第二話 嵐の前の静けさ(3)
太陽が山の稜線から顔を出して間もない、空気が暖まる前の涼しい時間帯。
フィリスは、早朝の自主練を行っていた。
場所は、イリダータ自然区の北に位置する人工湖。
その中央で、水面の上に立つフィリス。
風はなく、水面も凪いでいる。
そして、それと同じように、フィリスの心も凪いでいた。
心身を弛緩させ、頭を空っぽにして、傍から見れば寝ぼけ眼のような半分開かれた目をしている。
だが、その焦点はどこにも合っておらず、まるで心ここに在らず、と言った感じだ。
これも、水使いの師と仰ぐミュールからの課題だ。
例え何が起きようとも、心を乱されてはいけない。
心を乱せば体が乱れ、いざという時に力を発揮できなくなる。
そして、そのいざという時というのは、大抵の場合、唐突に、何の前触れもなく襲いかかってくるのだ。
瞑想にも近い心境だが、あらゆる事態にも心を動じさせないためにも、瞼は開き、目の前の風景を見続けている。
意識しているわけではなく、自然と視界に入っているという感じだ。
だが、こうしていると、つい色々なことを考えてしまう。
一ヶ月前、ミュールとの特訓で、ついに水龍の六頭目を出すことに成功した。
それからひとりで猛特訓をし、なんとか六頭目を操ることができるようになってきたのだ。
普通に考えれば、今のフィリスは、イリダータでも間違いなく歴代最高の水使いだろう。
だが、当の本人からすれば、自分などまだまだなのだ。
なぜなら、目標は師であるミュールの九頭龍。
そして、それを超えたいのだ。
しかし、やっと六頭目を出せたフィリスの前には、ソラという少年が立ち塞がっている。
前にソラに訊ねたとき、少年は七頭まで自在に操ることができると言った。
それはつまり、ミュールの最高位【水龍】を継ぐのに最も近い存在が、自分ではなくソラということになるのだ。
悔しい。
悔しいが、認めざるを得ないのだ。
あの、羨ましい限りの、ソラの才能に。
ソラは、水だけでなく、風、地と三つのエレメントにおいて、マスタークラスの能力を有している。
元々の才能もあるが、風と地に関しては、あの四英雄が直々に教え込んだという。
フィリスも、同じ四英雄であるミュールから教えを乞うているが、何せその時間と年月が比較にならない。
前にカームから聞いたのだ。
ソラがイリダータに来る前の話を。
それを聞いたフィリスは、驚愕し、そして愕然とした。
丸一日をひたすらエレメントをマスターさせるための特訓につぎ込み、それを風、地、それぞれ三年費やしたという。
地のエレメントでは、全身が擦り傷だらけで水を浴びることすらできずにいたときもあり、風のエレメントでは、何日と飲み食いはおろか睡眠すらとることができずにいたこともあったという。
あのソラの才能をもってしても、そうまでしなければ、あの高みには辿り着けないのだ。
だとすれば、こんなことをしていて、自分は本当に極致に辿り着けるのだろうか。
口ではミュールの【水龍】を継ぐ存在は自分だと豪語しながら、誰よりもそれが現実不可能なのではないかと怯えている。
自分と並び立つ存在であると思っていたカームでさえ、少しずつ先を歩くようになっている。
不死鳥の如し、火使いとしての特異な体質。
まるでエレメントが凝縮されたような、赤よりもなお深い紅色をした右目の瞳。
二度死に、二度甦った。
この三ヶ月の間にカームの身に起きたことはあまりに不遇であり、異質であり、だが、それを経て、カームはより強くなっていた。
それを見てきたフィリスは、置いていかれるような焦燥感に身を焦がしていた。
このままでは、自分はただの凡人になってしまう。
だけど、それは嫌だ。
自分は特別でありたい。
遥か高みに、そして最強の水使いになりたい。
そんな思いが日に日に増し、心がそれだけを考えるようになっていた。
(……ん?)
心を無にしろと言われていたのに、坩堝にはまってしまったかのように考え込んでしまった。
やはり、まだまだだ。
太陽が昇り、体が暖かさを感じ始めたフィリスは、練習を切り上げようと、意識を切り替えた。
それと同時、正面に見える水辺に、人影が見えた。
まっすぐに伸ばした黒く長い髪の少女が立っていた。
遠目でも、その黒髪の艶やかさに驚かされる。
だが、フィリスの目に止まったのは、その服装だ。
ソラが時々着ている、島国の服のようだ。
真っ白の半袖で、下は太股が露わになるほどに際どい短さだった。
(ちょっ――えっ?!)
そして、何を血迷ったのか、少女が湖に向かって歩き始めたのだ。
一歩進むごとに、足、脹脛、膝、太股と少しずつ少女の体が湖へと浸かっていく。
(まさか、入水?!)
イリダータは、あらゆるエレメンタラーとの出会い、そしてエレメントを学ぶ場として、今はまだ試験段階にある極めて若いアカデミーだ。
そして、そこで学ぶエレメンタラーのなかには、実力の差を思い知ったり、思ったように自分のエレメントを伸ばすことができなかったり、そんな悩みを誰にも打ち明けることができずに抱え込み、心を壊してしまう生徒もいるらしい。
もちろん、今のイリダータでは、生徒の悩みを聞く専門家も常駐しており、年を重ねるごとに、授業内容なども更新され、改善されていっている。
それでも、悩みというものは尽きないのだ。
ついさっきまで、うじうじと悩んでいたフィリスのように。
だから、そんなフィリスは、目の前で入水しようとしている少女を放ってはおけなかった。
すぐに水面を走り、少女へと走った。
そして、
「駄目よ! 早まらないでー!」
と叫び、まだ遠くに見える少女に向かって届くはずのない手を伸ばすのだった。
※
すでに火が消えている焚き火の跡を前に、風子は目を覚ました。
木々の隙間から光が差し込んでいるが、まだ肌寒い。
まだ多くの人々が目覚めてはいない時間帯。
そんな自然の中では、耳を澄まさずとも、多くの音が聞こえてくる。
風に揺れる木々。鳥の鳴き声。
風のエレメントを使えば、風子の聴覚はより遠くの音を聞き取ることもできる。
目を瞑り、風が運んでくる音に耳を傾ける。すると、水の音が聞こえた。
(川……いや、湖か)
ちょうどいい、と風子は思い、傍らに置いておいた風呂敷をたぐり寄せた。
昨日は忙しなく、長旅での疲れも出てしまい、そのまま眠ってしまったが、起きてみると、改めて汗で体中が不快なことに気づいた。
ここに辿り着くまでの間、風子はずっと旅をしてきた。
その間は野営を常とし、寝床の確保や、水辺での沐浴、服の洗濯など、すべて自然のなかでこなしてきたのだ。
幸い、ここイリダータは、自然区が広大で、敷地内でもあるにも関わらず、離れた場所までくると、まるで自然の中にいるようだった。
しかも、獣もいなければ盗賊の類いもいない。
安心感がまるで違う。
もっとも、それらに対し、風子が遅れを取ることなどないのだが。
風呂敷を担いで立ち上がり、枝を拾いながら歩いて森林地帯を抜けると、そこには巨大な湖が広がっていた。
「おぉ~」
思わず感嘆の声が上がる。
近づかなくとも、その透明度が分かるほどに、水が綺麗だ。
「とても気持ちよさそうだ」
水辺まで近づき、足下の水を見下ろすと、改めてその透明度に驚かされる。
風子の旅の中には、お世辞にも綺麗とは言えない湖や川もあった。
だが、そこで生活している原住民は、その水で生きていた。
だから、風子もそこでは、その水を使って過ごしたことも少なくない。
それでも、これほどまでに綺麗な水には巡り会えたことはない。
いや、楓がいた秘境の地にあった雪解け水でできた湖も、同じくらいだっただろうか。
あそこは早々に立ち去ってしまったため、沐浴などはしていないが、見た目が同じように感じる。
とすれば、この水も、ここから北の方に見える雪を頂く山脈から溶けた水が地下を通って来ているのだろうか。
「早速、身を清めさせてもらおう」
まずは集めた枝で、焚き火をする。
これからする沐浴から上がってきたときに体を温め、髪を乾かすためのものだ。
それから風呂敷を開けると、そこには着替えの服などが入っており、風子はいま着ている道着と袴を脱いだ。
その下には、白の半襦袢を着ており、風子は脱いだ道着と袴を砂利の上に置き、右に寄せたポニーテールを結ぶ白のリボンをほどいた。
癖のない、まっすぐに伸びた黒髪が、まるで絹の糸のようにさらりと背中に零れ落ちていく。
リボンを風呂敷の上に落とし、風で飛ばないように刀を重しにした風子は、そのまま水辺へと足を進めた。
「まだ冷たい」
水に浸けた足の指先が、冷たいと感じる。
それでも、風子は構わず、一歩、また一歩と進んでいった。
深みへと進んでいき、脚が少しずつ水に浸かっていく。
これは、体を清めるためであり、同時に心の鍛錬でもあるのだ。
昨日の自分を省み、そして今日の糧へとする。その心の整理と切り替え。
夏の暑い日は気持ちいいが、冬の寒い日にも同じことをするため、それはまさに天国と地獄だった。
どんなに気持ちよくて泳ぎたい気分になっても、決して動じず、ただ身を清めるに徹し、全身が悴み、体が言うことを聞かなくなるほどに凍えようとも、必要な時間は寒水に浸かり続けた。
唯一の救いは、水辺に焚き火を起こしておくため、水から出てすぐにその火で凍りついた体を溶かすことができたことだろうか。
小さいころは本当に死ぬ思いだったが、この年になると、それすらも鍛練と割り切れ、さらには悲鳴を上げていた心臓の鼓動すら意図的に操作することができるようになったのだ。
薄氷が貼る水の中で、心臓の鼓動を遅く、遅く、そしてまるで止まっているのではと錯覚するほどにゆっくりと動かし、いわゆる仮死状態にしてやり過ごす。
その方法を身につけてから、風子は呼吸法が飛躍的に成長し、心臓の鼓動を介して、全身の必要な場所に必要なだけの血液を流し、肉体の限界値を上げることができるようになったのだ。
東雲一族の刀使いは、エレメンタラーの中でも極限まで肉体の限界値を上げなければ成ることができない。
傍から見れば、ただ風のエレメントで風を操り、追い風という形で体の速度を上げていると思われているが、そんな人物は、一生かけても刀使いの足下にも及ばないだろう。
東雲一族は、風のエレメントを使うが、それよりも何よりも己の肉体を人間として最高で最強の状態にまで仕上げることを重要視しており、その基盤となる肉体が完成して初めて、風のエレメントによる人の領域を超えた速度を実現し、そして耐えることができるのだ。
普通の人間が、エレメンタラーであろうとも、楓や風子が使う速度域に身を置けば、四肢がもげるだろう。
耐えられたとしても、そもそも視界や意識、聴覚など、あらゆる感覚が置いてけぼりになり、理解が追いつかなくなる。
そんな状態で刀を振るうことはおろか、何もできず、むしろ体を痛めつけるだけで終わるのだ。
水に浸かっていく風子の脚は、とうてい女性のものとは思えないくらいに筋肉が発達しており、脂肪など一切なく、筋肉の筋が浮き出て見えるほどだった。
余計な脂肪どころか、必要最低限のそれすらも削ぎ落とした胸部の乳房は控えめで、だが、それすらも風子にとっては誇りでしかなく、もし大きくなっていたならば、風の抵抗となり、斬り捨てていただろう。
そんなとき、風子はふと、目の前――遠くに気配を感じた。
常に周囲を警戒していた風子に、風が教えてくれたのだ。
意識を戻し、視線を上げると、
「駄目よ! 早まらないで-!」
と水を切るような勢いで、水面を走ってくる女が映った。
「なっ!」
常に平静を保つ自信がある風子だったが、これには別の意味で驚かされた。
咄嗟に逃げようとするも、ここが水の中であることに気づき歯噛みする。
そうしているうちに、相手はまるで水中の魚の如く、水の上を滑るようにしてみるみると接近し、そして――
風子に抱きつくようにして飛び込んできたのだった。




