第三話 変なスイッチの結末
シホちゃんがスマホで連絡をすると、在宅勤務中だったらしいお父さんは汗だくになって公園まで走ってきました。
お父さんが到着するまでの短い間に、ケンゴからオバサンへの仕込みは済んでいます。といっても、少々会話をした程度でそんなに複雑な指示をしたわけではありません。
『いいですか。狂った女のフリをするんです』
『狂った女……ですかぁ』
『そうです。支離滅裂で話が通じなさそうで……それでいて、聞かれたことには何でも素直に本音を話してしまうような、ちょっと馬鹿な女性になりきってください。あーでも、暴力を振るうのはダメですよ。分かりましたか?』
『はぁい……やってみまぁす』
『それと、僕からの提案だということは記憶から消してくださいね。自発的にそう演技している……そう信じ込むことが“幸福を感じる”コツですから。大丈夫、僕を信じてください』
完全に詐欺師の気分で仕込みを終わらせたケンゴは、公園のベンチでふにゃふにゃになっているオバサンを見て「本当に大丈夫かな」と不安になっていました。しかし、シホちゃんのお父さんが到着した瞬間にオバサンの雰囲気はガラッと変わります。
「シホ!」
「お父さん!」
シホちゃんのお父さんは顔もお腹もまんまるで、痩せる前のシホちゃんにちょっと似てるな、とケンゴは少々失礼な感想を持ちました。ずいぶん焦っていたのでしょう、左右別々のサンダルを履いて、息を切らせながら全力疾走してきたようです。その顔立ちはどこか愛嬌があって、なんだか全身から“いい人”の雰囲気がにじみ出ているような人でした。
そんなお父さんの前にズイと躍り出たオバサンは、ふんと鼻息を漏らし、人を小馬鹿にしたような態度で話し始めます。
「……相変わらず不健康そうなデブだこと」
「久しぶりに会って、いきなりそれかい? シホのいる前であまり汚い言葉は使いたくないものだが、君のその底意地の悪さはどうにかならないものなのか」
「それを言うなら、あんたのその正論ぶった喋り方もどうにかならないの? ブタがブヒブヒと生意気なのよ」
急に始まった舌戦にケンゴは面食らいましたが、ひとまずシホちゃんの隣に行って手を握っていることにしました。
「ここからの会話は録音させてもらう。場合によっては裁判で争うことになるだろうからな。わざわざ接近禁止命令を破ってまでシホに近づいたんだ。覚悟はできてるんだろう?」
「覚悟? はっ、母親が娘に会うのに何の問題が」
「その“母親”という立場を自ら投げ捨てたのが君だろう。まぁいい。急にシホに近づいてきたのにはどういう意図があるのか。まずは君の言い分を聞かせてもらおうか」
本格的に話が始まったのを見て、ケンゴはシホちゃんの手を引き、少し離れた場所にあるベンチへと向かいました。自分たちが参加できないオトナの言い争いの場にいても、気持ちが落ち込むだけです。小学六年生の子どもにできることなんて、そう多くはないのですから。
「ケンゴくん……」
「大丈夫だよ、シホちゃん。最低限の仕込みはしてあるから。それに何があっても、僕がどうにかするよ。なにせあと一回はコレが使えるからね」
「……人をふにゃふにゃにするスイッチ」
ケンゴがスイッチをひらひらと見せると、シホちゃんは目にいっぱい涙を溜めて俯きます。
「……ごめん。そのスイッチは、ケンゴくんがお父さんとお母さんの喧嘩を止めるために使うはずだったのに……私のせいで」
「え? いいよ別に。さっきシホちゃんと話してた時に、もう親には使わないって決めてたから。むしろ博士に返す前に使い道ができて、ラッキーだったくらい。だから泣かないで」
ケンゴはポケットからハンカチを取り出すと、シホちゃんの目から零れそうな涙を受け止めます。でも、涙は後から後から溢れてくるので、ハンカチを持つ手は右に左に大忙し。最終的には右手にハンカチを、左手は上着の袖口を持って、シホちゃんの涙を拭うことになりました。
「――つまり、シホをあの男に差し出す魂胆かッ!」
「その通りだってさっきから言ってるじゃない!」
「お前、それが母親のすることかッ!」
「“もう母親じゃない”って言ったのはそっちでしょ!」
シホちゃんは小さく震えながら、縋るように抱きついてきました。だからケンゴは涙を拭うことを諦め、小さな子どもをあやすようにシホちゃんの頭を撫でることにします。そうすること以外、彼女のためにできることが何も思いつかなかったのです。
言い争いがヒートアップして声も大きくなってきたので、もう少し距離を取ろうかとケンゴは立ち上がりました。この感じであればオバサンは順当に自爆してくれるでしょうから、あとはお父さんに任せれば心配はいらないはずです。
「……大好きだから、結婚したはずなのに」
「シホちゃん?」
「どうして喧嘩になっちゃうんだろうね。大人になって……例えば、私がケンゴくんと結婚したとしてね。それでもやっぱり、いつか喧嘩しちゃうのかな。どんなに大好きでも」
シホちゃんの手を引いて歩きながら、ケンゴは一生懸命考えました。自分の両親も同じです。大好きだから結婚したはずなのに、やっぱり喧嘩になってしまう。それはどうしてなのでしょうか。
「家族をやっていくのって、大変なんだろうなぁ」
「……それ、私が言ってたこと?」
「そうだよ、シホちゃんが教えてくれたこと。大人になったら仕事もしなきゃいけないし、忙しいことがいっぱいあるからさぁ……いくら大好きな人のためでも、いつでもずーっと頑張るのは難しいんだろうね」
そうやってぽつりぽつりと、ケンゴはシホちゃんといろいろな話をしました。
大声で言い争っていたので近所の誰かが通報したのでしょう。それから一時間もしないうちにパトカーに乗った警察官がやってきて、シホちゃんのお父さんとお母さんは警察署に行くことになりました。お母さんの鞄からは物騒な刃物が出てきたため、わりと大騒ぎになったようです。
一方のシホちゃんは、警察官が何を言ってもケンゴの手を頑として離しません。話し合いが二転三転しましたが、最終的に今日のところはケンゴの家で預かるという話に落ち着きました。
シホちゃんのお父さんは、パトカーに乗る直前にケンゴのところにやってきます。
「君がケンゴくんだね。ちゃんと挨拶できずに申し訳ない。先日のイジメの件も今回も、シホを助けてくれたことを本当に感謝しているよ……今度ゆっくりお礼をさせてほしい。それから、今日は娘をよろしく頼む」
こんな風にして、ケンゴはシホちゃんを家に連れ帰ることになったのでした。
* * *
ケンゴのお父さんとお母さんには警察から連絡が行っていたようで、シホちゃんを連れ帰ってきたことを怒られることはありませんでした。
それに、さすがにお客さんがいる前でギスギスした姿は見せられないと思ったのか、二人ともいつもとは違ってどこか穏やかな様子です。
「シホちゃん、いらっしゃい。細かいことは気にしなくていいから、好きなだけゆっくりしていってね」
「ありがとうございます……すみません、急にお邪魔することになってしまって。その……」
「うむ。警察から簡単に事情は聞いたが、大変だっただろう。事態が落ち着くまでゆっくりしていくといい。あとでケンゴの部屋に追加の布団を持っていくから」
なんだか妙に歓迎ムードだなと不思議に思いながら、ケンゴは久々に家族揃って食卓を囲むことになりました。
両親にスイッチを使うことはありませんでしたが、結果的には仲の良さそうな両親の姿を見ることができて、それだけでシホちゃんに感謝したい気持ちになります。
食事の時間が終わると、お父さんはみんなの食器を片付けながら紅茶の準備を始めました。そういえば、こうして食後に紅茶を飲むのはずいぶん久しぶりです。
「……なんか思い出しちゃったわ。昔のこと」
「お母さん?」
「実はね。お父さんと付き合い始めたきっかけは、行くあてのなかった私をお父さんが家に連れ帰ってくれたからだったのよ。お義母さん――亡くなったケンゴのお祖母さんもね、すごく優しく受け入れてくれて……ごめんね、ケンゴ。なんだかずっと、そのことを忘れてしまっていたみたい」
両親の馴れ初めなんて聞いたことのなかったケンゴは、ちょっと恥ずかしいような嬉しいような不思議な気持ちになりました。
「それなら、僕からひとつお願いしてもいいかな」
「どうしたの?」
「あのさ。一度、お父さんとお母さんでゆっくり話をしてみてほしいんだ。出会った頃の思い出話とかさ。僕はやっぱり、二人が昔みたいに仲良くしてくれた方が嬉しいよ。お母さんの作ってくれたご飯をみんなで食べたいし、お父さんの淹れてくれた紅茶をみんなで飲みたい……別に新婚みたいなラブラブ夫婦になってくれとは言わないからさ」
これまでは、言いたくても言えなかったこと。それが自然と口をついて出たのは、ケンゴの中で言葉にできない「何か」が変わったからかもしれません。
わざわざ“人をふにゃふにゃにするスイッチ”なんて使わなくても、少しだけなら誰かの心を柔らかくすることはできるかもしれない。今のケンゴはそう思えるようになっていました。
お風呂に入って、歯を磨いて。寝る準備を済ませたケンゴが自室に戻ってくると、ベッドの掛け布団がこんもりと盛り上がっていました。その端っこからはシホちゃんの顔がちょこんとはみ出しています。
シホちゃんの表情は、なんだか不安そう。一体どうしたのだろうと気になったケンゴは、ベットのすぐ側に座りました。
「シホちゃん、どうしたの?」
「あのね……ホッとしたら、急に怖くなっちゃって」
「そっか」
「……ベッド。一緒に入って。こっち」
誘われるまま、ケンゴは布団に潜り込みます。
そして、そこには……今にも壊れそうなほど、ガタガタと震えているシホちゃんがいました。
「シホちゃん?」
「ねぇ、ケンゴくん……スイッチなんだけど」
「うん。スイッチがどうしたの」
人をふにゃふにゃにするスイッチなら、今は机の上に置いてあります。最後の一回は今のところ使う予定はありませんが、博士に返却するのはちょっと待って、ひとまず護身のためにも持っておこうかと思っていたところでした。
「あのね……スイッチ、私に使ってほしい」
「それは。えっと……なんで?」
「私、ふにゃふにゃになりたいの。今、すごく。ケンゴくんの部屋なら安心してふにゃふにゃになれるから……お願い」
そう話すシホちゃんの顔色は、血の気が引いて真っ白です。たしかに“人をふにゃふにゃにするスイッチ”はまさに今、シホちゃんにこそ必要なものかもしれない。ケンゴはそう思いました。
「でも……僕が変なことするとは思わないの?」
「私がそれを嫌がると思う?」
「…………いや、変なことはしないけどね」
ケンゴはシホちゃんの頭をポンポンと撫でると、机に手を伸ばしてスイッチをひょいと取り、震えているシホちゃんに“人をふにゃふにゃにするスイッチ”の最後の一回を使いました。
* * *
シホちゃんと一緒に何日か学校を休んだ後は、またいつものように日常が始まりました。
しかし、ふにゃふにゃの効果なんてとっくに切れているはずのシホちゃんは、ケンゴと一緒にいる時だけはなぜかふにゃふにゃになる癖がついてしまったようです。特にリカコちゃんが近くにいる時なんかは、見せつけるように手を繋いでふにゃっとします。
それを見たリカコちゃんはあざとい仕草でプンプンと頬を膨らませていました。
「ケンゴくーん、私にも構ってよー!」
「え、嫌だけど」
「雑ぅ! でも最高ぉ!」
残念ですが手の施しようがありません。
リカコちゃんにはそんな言葉がピッタリです。
一方のシホちゃんはケンゴのお母さんから料理を習う約束をしたようで、週の半分くらいはケンゴの家で一緒に夕食をとることになっています。
シホちゃんは家庭的なスキルに興味があるから色々教えてほしい、お母さんは実はずっと女の子が欲しかったから色々教えたい。二人の希望が上手いこと合致した結果、そういう話になったのだとか。
「ケンゴくんのお父さんから紅茶も習うんだ」
「やる気あるなぁ……嫁にでも来るつもりなの?」
「え? 嫁にもらわないつもりなの?」
外堀を重機でガンガン埋めにきている。
シホちゃんにはそんな表現がピッタリです。
さて、そんなある日のことです。
珍しくシホちゃんに用事があるということで、ケンゴは久々に一人で帰宅していました。そして公園の前に差し掛かると……木陰で待ち構えていたフジ博士は、不審者のようにケンゴの前に飛び出してきます。
「あーびっくりした」
危うく防犯ブザーを鳴らすところでしたが、ケンゴはすんでのところで思いとどまり、年の離れた友達をジト目で見ます。
「どうしたの博士」
「ふふふ。よく来たなケンゴよ。実はまた新しい発明品が出来上がったんじゃが、一緒に試してみようかと思ってのう」
「……なんか嫌な予感がする」
ケンゴが眉間に皺を寄せていると、博士はポケットから何やら赤くて小さいものを取り出しました。
「これが“人をキラキラにするスイッチ”じゃ!」
「“人をキラキラにするスイッチ”!?」
大きな声を出してみたものの、実のところケンゴはそれほど驚いてはいません。これはまたヘンテコな発明品を持ってきたなぁ、というのがケンゴの正直な感想でした。
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