エピローグ 日常の始まり
イリダータ・アカデミーの裏に広がる広大な敷地の一角――小高い丘の頂上にそびえる巨大な一本の樹。
天候は晴れ。
空を流れる雲。
吹く風は心地よい。
木漏れ日がほどよい暖かさを届けてくれる。
思わず眠ってしまいそうな心地よさに、ソラはうとうとしていた。
芝で覆われた丘の斜面で仰向けになり、目を瞑る。
時刻は昼時。
ソラはここで、カームを待っていた。
昼食を買いに行ってもらっているのだ。
こうして寝そべっているソラの腕は、両方とも包帯が分厚く巻かれていた。
一週間前に起きたベヒモスとの戦いで、痛んでいた腕を無理に使ったため、ついには筋肉が断裂してしまったのだ。
戦闘中は集中していて痛みなどなかったが、落ち着いた後に痛みが増していき、ソラはそのままコーデイと共に保健室へと向かう羽目となった。
そして、「一ヶ月は絶対に使用禁止。下手に動かそうとすれば、二度とまともに動かせなくなるわよ」と厳命されたソラは、それでも信用されていないのか、固定具で前腕を固定され、その上から包帯でぐるぐる巻きにされたのだ。
外からの見た感じだと大した怪我には見えないだけに油断しがちだが、内を診ることができるコーデイからすれば、相当に危険だったらしい。
それを感じたからこそ、ソラも甘んじて受け、こうして休養をとっているのだ。
エレメントすらも使用できないため、今は専らカームの鍛錬に付き合い、助言するに徹している。
日常生活も、色んな人に助けてもらっている。
寮生活に関することはレイに、午前の座学はエラに、昼から夕方まではカームに、とそれぞれに役割を分担して補助してもらっているのだ。
決して独りでは一日を送ることができず、こうして助けてもらうことのありがたさ、傍に誰かがいてくれることの嬉しさが身に染みる。
「かぜ……きもちぃ……」
そうして横になっているうちに、ソラは自分でも気づかぬうちに眠りについた。
※
それは夢。
そして、過去の記憶。
色とりどりの花に囲まれるようにして置かれた墓石を前に、ソラと楓は立っていた。
悲しそうに俯くソラの頭に楓が手を置き、自分の方へと引き寄せる。
「もう……アビーには会えないんだよね」
「ああ」
その言葉に、ソラが鼻をすする。
込み上げてくる涙を必死に押さえようと、瞼をぎゅっと瞑っていた。
「だけど、ここにいる」
俯くソラの胸に、楓が人差し指でトンッと突く。
「思い出だ」
顔を上げると、楓がニッと笑って見せていた。
「お前のなかに、アビーはずっといる。思い出せば、アビーが応えてくれる」
「楓のなかにも?」
「ああ」
そう言って楓は胸を張り、その胸に自分の手を添える。
「私のなかにもアビーはいる。ソラや私だけじゃない。アビーを想うすべての者の胸の中に――」
ソラは自分の胸に手を当て、瞼を閉じる。
アビー、と呼びかけると、あの柔和な笑みが浮かんで見えた。
その笑顔を見るだけで、胸が温かくなり、思わず表情が綻ぶ。
「どうだ?」
「うん。感じるよ、アビーを」
「そうか」
楓がソラの頭に手をのせ、わしゃわしゃと撫で回す。
「わっ、楓っ! やめてよ」
その手を払いのけようとすると、楓の方から手を離し、笑い声が聞こえた。
もう、と頬を膨らませながら髪を撫でて整えていると、
「これはアビーから聞いた話だけどな」
と言い、楓がしゃがみ込む。
「地の国では、こうして土葬が一般的なんだが、それには理由があるんだ」
墓石の前の土を鷲掴み、立ち上がる。
「地の国は、他の三国に比べて、エレメントに対する信仰が厚いんだ。火の国のように、エレメントを私利私欲のために使うのとは違い、地の国ではエレメントとの共生……むしろ、エレメントによって生かされていると考えているんだ。エレメントを与えてくれたことに感謝し、それを使って生活を豊かにできることに感謝し、一生を安寧に終えたことに感謝する。その感謝の証として、肉体に宿るエレメントを、死後、大地へと還すために土葬するんだ。そのエレメントが土地を豊かにし、そして次に生まれてくる地使いへと受け継がれる。そういった概念だ」
楓が指を動かし、少しずつ砂を零していく。
「この一粒一粒にエレメントは宿り、人々に恩恵を与える。そして――」
楓が墓石に目を向ける。
「いつまでも大切な人たちを見守り続けるんだ」
「アビーが、見守っててくれる……」
ソラもまた、墓石を見つめる。
「ああ、お前が大きくなって、もっと立派なエレメンタラーになれば、いつかこの大地からアビーを感じることができるようになるかもしれない」
「じゃあ、ボク、もっと頑張る。アビーに見られてても恥ずかしくないように、もっと頑張るよ」
「その意気だ」
二人で墓石を前にしばらく立ち、それからどちらともなく振り返り、ログハウスへと足を進めた。
「明日からは、私が風のエレメントを叩き込むからな。今日はしっかり休んでおけよ」
「楓。ボク、今日からでもいけるよ」
「ほほぅ~、その意気や良し。じゃあ、昼飯食ったら早速始めるぞ!」
「おーっ!」
腕を天高く突き上げる楓とソラ。
そんな二人の背中を見守るように、どこかで苦笑するような声が聞こえた。
※
ソラと自分を合わせた二人分の昼食が入った紙袋を片手に、カームは校舎裏に出ると、東屋のひとつに、見知った顔が向き合っていた。
エラにレイ、それにクリスだ。
エラとレイが並んで座り、その向かい側にクリスが座っている。
そして、そのクリスは、腕を枕にするようにして眠っていた。
そんな寝顔を、エラとレイが微笑ましく見つめている。
ベヒモスとの死闘から一週間――クリスはようやく平穏を取り戻したと聞いている。
約十六年間、彼女は悪夢を見続けてきた。
寝ることは恐怖であり、起き続けていることが苦痛で、悪夢で目覚めたときは憔悴し、心の安まるときがなかったという。
だから、こうして遠くからクリスの寝顔を見ていると、何気ない日常、そして当たり前のことが尊く思えてくる。
「良い夢を、クリス」
そう告げて、カームはその場を後にするのだった。
※
それは、夢。
だけど、悪夢じゃない。
こんなことは初めてで、これが夢の中なんだと認識しているクリスは、ずっとここにいたい気持ちになっていた。
だって、ここには、失ったはずの大好きなお母さんがいるから。
村も元通りで、亡くなった人たちがみんな、活き活きとしている。
無くした、もう戻らないと思っていたものが、ここにはある。
ぜんぶ、ぜんぶ……ぜんぶ……。
だけど、ここには……。
「ほら、お友達が待ってるわよ」
お母さんが、自分の後ろを指さす。
振り返るとそこには、イリダータに入学してから出会ったみんなが立っていた。
向き直り、お母さんと視線を合わせる。
言葉はなく、ただ微笑んでいるだけ。
だけど、それだけでクリスは理解した。
ここには失ったものがすべて揃っている。
だけど、これは夢。
決して触れることもできなければ、温もりを感じることもできない。
現実は辛い。
だけど、みんながいる。
これからのイリダータでの生活は、きっと楽しい。
だけど、それだけじゃない。
それでも、楽しみたい。
「お母さん……私、行くね」
そう言って、クリスは振り返った。
もう、振り返らない。
十分に眠った。
あとは、起きるだけ。
起きたその先には、きっと、楽しいことが待っている。
悪夢を見続けた日常が終わり、また新しい日常が始まるのだ。
だから――
「おはよう、クリス」
「おはよう、エラ」
腕を枕に眠っていたクリスが寝ぼけ眼でエラを見つめる。
「よく眠れた?」
「うん。すごく……良かった」
「そう」
微笑むエラに、クリスも笑みを返す。
昼時の暖かな空気が、二人を包み込む。
その隣で、レイが気持ちよさそうに寝息をたてて眠っているのだった。
※
イリダータ・アカデミーの校舎から遠く離れた位置にある人工湖。
その水面に立つ二人の影。
一人は、イリダータ・アカデミーの学長――ミュール・ミラー。
そしてもう一人は、四年生の水使い――フィリス・アークエット。
少し距離を空け、対峙する二人。
「行くわよ」
「……はい」
ミュールの言葉に、フィリスが頷く。
そして、ミュールの体から青のオーラが放たれた。
フィリスの体からも同じ青のオーラが湧き上がるが、ミュールと比べれば、半分にも満たない。
だが、そもそもミュールよりも大きなオーラを出せる水使いなどいない。
それが分かっていても、これを前にすると、自信を失ってしまう。
少し前までは、羨望の眼差しで見つめ、目標としていたはずなのに。
「一頭!」
その声と同時に、ミュールの背後から一頭の水龍が現れ、フィリスに向かった。
「――ッ!」
フィリスは意識を切り替え、集中する。
同じように一頭だけ水龍を呼び出し、ミュールの水龍にぶつけた。
力と力がぶつかり合い、水飛沫が雨のように降り注ぐ。
二人ともそれに構うことなく、続けた。
「二頭!」
ミュールの左右から一頭ずつ、二頭の水龍が現れ、フィリスも二頭を呼び出し、再びぶつける。
「三頭!」
左右と背後から三頭の水龍。
フィリスも同じようにして三頭を呼び出す。
そのまま同じようにぶつけようとし、ミュールの水龍が軌道を変えた。
まっすぐに突っ込んでくると思っていたフィリスは、それでも冷静さを失わずに、水龍を動かし、三頭とも迎撃した。
そうして四頭、五頭とこなし――そして、
「六頭!」
「――ッ!」
来た! ここからが試練だ。
ミュールの左右から三頭ずつ水龍が天を昇り、そして首をもたげるようにしてフィリスへと食いかかってきた。
ここで留まっているわけにはいかない。
このままでは、カームに置いていかれてしまう。
ずっと彼女の隣を歩めると思っていた。
だけど、今のカームの隣に立つのは、自分ではなく、あの少年なのだ。
そして、地使いのクリスもまた、特出した能力を持っている。
このままでは駄目だ。
もっと、もっと力をつけなければ。
自分の目標は、九頭龍なのだ。
五頭どころか、あと四頭も呼び出し、自在に操ることができなければならない。
一頭、せめて一頭だけでも。
フィリスのエレメントに、足下の水が呼応し、水龍が呼び出される。
一、二、三、四、五、そして――六。
(やった!)
初めての六頭目に、逆に混乱してしまった。
五頭がぶつかり合い、その水飛沫を抜けるように六頭目が襲いかかってくる。
残った一頭をぶつけようとしたが、うまく操作できずにかわされてしまい、フィリスの足下に水龍が落ちた。
その衝撃と巨大な水飛沫に、フィリスは呑み込まれ、湖に沈んだ。
じたばたせずにじっとしていると、体が自然を水面に浮かび、仰向けの状態でフィリスは水面から顔を出した。
「ようやく六頭目が出せたわね」
頭のすぐ上で、逆さまになったミュールが覗き込む。
「でも、自分でも予想外で、まったく扱えませんでした」
「最初はそういうものよ。とにかく今は、六頭目を出せたことを喜びなさい」
「……はい」
「今日はここまでにしましょう。ゆっくり休んで」
「……はい」
ミュールが踵を返そうとし、何か言いたげに止まるが、結局はなにも言わず、そのまま水面を歩いていった。
ひとり、風でゆらゆらと揺れる水面に身を委ねながら、一面に広がる青空を見つめる。
空はこんなにも鮮やかなのに、心はどこか暗い。
ミュールが岸に上がり、そのまま校舎の方へと歩いて行く。
「はぁ――」
溜息ひとつ。
瞼を閉じ、しばらく心を穏やかにしようとそのままでいるフィリス。
その直下の水中に、黒い澱のようなものが漂っていることに気づかずに――
※
ソラが待っている丘の手前まで辿り着いたカームは、大樹の下で眠る少年を見つけると、思わず苦笑した。
その寝顔は、本当に子どものようで、あどけなかった。
起こすのもかわいそうだが、起こさないと昼食を一緒にできないと悩みつつ丘を登っていると、そこにふと気配を感じた。
顔を上げ、ソラを見上げると、その傍らに女性が座っていた。
その女性は、ソラを愛しむように見つめ、あやすようにソラの頭を撫でていた。
幻想的な光景。
それもそのはずで、その女性の体全体が黄色のオーラで形作られていたからだ。
実際のその人物を目にしたことはない。
あくまで身体的特徴を聞いたことがあるだけ。
それに加え、黄色のオーラの幻体――幼い頃に聞いたことのある地の国の風習と伝承。
そして、ソラがそこまで強く想う人物は、世界でたったひとりだけ。
「アビゲイル・ワイゼンスキー」
地の国の英雄【破断】の最高位を冠する女性。
その名を呟いたカームに気づいたように、エレメントで構成されたアビーが顔を上げ、微笑んで見せた。
『この子を、よろしくね』
それは、まるで頭に直接響いて聞こえたように感じた。
恐ろしい、というよりも、その声の穏やかさが胸に染み込む。
「はい、任せてください」
はっきりとした声で返事をすると、アビーが微笑んだまま、その姿を少しずつ薄くし、最後には風と共に流れるように消えていった。
「ん……あれ、カームさん? ボク、いつの間にか寝ちゃって」
「いいから、横になってなさい」
そう言って残りを登りきり、ソラの隣に腰を下ろす。
「いい風ね」
顔を上げ、目を閉じる。
「はい……」
二人の間に言葉はいらず、風の吹く音、梢や葉が擦れる音が耳に心地よい。
「夢を……見てたんです」
ぽつりと、ソラが呟く。
「アビーが亡くなって、楓と一緒に埋葬した……そのときの夢を……」
瞼を開き、隣の少年を見据える。
ソラは顔を上げ、どこか遠くを見つめていた。
「寂しい?」
素直に思ったことを口にする。
「……いいえ」
上体を起こしたソラが頭を振り、足下の地面を見据える。
「いつも、傍にいてくれるから。寂しくありません」
それに――
「寂しがってる暇なんてありません」
だって――
「カームさんが、いつも傍にいてくれるから」
そう言って、満面の笑みを浮かべるソラ。
そんな表情を正面から受け、カームは顔を真っ赤にし、
「そ、そう……」
「はい」
「そう……」
噛みしめるように呟くカーム。
と、ソラのお腹がぐぅ、と鳴り、二人は笑い合った。
「お昼にしましょうか」
「はい」
手に持っていた昼食を地面に置き、蓋を開く。
「今日はおにぎりにしてみたの。それぞれ具が違うらしいわ。どれか選んで。ちなみに、中身は食べてからのお楽しみよ。『うめぼしには気を付けよ』って言われたけど、まぁ、大丈夫よね」
「梅干しかぁ~。あれ、すっぱいから苦手なんですよね」
「あら、そうなの。じゃあ、これから行きましょうか」
「ちょっと待ってください、カームさん! 何で手に取ろうとしたのを止めて、違うのを取るんですか?!」
「気の迷いというやつよ。決して、ソラにうめぼしというやつを食べさせて見たいわけじゃないから、安心して」
「安心できませんよ!」
「私を信用できないの?」
「それとこれとは話が別です!」
「あっ、こらっ、逃げないの!」
「うめぼしだけは、いやだ――――――っ!」
そうして、なんだかんだしているうちにお昼休みが終わり、またいつもの日常が始まるのだった。




