。実利と情、その両方を天秤にかけ、人の心を掌握する術を生まれながらに知っているの」


「……ただの武芸好きじゃない」

田心の背筋に冷たいものが走った。


「逆も然りよ。宗武様が狩りに出る際は、一橋側から道具や鷹を貸し与える。敵を作らず、恩を売り、城内の均衡を絶妙に保つ感覚。……そして、それだけではないわ」


 市杵の声が、不気味なほど柔らかくなる。

「陶芸に染色、果ては自ら羊羹(ようかん)をこしらえて献上する文化の才。手染めの手拭いを家臣に与え、自作の器を父上に捧げる。……想像してごらんなさい、田心(たきり)


 田心は目を閉じ、その光景を浮かべた。

武を誇り、智を弄し、美を解し、そして「食」で人の胃袋まで掴む。完璧なまでのカリスマ。


「……人の心をつかむ、完璧な才」


「そう。そして何より決定的なのは――」

市杵が言葉を切る。一拍の静寂が、鼓動を早める。

「父上である吉宗公から、誰よりも寵愛されていたということ」


 空気が変わる。それはもはや「噂」(うわさ)の域を超えた、残酷なまでの現実。


「宝暦元年、一七五一年。吉宗公が亡くなる、まさにその前日よ。小五郎様は特に面会を許され、病床で最期の対面を果たしている」


 沈黙が部屋を支配した。

それは単なる親子の情ではない。死にゆく絶対権力者が、己の血脈の中で最も自分に近い「何か」を感じ取った者にのみ与えた、聖域の時間。


 田心はゆっくりと目を開けた。

脳裏には、聡明で真っ直ぐな源五郎と、その先にいる長福丸の姿があった。


「対抗馬……」


 長福丸。

そして、その後ろに控える「才」の化身、小五郎。


 事態は、もはや源五郎が九文に弟子入りして一件落着、という悠長な段階を越えていた。

徳川の根幹を揺るがす「嵐」は、すでに大奥の廊下を、冷たい風となって吹き抜けていた。



ーーもう一つの才ーー


 大奥の深奥、行灯の炎が小さく爆ぜたままの姿で、映し絵のように止まっている。その小さな光が、時間の停止した暗い女中部屋を僅かに照らしている。


「すぐ下の弟の小次郎様も、なかなかの方よ」


 市杵の声は低く、逃れられない予言のように田心の鼓膜を打つ。

「父君――徳川吉宗公も、一時は彼を後継にと考えたほど。けれど、最終的に選ばれたのは長福丸様だった」


「どうして……?」

田心の問いに、市杵は冷徹なまでの真理を突きつけた。


「長幼の序よ」


 かつて繰り返された血を洗う世継ぎ争い。徳川が刻んできた惨劇の教訓。それを破ることは、天下の理を壊すに等しい大罪。

「それに加え、後に長福丸様の御子に生まれることになる家治(十代将軍)様が、あまりに聡明だった。孫の代への期待――それが、家重を「つなぎ」と見て処遇したと言われているわ」


 田心は息を止めた。長福丸が選ばれたのは、彼自身の資質以上に、徳川家システムの効果と「未来の希望」という、抗いようのない外圧によるものだったのか。


「小次郎(宗武)様自身のお気持ちは……?」


 市杵は少しだけ目を伏せ、(くら)い影を宿した。

「強く望んでいたわ、次代将軍の座を。彼は兄の欠点を数え上げ、父に諌言した。けれど、それが逆に吉宗公の逆鱗に触れた。三年に及ぶ謹慎……凄まじい執念と、その果ての挫折」


 市杵は顔を上げる。その瞳には、一人の男としての「田安宗武」への畏怖が混じっていた。

「それでも、彼の才は本物よ。武だけじゃない。和歌を愛し、古風を尊ぶその誠実さは、一流の学者たちと対等に議論を交わすほど。故実にも通じ、父が再興した弓の儀式の奥義を求めて自ら門を叩く。彼は、一つの時代を定義できるほどの『知』の巨人なのよ」


 沈黙が降りた。


 田心の指先が、わずかに震える。

対抗馬として立ち塞がる、あまりに巨大な二つの影。

一人は、人心を掌握し、父の寵愛を一身に受ける「才の化身・一橋宗伊」。

一人は、古きを尊び、圧倒的な知性を誇る「知の怪物・田安宗武」。


 この二つの巨大な壁に比べ、自分たちが支えようとしている長福丸は、あまりに危うく、あまりに心許ない。


(無理だよ……)


 心のどこかで、(おび)えがささやいた。現代の女子大生にすぎない自分。十三歳の少年にすぎない源五郎。彼が必死に支える障害がありそうな長福丸様。そして、何を考えているか分からない浮浪の男、九文。

あまりにも劣勢で、手札が足りない。


「だからこそよ、田心(たきり)!」

市杵が一歩、近づく。その影が田心を覆う。

「長福丸様が、なぜ選ばれるのか。その『意味』が問われるの。ただ順番だから選ばれたのではないと、全江戸に知らしめるだけの何かが必要なのよ」


 田心はゆっくりと目を閉じた。

脳裏に浮かぶのは、湯島天神の静寂の中で、地を打つほど深く頭を下げた源五郎の姿。

そして、木片を「カチリ」と合わせ、世界の”理”(ことわり)を説いた九文のあの指先。


(逃げるつもりはない。私は通りすがりの「異邦人」に過ぎないけど)


 もしここで諦めれば、歴史は歪むかもしれない。源五郎の純粋な決意も、長福丸の孤独な戦いも、すべては巨大な壁の前に粉砕されてしまうだろう。


「……皆、すごいわ」


 田心は呟いた。その声には、もう震えはなかった。

誰が欠けてもおかしくない。誰が選ばれても不思議ではない。そんな怪物たちの時代に、自分たちは立っている。


 ならば、やることは一つ。


(学ばなきゃ。源五郎様と一緒に、あの九文という男から。理屈じゃない、この国を、この時代を動かす『本当の知恵』を)


 目を開けた田心の瞳に、強い光が宿った。

絶望的な実力差。政治の荒波。歴史の重圧。

それらすべてを繋ぎ止めることができるのは、九文という希望の「劇薬」なのか?――3姉妹の共通一次試験の知識、日本史の模擬テストの中には、「九文」という名前は出てこなかった。将軍継嗣決定は3年後の享保十年である。


「間に合わせる」


 その声は小さかったが、大奥の冷たい風を押し返すほどの強度を持っていた。

巨大な壁の先にある、まだ見ぬ未来を掴み取るために。田心は、一歩も引かぬ決意を胸に刻み込んだ。

 


ーーそのとき、江戸の歴史が動いた!ーー


 ――タイムアップ。


 その瞬間、セピア色の空間に大きな亀裂が走った。


 3人で話し合っていた大奥の景色が、まるで乾いた陶器のようにひび割れていく。音もなく、しかし抗いようのない力で。

田心の意識は靄の中に落ち、その後再び光の中へと放り出された。


---


 気がつけば、そこは湯島天神の境内だった。


 春の柔らかな日差し。現実の鮮やかな色彩。

すぐ傍らでは、まだあどけなさの残る大岡源五郎が、一世一代の覚悟を込めて深く頭を下げている。


 その先――。

襤褸(ぼろ)をまとい、ひょうひょうとした足取りで去ろうとする男の背中。


 九文先生。


「お待ちください!」


 田心の叫びが、境内の静謐を鋭く切り裂いた。

九文の足が、わずかに止まる。


「九文様――!」


 胸の奥から、堰を切ったように思いが溢れ出した。江戸城内の不穏な動き、迫りくる歴史の重圧。それらすべてを「今」にぶつけるように、彼女は叫んだ。


長福丸(ながとみまる)様を、お助けください!」


 必死の、祈りにも似た叫びだった。


---


 源五郎が、弾かれたように振り向く。

驚愕がその顔に張り付いていた。


(なぜ、今ここで……!)


 源五郎には、つい先ほどまで田心が大奥女中部屋へ呼び戻され、三姉妹と密談していたことなど知る由もない。


 だが、少年の鋭い直感が告げていた。

この女中の唐突な一言が、積み上げてきた均衡を破壊し、取り返しのつかない事態を招くのではないか。


田心(たきり)よ、控えよ!」


 思わず声を荒らげる。それは彼女を(とが)める気持ちからではなく、得難い師を得ようとする好機を失いたくないという、自己防衛の焦燥だった。


女子(おなご)が口出しするな! 黙れ!」


---


 沈黙。

梢を揺らしていた風が、ぴたりと止まった。


 九文が、ゆっくりと振り返った。

その目は、底知れぬほど静かだった。


「源五郎殿」


 振り返り、一歩、歩み寄る。


「君らしくもない。余裕を亡くしておるな」


 その声には、冷やかしではない、わずかな諭しの響きがあった。


「女性には、もっと紳士的に言葉をかけねばいかんよ。ましてや、これほどの覚悟を持って声を上げた御仁にはな」


 源五郎が、言葉を失って息を詰める。

九文の視線が、射抜くように田心へと移った。鋭く、しかし獲物を見つけた狩人のような愉悦を宿して。


「……それより、田心」


 その名を、存在を確かめるように低く呼ぶ。


「おぬし、今――『長福丸(ながとみまる)』と言ったな」


 境内の空気が、キリキリと音を立てるほどに張り詰める。


「それは、将軍家のお世継ぎではないか?」


 逃げ場はない。田心は膝が震えるを感じながら、九文の視線を真っ向から受け止めた。


「お前たちは――」


 九文の目が、細まる。


「その世話係か」


「……はい」


 田心は息を整え、震える声を抑えて答えた。

「はい。長福丸様をお守りする、端くれにございますが、源五郎様は、小姓というお役目にある、『主君』を守る武士もののふでございます!」


 田心の必死の声に、九文は、ふっと短く笑った。


「それを、早く言わねばいかん」


 くるりと踵を返す。去ろうとするのではなく、今度は二人の方へと、一歩、また一歩と踏み込んでくる。

風が、逆流するように強く吹き抜けた。


「引き受けよう」


その一言が、歴史の地鳴りのように響く。


「お主の指南役(しなんやく)をな」


 源五郎が、信じられないものを見るように目を見開いた。


(しつら)えは、そちらに任せる」


 口調は軽いが、その内容はあまりに重大だった。


「わしを――『学問指南役』として、長福丸様にお召し抱えいただけるよう、手配せよ。九文で知恵を貸してやると言ったはずだ。天下の主の知恵ともなれば、それなりの場が必要であろう?」


---


 静寂。


 それは、歴史という巨大な川の流れが、音を立ててわずかに分岐した瞬間だった。


 本来、緩やかに進むはずだった正史。

だが今、そこに九文という強烈な異物が混じった。

文一の暗躍。未来から来た三姉妹。そして、この禁断の決断。


 源五郎は呆然としていた。

だが、その胸の奥では、かつてないほどの激しい鼓動が鳴り響いている。

(これで――変わる。長福丸様の運命を、変えられる……!)


 田心は、ただ九文の底知れない瞳を見つめていた。

(これで、いいの……?)

答えをくれる者は誰もいない。


 ただ一つ、確信がある。

荒波に揺れる小舟のような、孤独な二人の子供。

長福丸と源五郎。

彼らがいつか、巨大な壁を乗り越えて笑い合えるように。


(私にできることは――これしかない)


 歴史は、静かに、しかし決定的にその進路を変えた。

湯島の森に吹き荒れる風は、新しい時代の到来を告げているようだった。


――続く――

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