№10_100万人の江戸~九文先生の白熱教室
ーー源五郎のお取調べーー
江戸城本丸、重苦しい静寂が満ちる一間。
南町奉行・大岡越前守忠相の前に平伏しているのは、弱冠十三歳の小姓、大岡源五郎である。後に将軍側用人として権勢を振るう大岡忠光その人だが、今はまだ若君・長福丸の影に仕える若木に過ぎない。
幕閣の一部には、その聡明さを「慇懃無礼」と忌み嫌う者も多い。今回の向島での騒動は、彼を失脚させる絶好の口実となっていた。
「……さて、源五郎。なんと釈明する?」
越前が手元の調書を繰る。そこには南町奉行所が執念で調べ上げた「筋」が記されていた。
「調べによれば、向島の花見客の諍い、そのきっかけを作ったのは他ならぬお主であるという。張本人は喧嘩をした男二人、および『九文』と名乗る正体不明の風来坊……。だが、その風来坊に『九文』という銭を投げ与え、騒動を煽り立てたのはお主だという報告が入っておる。相違ないか?」
越前の声は冷徹だが、その裏には焦燥があった。源五郎を取り立てたのは将軍吉宗。彼が失脚すれば、吉宗の権威が崩れる。幕府御年寄たちは「身内の酌量で"お灸"程度では済まされませんぞ」と釘を刺し、越前が手際よく源五郎を断罪するのを、薄ら笑いを浮かべて待っているのだ。
「面目次第もございません。いかようなりとも……」
源五郎は深く額を畳に擦りつけた。主君の御用で外出したと、長福丸の名を引き合いに出すわけにはいかない。己の好奇心が招いた失態として、すべてを背負う覚悟だった。
隣の間では、付き添っていた田心が拳を握りしめていた。
(源五郎様は、ただ江戸の活気を私に見せたかっただけなのに……このままじゃ、未来の歴史が変わっちゃう!)
彼女は周囲に人がいないことを確認すると、意を決して「アレ」を起動した。
「……もう、これしかないわね。チャレンジ制発動!」
唇を「きゅっ」と突き出し、両手を小鳥のようにパタパタと振る。江戸城の重臣が見れば「狐憑き」と叫んで祈祷師を呼ぶであろう、面妖極まりないポーズ。
シュンッ!
座敷の色彩が抜け、世界がセピア色の静止画へと変わる。
「OK、じゃあやるよ……。文一、壱杵、湍津! 此処に来て!」
空間が歪み、いつもの三人がポップアップした。
「ちょっと! お魚が今、最高にいい焼き加減だったのよ!」
団扇を手にした壱杵が怒鳴り、
「鉛丹…… 四三酸化鉛(Pb3O3)の輝きが……」
湍津は未だに屏風の下絵に魂を抜かれたような顔をしている。
「みんな、遊んでる場合じゃないの! 源五郎様が大ピンチなの。南町奉行所に、こないだの外出時の騒動に関わった事が全部バレちゃった。このままじゃ江戸城追放よ。助けて!」
ーー大江戸捜査網ーー
「さて、問題はここだな。調書にある『九文』という男の証言が必要になる。だが、百万人の住む江戸八百八町で、名もなき風来坊を一人探し出す……。これは容易なことではないぞ」
宙に浮く文一が、眼鏡のような器官を明滅させながら告げた。その言葉に、湍津が素っ頓狂な声を上げる。
「え、百万!? そんなに人がいるの?」
「当たり前でしょ。この時代の江戸は、ロンドンやパリを抜いて世界最大の都市なんだから」
市杵が団扇でパタパタと自分を仰ぎながら、冷静に補足した。
「シラミつぶしに聞いて回るのは時間がかかりすぎるわ。田心、何か手がかりになるようなことはない? 現場で直接見たんでしょ?」
田心はセピア色の静寂の中で、必死に向島の光景を呼び起こした。網膜に焼き付いた、あの喧騒と、胡散臭い男の笑顔。
「……そう。あの大げさな口上で人を集めて、『九文で収めてみせよう』って言ったの。源五郎様も面白がって、お金を渡すときに『もし猿芝居だったら倍にして取り立てるぞ!』なんて釘を刺してたわ」
「九文で揉め事を解決するから『九文』、ね。安売りなのか自信家なのか……」
市杵が思案顔を見せる中、田心は肝心な「異物」を思い出した。
「それから……あの人、懐から本物の頭蓋骨(しゃれこうべ)を取り出したわ。外つ国の男のものだとか何とか言って」
「はぁ!?」
湍津が飛び上がらんばかりに驚き、目を丸くした。
「え、それ、絶対ヤバい人じゃん! 映画の『デーモンサモナー』とか、漫画の『恐怖ジャーナル』の黒魔術の儀式に使われる呪いの遺物、これ持ち歩いてるやつ、不審者リストの筆頭候補だよ!」
「でも、その強烈なキャラのおかげで、目撃者は山ほどいるはずよ。髑髏を持った渡り鳥……」
市杵の言葉に、文一が「ふむ」と頷いた。
「よし、検索ワードは固まったな。『九文』『髑髏』『解決屋』。これなら江戸の噂のネットワークを逆探知できる。解除の瞬間に、さっそく検索にかかるとしよう・
三姉妹と一匹の視線が、再び源五郎と越前のいる座敷へと戻る。
宙に浮く文一が、眼鏡(のような器官)を光らせた。
「南町奉行所の調書にある証言は、周囲の野次馬と博打を仕掛けて金を取られた胴元の言い分を鵜呑みにして書いたものだろう。だが、我輩の領域展開内であれば、『解釈の変更』は可能だ」
「解釈の変更?」
「南町の管轄下である花見の場所で引き起こされた騒動を、大岡越前の管理不行き届きと謗られぬよう、源五郎自らが収めに入ったと定義し直すのだ。九文という風来坊を雇ったのは、民草の争いを治める術があると言うので試した……となれば、それは不祥事ではなく『功績』になる」
田心の瞳が輝いた。
「それよ! 源五郎様が九文さんに払った九文は、手間賃だったことにするのね!」
セピア色の静寂の中で、三姉妹と一羽の奇妙な作戦会議が始まった。江戸城の堅苦しい法度を、1982年の柔軟な(あるいは強引な)論理でひっくり返す。
「いい? 壱杵は当時の目撃者の『証言』をそれっぽく文書にして、目安箱に投函するの。湍津は、そうねえ、あとで私が口で説明するから、九文さんの人相書きを書いてよ!」
的確な役割分担に、市杵が感心する。
「なんか、田心、燃えているわね!」
早くも腕をまくって、描く気満々の湍津は
「田心、なんかすごい!火盗改のお頭みたい。よっ!鬼タキリ」
「わかってるって! 解除の合図とともに、逆転劇を開始するわよ!」
運命の独楽は、再び回り始める。九文という小銭が、江戸の歴史を動かす大きな歯車へと変わる瞬間に向かって。
その時、文一の羽が激しく震え、空間の端々からパチパチと時空の火花が散り始めた。領域展開の維持限界が近づいている。
「では、皆いったん解散! 作戦開始だ!」
文一の宣言と共に、壱杵と湍津の姿が光の粒子となって霧散していく。田心は深く息を吸い込み、隣の間で平伏する源五郎の背中を思った。
(お願い……間に合って!)
体の力を抜いた瞬間、色彩が怒涛のように世界に流れ込み、セピア色の静寂が弾け飛んだ。
「――して、源五郎。だんまりを決め込むつもりか」
大岡越前の低く重い声が、再び座敷を震わせる。江戸城本丸、審判の刻が再開された。
ーー突撃、隣の間のおさばきーー
「お奉行様! お取調べの最中恐れ入りますが、聞き捨てならぬ重要な証言がございます!」
意を決した田心の声が、静まり返った座敷に響き渡った。
「静かにせぬか! お取調べの最中であるぞ!」
配下の役人が雷を落とすが、大岡越前守はその鋭い眼光で制した。
「……証言とは何か。通せ」
襖が開け放たれる。田心は大奥で叩き込まれた作法を必死に思い出しながら、畳の縁を踏まぬよう、音を立てずに一歩ずつ進んだ。源五郎の斜め後ろに跪き、深く頭を下げる。
「お付きの女中か。許す、面を上げよ。有体に申してみよ」
越前の促しに、田心は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。ここからは1982年の女子大生としての知性と、江戸の倫理観のハイブリッド勝負だ。
「事の発端は、通りがかりの町民による浅ましい喧嘩にございました。源五郎様ほどの御方であれば、お役目を第一とし、身の安全を考えて避けて通る道もございました。……しかし、源五郎様は動かれた。騒動が刃傷沙汰となり、江戸の平穏が乱れることを何より恐れられたのです」
「ほう……」
越前の視線が、平伏したままの源五郎へ動く。田心は一気に畳み掛けた。
「墨堤の千本桜は、将軍吉宗公が民を想い、慈悲を以て植えられた『ご政道』の象徴にございます。その桜の根元で町民が争い、血を流す。もし人死にでも出れば、それは将軍様のお慈悲に泥を塗ることと同義。……源五郎様は、その一点を憂い、身を挺して止めに入られた。これこそ臣下としての真の忠義ではないでしょうか!」
言い切った。
静まり返った座敷に、田心の荒い呼吸の音だけが微かに響く。
(……言ってしまった。女子が「ご政道」なんて。20世紀ならともかく、ここは享保の江戸城。一歩間違えれば「不届き千万、そこへ直れ」って一刀両断にされても文句は言えない……!)
田心は床に額を押し付けたまま、心臓の鼓動が耳元で爆音を立てるのを聞いていた。隣に座る源五郎の気配が、驚愕で硬直しているのが伝わってくる。
大岡越前守は動かない。沈黙が、まるで真綿で首を絞めるように長く、重く続いていく。
(……やばい。沈黙が長すぎる。文一、まだなの!? 八百万の神々に通じるシステムなんじゃないの!?)
田心の脳内では、最悪の事態に備えた「時間稼ぎ第2段階」のシミュレーションが猛烈な勢いで回転し始めていた。
(もし、お奉行様が刀の柄に手をかけたら。もし、この沈黙の後に「無礼なり」と一喝されたら……。その時はもう、なりふり構わず「健康講釈」を垂れ流して煙に巻くしかないわ!)
脳内の田心が、白衣を翻して越前に詰め寄る。
『お奉行様、お怒りになる前に! お顔の色を拝見するに、明らかにビタミンCが不足しております! ストレス過多です! 特にビタミンB1が欠乏すると「江戸患い」……そう、脚気になりますよ! 奉行所の階段を上がる時に膝がガクガクしませんか? 今すぐ玄米と糠漬けを! 膝蓋腱反射を確認させてください、叩きますよ!』
(……よし、これでいこう。医学部学生の意地を見せてやる。栄養学の講義だけで一刻(2時間)は粘ってやるわ。お奉行様、現代医学の洗礼を受ける覚悟はいい!?)
悲壮な決意で「ビタミン爆撃」の準備を整える田心の頭上で、ようやく、大岡越前守の口が開いた。
「……面を上げよ」
低く、有無を言わさぬ声。
田心はおそるおそる顔を上げた。越前の瞳は、怒りに燃えているというよりは、何か得体の知れないものを見るような、深い困惑の色を湛えていた。
「女子の分際で、公方様の御政道に口を出すとは。……源五郎、お主の周りには、これほどまでに肝の座った者がおるのか」
越前の手が、ゆっくりと膝に置かれた書状へ伸びる。
「……だが、言葉だけでは証拠にならぬ。九文という男が単なる博打打ちの風来坊ではなく、お主の言う『争いを鎮めるために雇われた者』であるという証がなければ、幕閣の重鎮たちは納得せぬぞ」
(来た……! 物理的な証拠!)
田心は心の中で叫んだ。
(文一! 壱杵! 湍津! 今よ、神託の霊鳥の本領を見せて!)
その時である。
静まり返った江戸城の廊下から、慌ただしい足音が近づいてきた。
「申し上げます! 南町奉行所より急使! 向島の騒動につき、新たな証言を得たとのことにございます!」
その声に、座敷の空気が一変した。
田心の脳内から「ビタミンB1」の文字が霧散し、勝利への確信が取って代わった。
ーー逆転裁判ーー
「源五郎、詮議はこれまでだ」
大岡越前守忠相の声が、座敷の重苦しい空気を切り裂いた。彼は手元の調書を閉じ、膝に置いた。
「町民に新たな証人が現れたとなれば、もはやここでの内々の詮議では済まぬ。わしの本領である南町奉行所の『お白洲』で正々堂々とやらねばならん。明後日、正式に沙汰を出す。……今日はこのまま、二の丸へ戻るが良い」
源五郎が顔を上げると、越前の瞳には厳格さの中に微かな温かみが宿っていた。
「大岡の名を思えば、お前を牢に繋ぐ必要もなし。だが、逃げ隠れは許さぬぞ。必ず参れよ」
「……ははっ。恐れ入り奉ります」
源五郎は深く頭を下げた。田心もまた、背筋に伝わっていた冷や汗がようやく引いていくのを感じながら、深々と平伏した。
江戸城二の丸。
源五郎と田心が戻ると、そこには昼間の喧騒が嘘のような、しんとした静寂が横たわっていた。
若君・長福丸の居間へ向かうと、老練なお局が目元を拭いながら二人を迎えた。
「……源五郎様。ようやく、先ほどお静まりになりました。それまでは、誰も手がつけられぬほど火に焼かれるようにお泣きあそばして……」
「若君が……?」
源五郎の言葉に、お局は絞り出すように言葉を続けた。
「母君である深徳院様は、長福丸様が二歳の時にお亡くなりになりました。物心つかれた時から、そのお言葉を誰にも理解されず……ご無礼を承知で申し上げれば、それこそ座敷で犬猫のようにしてお育ちになったのでございます。……それが、源五郎様がお傍に仕えるようになってから、ようやく我らとも心を通わせていただけるようになりました」
お局の肩が微かに震える。
「その源五郎様が、己の使いで源五郎様が騒動に巻き込まれ、罪を問われるとお聞きになり……若君様は、引き裂かれるような悲しみに暮れておられたのです」
襖の隙間から見える長福丸は、幼子のように身を丸くして眠っていた。枕元には、向島で拾ってきた、桜の葉としおれた桜の花びらが一ひら落ちている。
その寝顔を見つめていた源五郎の拳が、わなわなと震え出した。
後の世に「小便公方」と揶揄され、誰にも理解されなかった将軍家重。その孤独な魂に、初めて光を灯したのは、自分だったはずなのに。
「……私が、軽率だった……」
源五郎は声を振り絞るようにして言った。
その言葉は、自責の念に押しつぶされそうな、十三歳の少年の本音だった。
傍らに立つ田心は、彼の肩にそっと手を置こうとして、躊躇した。
今、この時代で、歴史の大きな歯車が軋みながら回っている。明後日のお白洲で、自分たちは何を成すべきか。
(……泣かないで、源五郎様。文一たちが、きっと「九文」を連れてきてくれるから)
暗い廊下の向こう、夜の江戸の空には、神託の霊鳥が放った見えない糸が、百万の人口の中から一人の男を手繰り寄せようと光っていた。
ーー判決!大岡裁きーー
明後日、江戸南町奉行所のお白洲。
突き抜けるような青空とは対照的に、砂利の敷かれた白洲には、刺すような緊張感が漂っていた。
正面に座すは大岡越前守。その視線の先には、若き源五郎、不安に表情を強張らせる田心。そして、今回の騒動を訴え出た町人二人が並んでいる。
この二人、実は騒動を焚きつけては即席の博打を開く「ごろつき」なのだが、南町奉行所の初期調査ではその素性は伏せられたままだった。
「この源五郎なる者が、騒動を煽ったに相違ないか?」
越前の問いに、ごろつきの一人が脇から膝立ちで背を伸ばし、源五郎を指差した。
「間違いございやせん! この若侍が、やれやれと囃し立てたんでさぁ」
「嘘よ! この人たちは、周りの人から賭け金を集めて博打をやろうとしてたんです!」
田心が思わず割って入るが、越前の冷徹な声がそれを遮る。
「お女中、今はそなたに尋ねておらん。控えよ」
嵩に掛かったごろつきが、にやにやと田心を嘲笑った。
「おやおや、この姉ちゃんだって、勝った方に桜餅を褒美に出すなんて景気のいいこと言ってたじゃねえか。なぁ、本当だろ?」
(……しくじった!)
田心は唇を噛んだ。善意のつもりで口にした言葉が、今は源五郎を窮地に追い込む「証拠」として揚げ足を取られている。
その時、十三歳の少年が朗々と声を響かせた。
「恐れながら!」
源五郎は背筋を真っ直ぐに伸ばし、越前を真正面から見据えた。その瞳には、もはや迷いはない。
「親の心子知らず。お上の善政も、下々の不徳により邪な道具となります」
「お上の政り事がなっておらぬと申すか?」
越前の追及にも、源五郎は臆せず続けた。
「あの場所は将軍様が桜を植え、春の訪れを寿ぐ、いわばご政道の鑑。しかし、花が咲けば『虫』も集まります。毛虫が葉を食むは道理なれど、それが毒虫であれば、人に害を成すこともありましょう。奉行所は、その毒虫を払う取締りをされていたのでしょうか? ……いいえ。にもかかわらず、騒動が起きるや否や、これほど手早く調べが入り、文書が整えられた。いかにも早すぎるのではございませぬか」
「誠に小賢しきこと。奉行所の目や耳は市中隈なく張り巡らされておる。当然のことよ」
「ならば!」
源五郎の声が一段と高くなる。
「町方の役人がそこにいたのなら、なぜ騒動になる前に収めなかったのですか! 私は、役人が動かぬゆえ、九文で始末をつけるという男にすべてを託したのです。これのどこに非がございましょう!」
「お見事!」
その時、お白洲の木戸から、場違いなほど軽やかな声が響いた。
襤褸を纏いながらも、どこか高潔な気品を漂わせた男――九文が、飄々と姿を現した。
「あ、あの野郎!」
ごろつきが掴みかかろうとするが、役人に力ずくで押さえつけられる。九文は源五郎の隣に悠然と座すと、越前に深く一礼した。
「誠に、賢き少年にございますなぁ。お奉行様、私がその『九文の仲介人』でございます。将軍様の桜に付いた毛虫を取ってくれと頼まれたので、わずか九文で引き受けたまで。……もし、私が本気で騒乱を起こすつもりなら、九百両積まれても足りませんなぁ」
九文は不敵に笑い、越前の視線を真っ向から受け止める。
「お奉行様。この少年の言う通りにございます。……もし、私がこの場にいなければ、今頃江戸中の瓦版には、おぞましい見出しが踊っていたことでしょうなぁ」
九文は芝居がかった仕草で声を潜め、地の底から響くような名調子で語り出した。
「『紀州から来た、将軍吉宗公は、千本の桜を江戸の土手に咲かせるそうな。……人の血を吸わせて、赤々と……』」
お白洲の空気が凍りついた。九文の瞳には、狂気と理知が同居する妖しい光が宿っている。
「……なんてなあ! そんな不吉な童歌が100年先まで歌い継がれるところでしたよ。将軍様の慈悲の桜が、怨念の桜に化ける。そうなれば、ご政道に傷が付くどころか、江戸の民の心まで腐らせる毒となる」
越前の鋭い視線が、一転してごろつき二人へ向けられた。
「……訴え出たこの二名、引っ立てい!」
「えっ、あ、あわわわ!」
反論する知恵も回らぬまま、ごろつきたちは引きずられるようにして牢へと運ばれていった。
九文はその背中を見送りながら、最後にポツリと独り言ちた。
「大人しくしていれば、財布を取られただけで済んだものを。お奉行様を担ぎ出そうなど、身の程知らずな厳罰は免れますまい」
越前は黙って九文を見つめていたが、やがて小さく、誰にも気づかれぬほど微かに口角を上げた。
「……源五郎。これに免じて、沙汰は『お構いなし』とする。だが九文、お主のような得体の知れぬ男は、江戸の毒か薬か……。せいぜい、少年の師として、道を踏み外させぬことだ」
こうして、向島の花見騒動は幕を閉じた。
田心は、安堵のあまり砂利の上にへたり込みそうになったが、隣で誇らしげに胸を張る源五郎の横顔を見て、そっと微笑んだ。
文一が空から降らせた「神託」が、江戸の百万分の一の正義を、見事に手繰り寄せたのである。
ーー続くーー
1. 江戸時代の賭博事情
博打は犯罪: 江戸幕府は法令で賭博を「博奕」と呼び、厳しく禁止していました。
・関係者は同罪: 賭博の打ち手だけでなく、場所を提供した宿(賭場)や、資金を貸した者も同様に罪に問われました。
・庶民の間で流行: 禁止にもかかわらず、丁半博打などが庶民の間で日常的に行われており、ギャンブル依存症が深刻で、窃盗や強盗に発展することも多かったとされています。
2. 賭博への罰則:鞭打ち(敲)
賭博が発覚した際、比較的軽い罪(窃盗額が少ない場合など)として「敲」の刑が適用されました。
使用するのは木製の笞杖で受刑者の臀部(お尻)を叩く刑罰です。笞杖の大きさは手元で約9ミリ、先端で約6ミリ、長さは1メートル5センチと定められていました。皮膚を破らないように節目などの凹凸は削られていましたが、死を伴わないまでも、公衆の面前で身を打たれることで社会的羞恥心を与え、戒める(公開刑)目的がありました。
3. 鞭打ちの程度とその他
・回数: 一般的には50敲(軽い場合)から100敲(重い場合)が行われました。
・他の刑罰との併用: 100敲に加え、入墨(入れ墨)が併用されることもありました。
賭博で得た金額が大きい場合や、犯罪が深刻な場合は、死罪などのより重い刑罰に処されることもありました。
江戸時代の賭博は、庶民が日常的に楽しむ一方で、幕府からは厳しい取り締まりを受ける、「公然の秘密」のような側面を持った犯罪でした。




