第二話 嵐の前の静けさ(8)
「どう?」
フィリスが短く問う。
カームが感じたのは、三ヶ月前にソラが入学時に披露した実演での実力を目の当たりにしたときと同じものだった。
つまり、圧倒的なまでの実力。尊敬と恐怖が綯い交ぜになった畏怖。
頬を伝う汗は、暑さのせいではない。
校舎内のカフェのテラス席から実技を観察していたカームとフィリス。
テラス席には、夏の強い日差しから身を守るようにパラソルが設置されていた。
その日影のなかで、二人はアイスコーヒーを片手に、最初に何口か飲んだだけで、後は風子の実力に見入ってしまい、氷がほとんど溶け、コップの表面に結露した水滴が手を濡らそうと、まったく気が回らなかった。
喉がカラカラに渇いても、手に持ったアイスコーヒーで潤そうという発想すら抜け落ちてしまうほど、見せつけられた実力は底知れなかった。
「刀使い……それに、【神風】の東雲楓が最強だということは聞いていたけど、その片鱗を目の当たりにしてやっと分かったわ。あれは、でたらめよ」
向かいに座るフィリスが、頬を引き攣らせながら笑っていた。
「あんなのに、どうやって対処しろっていうのよ」
「そうね……」
あの目にも止まらぬ速度を前にしては、どんなエレメントの技も後手に回り、本人が気づく前に、すでに斬り終えていることになる。死すらも感じさせない、絶対的な速度と抜刀。
「あれに勝つには、あれよりも速く動くしかない」
「それはそうだけど……」
至極当然のことを呟くカームだが、それが結論なのだ。
そして、それは週末に行われる決闘の勝敗の行方も左右する。
つまり、風子のあの速度に対して、ソラは速いのか、遅いのか。
みんなが風子を称え、拍手を送るなか、ソラもまた拍手をしていたが、遠くから見せるその背中は、怯えている様子などなく、むしろ楽しみにしているのではないか、そんな風にカームは感じたのだった。
※
実技を終え、生徒たちが方々《ほうぼう》に散っていくなか、ソラたち四人は、風子を迎えていた。
「凄かったです、風子さん」
一番に声をかけたのは、やはりというかエラだった。
「ありがとう、エラ」
そう言って、風子はエラへ笑みを向け、そのままソラの正面へと向かった。
「私の速さはどうだったか?」
まるで挑むような視線に、ソラはいつもの笑みを浮かべ、
「はい、とっても速かったです。決闘、楽しみにしてますね」
「そ、そうか」
驚き、そして悔しげに口元を歪める風子。
「では、私はこれで」
踵を返し、立ち去ろうとする風子に、
「待ってください、風子さん」
と声をかけたのはクリスだった。
「どうしたのだ?」
風子が肩越しにふり返る。
「あ、あの、このあと一緒に夕食でもどうですか?」
「いや、遠慮しておこう」
クリスの誘いを、風子はやんわりと断った。
「これでも私は、いわば居候の身だ。自分のことは自分で。それに――」
と視線をクリスからソラへと移動させ、
「決闘を前に、あまり馴れ合いすぎるのもよくない。私情を挟んで支障が出ては意味がない」
「ボクなら大丈夫ですよ?」
そんなソラのフォローに、風子がふっと鼻で笑い、
「これは、私の問題なのだ。では」
そして、風子は今度こそ歩き去って行ってしまった。
「風子さん……」
クリスが手を伸ばすも、それは届くこともなく、空を切るだけだった。
※
広場を後にした風子は、そのまま校舎から離れるようにして、野営をした場所へと向かった。
(少年のあの余裕は、一体……)
頭に浮かぶのは、ソラのあの笑顔だ。
まるで自分を脅威とも何とも思っていないような、屈託のない笑み。自分のことなど眼中にない。
むしろ楽しんでいるような、そんな、決闘を前にする者とは思えないような笑顔。
それが、風子に底知れない恐怖のような感情を与えていた。
思い返せば、ソラは、あの東雲楓が自分を差し置いて宝刀を託すに足ると認めた人物なのだ。
楓から話は聞いている。
ソラは、生まれてからずっと楓を含む四英雄の三人に育てられ、さらにそのうちの二人から直にエレメントを教わり、叩き込まれたのだ。
だが、それ以上に凄いのは、ソラという人物そのものの能力――いや、才能だろう。
十四にして、水、風、地をマスターした才子。
それがどれだけの業績となるのか、島国にいた風子ですら容易に想像できる。
最初は、決闘で勝てると、どこか楽観的だった。
だけど、今は違う。
心のどこかで、自分が負けている姿――つまり、地に伏し、血を流し、死んでいる姿を想像してしまっているのだ。
立ち止まり、おもむろに右手を見やる。
(――ッ!)
右手が震えていた。
(この私が、あの少年を――)
それ以上は認めたくなく、風子は瞼をぎゅっと瞑り、それと一緒に震えていた右手も握り拳をつくり、無理やり震えを止めさせた。
野営をしていた森林地帯に入ると、洗濯物がなくなっていた。
「おかえりなさい」
そして洗濯物を、まるで帰りを待っていたかのように座り込んでいたフィリスが畳んでいた。
「あ、あの……どうして……?」
「ん? 何でもないのよ。ただのお節介」
そう言って、フィリスが本当に何でもないと言わんばかりに笑む。
「それで、これからどうするの? また湖で行水?」
「え、ええ、まぁ……」
「朝もそうだけど、まだ朝晩は冷えるから、風邪をひいてしまうわよ」
「その点は心配ない。私にとっては、ああいった行為も修行のひとつ――つまりが日常茶飯事なのだ」
「……まったく」
心配かけまいとした風子の気遣いに、フィリスが露骨に溜息を吐く。
「私は、遠回しに誘っているのよ?」
「な、何に?」
「決まってるじゃない」
フィリスはまるで作ったような満面の笑みを浮かべながら立ち上がり、
「お風呂、よ」
※
放課後の特訓を終えたカームは、午後に見せつけられた風子の実力による冷や汗や先の特訓での汗を流すため、久しぶりに女子寮共用の大浴場へ向かった。
四年生になるまでのカームには、ここは無用の長物だった。
自身が負った火傷の痕を見せびらかすなど言語道断で、それでいて、大浴場から出てくる女生徒たちの幸せそうな表情が、どこか羨ましく、そんな自分に苛ついていた。
だが、今のカームは堂々と大浴場に入ることができる。
大浴場の利用者は少ないため、他の誰かと時間が重なることはあまりないが、ないこともない。
この時間帯に誰もいないことを祈りつつ、カームは更衣室で汗まみれの制服と下着を脱ぎ、タオルを手に取って大浴場へと入った。
見た限りでは誰もおらず、カームはほんの少しだけ表情を緩めた。
壁に据え付けられたシャワーのところまで移動し、蛇口をひねった。
すぐに一歩下がり、水からお湯に変わるのを待つ。
シャワーはいくつも並んでおり、そのひとつひとつに仕切りが設けられている。
寮部屋の浴室よりも高い位置に据え付けられているシャワーを頭に浴び、髪をまんべんなく濡らす。
シャワーが体を流れるたびに、汗もまた流れていく感覚に、やはり寮部屋の浴室のシャワーとは違うなとカームは思った。
だが、そんなカームのささやかな幸せが、後から入ってきた利用者によって終わりを告げられたのだ。
「おぉ~、これはまさにお風呂ではないか!」
「だから言ったでしょ」
「うむ。では早速――」
「ちょっと待ちなさい。まずは体を洗ってからよ」
「すまない。そうだったな」
すごく、すごく聞き覚えのある二人の声を背中越しに聞いていたカームは、シャワーを頭から浴びたまま、硬直していた。
二人はシャワーではなく、桶から温泉を掬い、体を洗っているのだろう。
そんな音が聞こえた。
「お湯は久しぶりだ。生き返ったような気分だ」
「そうでしょ? お風呂は心の洗濯って言うのよ。体を洗うっていう目的だけじゃなくて、お風呂は心も洗ってくれるのよ」
「確かに。家にいたときも、死ぬほど苦しい特訓の後の檜風呂で心が癒されていた」
「ヒノキブロ?」
「檜という木で作られた風呂のことだ。檜の見た目と肌触り、そして湯を張ったときのほのかな香り……なるほど、こうやって客観的に見て、あれも心を癒す効果があったのだな」
「聞いてたら気になってきたわね」
「いつか、島国に来たときには、東雲の門扉を叩くといい。歓迎するぞ」
「それは楽しみね」
会話が弾み、二人が温泉に入り続けている。
そして、その間カームはずっとシャワーを浴び続けていた。
「ふぅ、そろそろ上がりましょうか」
「うむ。いくら気持ちよくても、入りすぎてはのぼせてしまう」
耳を傾けることに集中してしまっていたカームは、二人が温泉から上がる音を聞きながら、早く出て行くように願った。
「風子、最後にシャワーを浴びないとだめよ」
「どうしてなのだ?」
「温泉の成分を洗い流すためよ」
「なるほど。了解した」
その会話にビクリと体を震わせ、だが、今さら何ができるわけでもなく、シャワーを浴び続けていると、
「あ……」
「え? あっ!」
「……」
風子が気づき、それにフィリスも遅れてカームの存在に気づいた。
「なっ、カーム! あなた、何をしてるの!」
「そ、それはこっちの台詞よ!」
やっと振り返ることができたカームは、捲し立てるように声を荒げた。
「よりにもよって、なんで彼女と一緒にいるのよ!」
視線はフィリスに固定したまま、風子を指さす。
「失礼だな。それに、人に指さすものではないぞ」
憤慨する風子を、すかさずフィリスが庇う。
「私が誘ったのよ。この子、人工湖近くの森林地帯で野営してたのよ。それに、お風呂だってない環境でずっと旅を続けて、イリダータに来てからもお風呂にも入れずに、湖で行水してたのよ」
「そ、それは……」
確かに凄まじいことだ。
体を洗えないなど、想像するだけでゾッとしてしまう。
しかも、旅の間はろくにシャワーも浴びれず、ここに来ても湖で行水。
あまりにも逞しすぎて、つい同情しそうになってしまっていた。
「それでも……」
言いたいのに、言えない。
フィリスまでも彼女に対して、こんなにも距離を縮めている。
そんなことを、本当はしてほしくなかった。
「カーム。あなたの気持ち、分かるとは言えないわ。私は、風子と一戦を交えていない。だから、私にとっては純粋に、風子のことも応援したいって思うし、助けにもなりたいと思ってる。もちろん、ソラのことだって応援してるわ。でも、それとこれとは別。分かるでしょ?」
「……分かるわよ」
カームは、腹の底から無理やり言葉を引っ張り出すように言った。
「分かるけど、それでも、私は……」
「いや、それ以上はいい」
それまで黙っていた風子が、手のひらをカームへと向ける。
呆気にとられ、思わず言葉を止めるカーム。
「少々、フィリス殿のご厚意に甘えすぎたようだ。確かに、私はあなたたちとって敵なのだ」
「そんなこと!」
「フィリス殿のことは分かっている。あなたとは、これからもいい関係でありたい。だけど、ここはひとまず、失礼させていただこう」
踵を返し、濡れた髪を背中に貼りつけ、大浴場を後にする風子。
「ちょっと待って」
フィリスが風子の背中に呼び掛け、それでも止まらない風子に、一度だけこっちを見ると、すぐに風子の後を追うのだった。
それをカームは、見ていることしかできなかった。
※
大浴場を出てからの風子は、素早く着替え、脇に刀を差し込み、リボンを手に取った。
「私が結ぶわ」
「かたじけない」
風子を止めることはできないと判断していたフィリスは、同時進行で着替え終わっており、ネグリジェ姿になっていた。
素直にリボンをフィリスに渡した風子が背中を向ける。
フィリスは、まだ湿っている髪を櫛で梳き、右に寄せたところで綺麗に髪をひとつにまとめ上げると、それを受け取った白いリボンで結んだ。
「はい、できた。きつくないかしら?」
「いや、むしろ自分でやるよりもちょうどいい。感謝する、フィリス殿」
更衣室の鏡越しに、風子がうんと頷く。
「いいのよ。これくらいしか私にはできないことだし」
「そんなことはない。ちょっとした親切が、相手にとっては救いとなることもある。情けは人のためにならず、だ」
「覚えておくわ」
「では」
頭を下げ、風子が更衣室を出る。
その背中を見送ったフィリスは、それから振り返った。
「もういいわよ」
そう言うと、大浴場からカームがゆっくりと出てきた。
「カーム……」
「なによ……私が悪いっていうの?」
「そうは言わない。だけど、あの態度はちょっと、どうかと思うわ」
自分の横をカームが通り過ぎる。
フィリスはその背中に向かって、
「今のあなたは、私が認めたカーマイン・ロードナイトとは思えない」
「――ッ!」
思わず振り返ったカームが見たのは、更衣室から立ち去ろうとするフィリスの背中だった。
「少し、頭を冷やしなさい」
そして背中越しに言われた言葉に、カームはびしょ濡れのまま、しばらくその場で立ち尽くしていた。




