第二話 嵐の前の静けさ(4)
「勘違いしてごめんなさい」
びしょ濡れの状態で、水辺で座り込むフィリスが頭を下げると、
「いや、私もここに誰もいないと思っていたので、勘違いさせてしまったことに関しては、悪いと思っています」
改めて湖で沐浴をする風子がやんわりと返す。
「しかし、それでもいきなり飛びついてくるのは如何なものかと……」
「だ、だって、あのときは、本当に入水自殺でもするんじゃないかって思って、気が気じゃなかったのよ」
フィリスを知る者から見れば、今の彼女の焦りようは物珍しい光景だろう。
「いえ。見ず知らずの人間に対し、ここまでの行動力。私は素晴らしい人柄だと思いましたよ」
「そ、そう……」
素直に思ったことを口にし、微笑んで見せると、フィリスは照れるように少し視線を横へ向けた。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は東雲風子と申します。それで、命の恩人さんのお名前は?」
どこか意地悪な笑みを浮かべる風子に、フィリスが「もう」と呟き、
「私は、フィリス・アークエット。ええ、あなたの命の恩人よ」
そう言って、二人して笑い合った。
「見かけない顔だけど、イリダータの生徒ではないのよね? それに東雲って……あの――」
「ええ、そうです。東雲楓は私の叔母に当たります」
湖から上がった風子は、あらかじめ熾しておいた焚き火の横に座ると、髪を乾かし始めた。
「ってことは、あなたも刀使――って、何をしているの?」
「見ての通り、髪を乾かしてるのです」
「あなた、さっきから沐浴といい、焚き火といい、どうして外での暮らしに慣れているのかしら?」
「島国を出てここに来るまでの間、ずっと野営をしていましたし、島国で刀使いになるための特訓でも、よく外に放り出されて自分で生き抜く方法を身につけろと言われていました」
「それって、刀使い……というかエレメンタラーに関係あることなの?」
「うむ、大いに。何よりも心身ともに逞しくなる」
「逞しく?」
「そう。エレメンタラーにとって大事なのは、エレメントを扱う技量ではなく、己の肉体。なぜなら、エレメントは肉体に依存しているからです。特に、私たち刀使いは、誰よりも肉体を酷使します。そして、その肉体が自分の思ったとおりに動かなければ、風による超速移動にも耐えられません」
「それは、考えたこともなかったわね」
そう言って、深く考え込むフィリス。
「フィリス殿の場合は、少しふくよかに感じます」
「わ、悪かったわね」
フィリスが顔を赤らめ、反射的に両腕で胸を隠す。
「いえ、そう言った意味……でもあるのですが、そうではなく……」
「そうではなく?」
風子が言葉を切ったため、先を促すようにフィリスがオウム返しに言う。
「そうではなく、何と言いますか……言うなれば、死に直面したことがない、といった意味です」
「それって……」
眉を寄せるフィリスに、風子が続ける。
「フィリス殿は、一度でも誰かに心を折られるほどの肉体的、精神的な暴力を受けたことがありますか?」
「ぼ、暴力……?」
「なにも殴られたとかそういった意味だけでなく……人の能力を伸ばすには、二つ方法があります。ひとつは褒めること。そして、もうひとつが、わざと相手を挫折させて、本人の意志で再び立ち上がらせること。そうすることで、向上心が飛躍的に上がって、自分が限界だと思っていたそのさらに上の段階に行くことができるのです。その代わり、ほとんどの人は立ち直れず、そのまま終わりますが……」
「私には、それが足りないっていうの?」
睨むわけではないが、フィリスは目を細めるようにして風子を見据えた。
「そうですね。良くも悪くも、温室育ちと言いますか、危機感や焦燥感がありながら、どこか本気になり切れない……なることができない。そんな感じです」
「でも、そんな体験、滅多にできることじゃないし、それに……」
そんな体験ならば、フィリスは二ヶ月前の闘技場ですでに体感しているのだ。
迫り来る火球と、後輩を守らなければという責任。
自分が生み出す水龍をもってしても押さえきれず、眼前まで火球が迫ってきたときのあの恐怖。
死さえも覚悟しながらも、最後までやり通したつもりだった。
だけど、それでも足りないのだとしたら、もうどうしたらいいのか分からない。
それとも、これがそもそもフィリス・アークエットという人間の限界なのだろうか。
だとすれば、それこそ、もうカームと並び立つことなど……。
意気消沈するフィリスの前で、髪を乾かし終えた風子が立ち上がり、半乾きになった半襦袢を脱いだ。
「えっ?!」
驚きのあまり、目を丸くするフィリス。
「ちょ、あなた、誰かに見られたらどうするのよ!」
「どうしてフィリス殿が慌てるのですか? それに――」
裸体を恥ずことなく晒す風子が、そう言いながら風呂敷から替えの半襦袢を手に取ると、すぐに羽織った。
「見られて恥ずかしい体をしているつもりはありません」
「私が恥ずかしいのよ!」
「それこそどうしてですか?」
「まったく……」
常識が通じない者の相手は、疲れる。
これではまるで、ソラを相手にしているようだ。
あの少年も無邪気で無垢な笑顔で、時折とんでもないことをしてみせたり、男なら絶対に恥ずかしがるだろうことでも動じず、逆にこっちが驚くような行動をとることもある。
リボンを手に取った風子が、ポニーテールを右に寄せて結ぶ。
「ねぇ、どうして右側に寄せて結んでいるのかしら?」
「これは、刀を使う際、髪が邪魔にならないようにするためです」
そう言われ、刀を構えた風子を想像する。
確かに、真ん中で結ぶと、激しい動作をした際、刀を持つ方に当たりそうだ。
「髪は切らないの?」
なんでもないような質問に、だが風子は少し黙り込み、
「刀使いは髪を切りません。髪の長さが、生きた時間の長さになるのです。私たちが髪を切るのは、首と一緒に斬られた時のみです」
「そう……」
フィリスには、その意味が理解できなかった。
言っている意味は分かる。
だが、それを本気で言う風子の感覚が、フィリスには分からなかったのだ。
それから風子が風呂敷から道着と袴と取り出す。
フィリスから見れば、一見してどうやって着ればいいのか分からないような服を、優雅で無駄のない流れるような動きで着ていく。
そんな風子の姿に、しばし見とれていた。
そして、着替え終わった風子の姿は、あまりに凛々しく、様になっていた。
「うむ」
風子がそう呟くと、沐浴するために脱いで置いておいた道着と袴を手に取り、水辺へと近づいていった。
何をするつもりなのだろうかと見ていたフィリスの前で、風子は道着と袴を水に浸けると、おもむろに洗濯を始めたのだった。
「これくらいでいいかしら?」
風子の隣で洗濯を手伝っていたフィリスが、道着を広げて見せた。
「ふむふむ……」
風子がそれを手に取り、特に汚れやすい襟の内側を見ていく。
フィリスが洗濯をしている理由は簡単で、フィリス自身が手伝いを申し出たからだ。
本人はまったく気にしていない、むしろ日常のように、当たり前のように手洗いで洗濯を始めたため、それがいたたまれなくなり、こうして手伝うことを申し出たのだ。
それに対し風子は遠慮したが、お願いだからと懇願するフィリスに根負けしたのか、道着の方を任せてくれた。
「うん。汚れもちゃんと落ちている。かたじけない」
「これくらい、おやすいご用よ」
「それでも、手間が省けた。感謝する」
「好きでやったことよ。他に何かある?」
ぐっと腕まくりをして見せるフィリスに、風子は断るだけ無駄だろうと悟っていたのか、それでは――と次のやるべきことを教えてくれた。
森林地帯の外縁部で、フィリスは渡された麻の紐を、視線の高さと同じ位置にある木の枝の根元に結ぶと、紐を引っ張りながら離れたもう一本の木まで歩き、そこで先ほど洗った道着の袖口に紐を通し、反対側の袖から出して、それから紐をぴんと張って、木の枝に結んだ。
木と木との間に紐が張られ、その紐に通された道着が朝日に照らされる。
「いい場所です」
その声に振り返ると、袴を洗い終えた風子が立っていた。
「日当たりも良くて、風通しもいい。これならすぐに乾きそうだ」
「ええ。それにしても、洗濯まで自分の手でやっていたなんて……」
呆れ、ではなく、逞しい、と思うフィリス。
「一人旅をすれば必要なことで、自然と身につくものです」
紐に袴をかけて干し、シワにならないよう生地を広げていく風子。
「これでよし」
洗濯物から離れ、二人してそれを眺める。
イリダータでは、指定のカゴに洗濯物を入れ、名札を置き、それを洗濯室の担当者に渡すことで授業を受けている間に洗濯してくれるのだ。
当たり前のことでまったく気にしていなかったが、こうして実際に自分の手でやってみると、一枚洗うだけで大変だった。
こうやって体験して初めて、そのありがたさが身に染みた。
今まで何も言わずにカゴを置いていくだけだったが、今度からは、「おねがいします」と「ありがとうございました」は言おう。
「さて」
洗濯を終えた風子が、風呂敷を木の洞に入れると、木の幹に立てかけたあった刀を手に取り、腰の帯に差すと、
「よし」
と風子が気合いを入れるように声を上げた。
その完成された姿は、まさに刀使いだった。
「それで、いまさらだけど、あなたがイリダータに来た目的はなに?」
そろそろ寮に戻らなければと立ち上がったフィリスに、風子が答える。
「決闘……真剣勝負です」
そう言って、風子が脇に差した刀の柄をぎゅっと掴む。
「どちらかが死に、どちらかが生きる。そして、生き残った方が、東雲の名と当主の座、そして宝刀を受け継ぐのです」
そんな自信満々の風子の表情を前に、
「――は?」
と自分でも間の抜けたような声を出してしまったと思うフィリスだった。
だけど、そのときは思ってもいなかった。
それが、本当に生と死を賭けた勝負になるのだということを……。




