第一話 刀使いの少女(2)
起きて最初に感じたのは、蒸し暑さと生ぬるい風。
「ソラ、起きたのね」
目の前に、覗き込むようにしてミュールが座っていた。
ミラー邸のリビングにあるソファーでうたた寝してしまっていたソラは、ミュールのお風呂上がりのネグリジェ姿に、夢のことを思い出した。
「ソラ?」
返事がないことに、ミュールがもう一度声をかける。
「夢を、見てたんだ」
ぽつりとソラは呟いた。
「それは、私?」
期待に満ちた瞳を見せるミュールに、ソラは申し訳なさそうに首を振った。
「ごめんね。楓との夢だったんだ」
「あら、そうなのね。残念だわ」
そう言うミュールだが、表情は残念そうには見えず、むしろ慈しんでくれていた。
「……寂しい?」
ミュールの問いに、
「ううん。寂しくないよ。だって……」
寝転んだまま、覗き込むミュールに手を伸ばし、
「ミュールがいるから」
細く白いミュールの手を掴んだ。
「ソラ……私もよ」
その行動に、ミュールが頬を赤らめ、やさしく微笑む。
「それに、いつかイリダータに顔を出すって言ってたから」
「楓が? それは騒がしいことになりそうね」
ミュールがくすりと笑う。
ミュールの言う騒がしいとは、楓が大陸最強のエレメンタラーであり、風の国の最高位【神風】を冠する有名人で、絶大な人気を誇っており、そのため、生徒が浮き足立ち、騒ぎになりかねないからだ。
そして、楓自身も騒がしいのだ。
場の空気を読まないというか、自分勝手というか、周りの目などお構いなしに校舎内を歩き回って、勝手にものを触って、勝手に食堂で飯を食って、腹がふくれて眠いからって、芝生の日差しが気持ちいい場所で昼寝でもしかねない。
ミュールがイリダータの学長であることも話題となったが、東雲楓という存在は、やはり四英雄のなかでも群を抜いている。
良くも悪くも、楓はどこか次元の違う存在なのだ。
「いつ来てもいいように、日々の鍛錬を怠らないようにしないと」
自分に言い聞かせるように、ソラが意気込む。
「相変わらず、楓は厳しいわね」
「でも、だからこそ……そのおかげで、クリスのときも風のエレメントに助けられたんだ」
一ヶ月前の出来事。
両腕を負傷したソラは、それでも両腕を駆使して地のエレメントを使っていたが、それと同時に風のエレメントも使い、不利な形勢を均等に保っていたのだ。
「ソラの風のエレメントは、楓の影響だから仕方がないけど、あらゆる面において速度を最重要視してるから、ちょっと……いえ、かなり独特なのよね」
「そうなんだよね。ボクもこれが普通なんだって思ってたけど、エラに風のエレメントの使い方を教えてほしいって言われたことがあって、教えようとしたんだけど、全然伝わらなくて、エラの方から『私とは格が違いすぎるのね』って言われて、結局それっきりになっちゃったんだ」
「そればかりは仕方がないわ」
ミュールが苦笑する。
エレメントの学ぶ上での基礎は、誰もが同じ道を通る。
だが、そこからさらに上に行こうとすると、個々人の感覚が介入してくる。
それによって、強いエレメントというのは、学びたいと思っても他人からの指導ではなかなか身につかないのだ。
だが、ミュールの水龍のように、段階を経て数を増やす方法で、水使いに浸透するような場合もある。
それでも、カームの『火ノ鳥』や、クリスの『恒河沙』などは、個人に依存する部分が大半を占めているため、その技こそが、個人を表すことになる。
その尤もたる例が、四英雄の最高位だ。
火使い――ルカ・ロードナイトの【深紅】
水使い――ミュール・ミラーの【水龍】
風使い――東雲楓の【神風】
地使い――アビゲイル・ワイゼンスキーの【破断】
これらは、称号であると同時に、その者たちの特色を表しているのだ。
楓の【神風】も、神の如し風という畏怖と敬意からきたもの。
ソラの感覚が、エラをはじめとした一般的な生徒たちと合わないのは、ソラの中での風のエレメントが、ソラ独自のものとして形成されているからだ。
ミュールが扱う水龍も、ミュール自身は九頭龍と呼んでおり、文字どおり、九頭の水龍を同時に呼び出し、すべて意のままに操ることができるのだ。
だが、それが水使いの間で広まり、浸透してしまったため、一頭や二頭などは容易でも、五頭を壁として、そこから先へ進める者はほとんどいなくなる。
それは、ミュールにとってはまるで自分の手先のような感覚で操れる水龍が、他者にはその感覚がなく、教えたとしても実感がもてないからだ。
ソラほどの才能を持ってしても、現在でも七頭が限界。
イリダータ内では、ミュールがひと目置いている四年生のフィリス・アークエットだが、彼女は誰もがぶつかる五頭から先の壁に長い間ぶつかっていた。だが、一ヶ月前に六頭目を出すことに成功し、それから一ヶ月が経ち、安定して六頭目を動かせるようになってきた。
それでも一頭増やすだけで、一年以上はかかっている。
そこから操れるようになるまで、どれだけかかるか分からない。
エレメントは生まれつき――先天的な能力によって決まることもあり、ソラやカーム、クリスは間違いなく、生まれながらにして才能を与えられていた。
だが、フィリスは違う。
彼女を彼女たらしめているのは、努力だ。
しかし、努力なんてものは誰だってやっている。
だがフィリスは、その量が他者と比べてずば抜けているのだ。
最初はミュールに憧れ、そしてカームというライバルが現れ、ソラが入学し、カームが火使いとして一時的とは言え極致へ達した。
それに並ぼうと、フィリスは血の滲むような努力を続けている。
それをずっとミュールは見てきた。
あえて声はかけず、フィリス自身がそれを続けることができるのか、ずっと見ていた。
そして、四年生となった今でも、フィリスは努力を怠らず、邁進している。
才能と努力。
果たして、頂に達することができるのは、どっちなのだろうか。
ミュールは、ふと、そんなことを思うのだった。
お風呂から上がったソラは、湯上がりに涼もうと紺色の甚平姿で裏庭に出ていた。
裏庭は芝で覆われており、ソラは素足のままでいた。
涼もうと思ったが、やはり蒸し暑く、風も生ぬるい。
甚平の袖から覗くソラの腕は、肌が剥き出し――つまり、固定具が外されていた。
腕の固定具は昨日の休息日前に、保健医のコーデイによって外され、ようやく自由に動かすことができるようになった。
だけど、エレメントの使用はあと一週間は控えるように言われた。
ソラのエレメント量ならば、初歩的な使用なら影響はないものの、前のように、肉体に影響を及ぼすほどのエレメントを使用すれば、また筋肉が断裂する恐れがあると注意を受けた。
エレメントを使用できないのは残念だが、こうして久しぶりに腕を動かせるだけで、今は満足だ。
入学してから、もうすぐ三ヶ月。
季節は、春から夏を迎えようとしていた。
アルコイリス、そしてイリダータ・アカデミーがある大陸中央部には四季がある。
同じく、西に位置する水の国、そして東に位置する風の国にも四季がある。
逆に、北に位置する火の国は極寒で一年を通して雪に覆われており、南に位置する地の国は年中暑く、乾燥した砂漠地帯となっている。
ソラが育った秘境は、一年を通して同じ季節だった。
標高が高いために気温は低く、しかし特有の地形と環境で緑に覆われていた。
雪は降らず、太陽が出れば温かい。
季節は変わらないが、とても過ごしやすかった。
今は、甚平姿でも少し蒸し暑い。
「ソラ」
ミュールの声に、ソラは振り返った。
ソラと同じでお風呂上がりの格好は、イリダータではまず見られない、素の姿だった。
亜麻色のロングヘアーはまだ湿っており、肩紐のネグリジェ姿は艶やかで、ソラの育ての親である残る二人――楓とアビーに比べて肉感的で、胸も大きい。
抱きしめられたときの柔らかさも、ミュールだけ感触が違う。
「ミュール」
「こっちへいらっしゃい」
手招きするミュールに、ソラは笑顔で駆け寄った。
「どうしたの?」
「ほら、これ」
ミュールが縁側に腰を下ろし、手に持っていたものを差し出す。
手渡されたのは、紙袋で包まれたものだった。
軽く、柔らかい。
「これって……」
「開けてみて」
麻紐で十字に結ばれた袋をほどき、紙を広げる。
そこに入っていたのは、制服だった。
「夏服だぁ」
広げて見せたそれは、半袖の開襟シャツ。
黒のズボンも、生地が違うのか軽い。
「明日から必要でしょ?」
「うん。ありがとう、ミュール」
お互いに笑い合う。
新品の夏服を堪能したソラは、それを丁寧にたたみ、紙に包んで麻紐で結び直した。
「もうすぐ夏ね」
ミュールが夜空を見上げる。
「夏って、暑いんだよね?」
「ええ、そうよ。今日も蒸し暑いけど、こんなものじゃないわよ」
「……もっと暑くなるの?!」
「太陽が燦々《さんさん》と輝いて、肌が焼けてしまうの。女性は大変なのよ」
「そうなんだぁ」
驚くソラに、ミュールが微笑む。
生暖かい風が吹き、体を撫でる。
その風に、ソラは晴天の夜空を見上げた。
雲ひとつない、星が瞬く夜空。
だけど、その視線は、もっと遠くへ向けられていた。
「ソラ?」
そんなソラの様子に、ミュールが顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「風が……」
「……風が、どうかしたの?」
「多分……嵐が来る」
「嵐? こんなにもいい天気なのに?」
ソラに習って、ミュールも夜空を見上げる。
「すぐにじゃないけど……でも、分かるんだ。なんとなくだけど、感じる」
「……それは、風の知らせ?」
「うん。楓から教わった。……大きな嵐が来る」
そのままソラが、じっと夜空を見続けている。
「……そう」
ミュールが呟き、視線を夜空からソラへと向ける。
驚いた――とミュールは素直に思った。
それは、大きな嵐が来ることに対してではなく、それを風のエレメントを通してソラが感じ取ったことだ。
ソラを疑うわけではないが、これで近日中に本当に嵐が来たならば、ソラへの評価を改めなければならない。
なぜなら、そもそもここ――大陸中央部には、水の国で発生するハリケーンや、風の国で発生する台風と言ったものが来ることはない。
四方を囲む山脈がそれを塞き止めているからだ。
「それじゃあ、しっかりと備えないとね」
「うん」
ソラがそれを知ることはなく、ミュールはそれを自分の胸のうちにしまっておくことにした。
ここまで嵐が来るなど、普通ではない。
だが、ソラは来ると言った。
これが、良くないことの前触れでなければいいのだが……。
そんな不安をごまかすように、ミュールはソラの肩に手を回すと、自分の元へと引き寄せるのだった。




