第四話 大地狂騒(4)
その日はとても穏やかで静かだった。
日差しも心地よく、開けっ放しの窓からの風も心地よい。
横になれば気持ちよく眠れそうで、とてもゆっくりとした時間が流れていた。
その平穏な時間のなかで、ドアを開けっ放しにした寝室に風が通る。
「アビー」
ソラが寝室に入ると、アビーが横になっていた。
薄手のタオルケットを体にかけ、アビーの足代わりとなっていた二本の杖は、寝室の端に置かれている。
その杖は役割を終えたとばかりに、静かにアビーを見守っているように見えた。
アビーは目を瞑り眠っていたが、まるで息をしていないような静けさだった。
「アビー」
その傍らに座り込み、肩をそっと揺する。
「……ソ、ラ」
ゆっくりと瞼を開いたアビーだったが、その目はほとんど開かれていなかった。
細い切れ目の向こうに見える瞳もまた、ソラに焦点が合っておらず、どこか虚ろに見えた。
「アビー、そろそろお昼の時間だよ」
「……そう」
短く、小さな声音。
声を出すことすらひと苦労で、ソラの言葉に対する反応も遅い。
あの『でーと』から数日後、アビーは体調を崩し、床に伏せた。
発熱などといった症状はまったくない。
一言で言えば、衰弱していたのだ。
日の重ねるごとに体を起こすことができなくなり、物を持つことすらできず、一日のほとんどが眠っているという状態となった。
呼びかけてもほとんど応じず、たまに瞼を開く。
それでも、ソラを認識しているようには見えなかった。
それはまるで老衰のようで、まだ三十代のアビーには、ありえないことだった。
楓は「とにかく傍にいてあげな」とだけ言ってくれた。
言われなくても、アビーの傍にいたかった。
少しでも目を離せば、アビーが逝ってしまいそうで、怖かった。
もはや料理を咀嚼する力もないため、野菜や肉を煮込んだスープだけを飲ませている。
スプーン一杯を飲ませるにも時間がかかった。
だが、それもソラには苦痛ではない。
むしろ、恩返しとばかりに、ソラは付きっきりで身の回りの世話をした。
今も、スープを煮込んでいる最中で、その間にアビーを起こしに来たのだ。
今日のアビーは調子がいい。
ソラの呼びかけにも、応じてくれた。
「……かぜ」
「え?」
「……きもち……いぃ」
顔を上げ、少し高い位置にある窓を見上げる。
今日は天気が良く、気温もほどよいため、家中のドアや窓を開けていたのだ。
「そうだね」
ソラは微笑んで見せた。
それが見えていたのか、アビーもまた微笑む――ほんのわずかだが、そうソラには見えた。
「……ソラ」
ブランケットが動く。
ソラはブランケットを下ろし、微かに動こうとしている右手を掴んだ。
「ボクは、ここにいるよ」
その手を自分の頬に触れさせる。
「アビー」
「……ソ……ラ」
アビーの手は温かい。それなのに、それなのに――
「……なか……ない、で……」
「え?」
言われて初めて、自分が泣いているのだと気づいた。
ぼろぼろと静かに零れる涙が、頬に触れさせたアビーの手を濡らしていたのだ。
アビーの骨張った親指がゆっくりとソラの目の下を撫で、涙を拭っていく。
「わら……って……」
「……アビー」
「……ね」
ほら、とでも言うように、アビーが微笑む。
頬に添えさせていたその手に力を込め、アビーの手を握りしめる。
「アビー」
言葉にならず、ただアビーの名前を呼び続けることしかできない。
「だいじょう……ぶ……わたしは……ずっと……ソラの……こころのなかに……いるから……ずっと……みまもって……るから……だから……笑って……」
「うん……わかった……」
一度ぎゅっと目を瞑り、そして――ソラは笑って見せた。
だけど、それは悲しみで涙が溢れてぐちゃぐちゃになった顔で無理やり笑顔を作った、そんな不器用な、でも精一杯にアビーを送るための、笑顔だった。
「……いい……におい……」
アビーが目を閉じ、すーっと鼻で息をする。
ソラは、アビーの手をそっと下ろすと、何度も目をこすって涙を拭い、
「今日のスープは、楓も手伝ってくれたから、具だくさんなんだ。だから、きっと色んな味が染み出てて美味しいよ。今、よそってくるね」
ソラは立ち上がり、寝室を出た。
「いい……かぜ……」
静かになった寝室で、アビーがゆっくりと瞼を閉じる。
「……あとは……おねがい、ね」
まるで独り言のような小さな呟きに、
「ああ……任せな」
窓越しに、返事がした。
それが聞こえていたのか、アビーは安心したように微笑み、そして――
「アビー。持ってきたよ」
こぼれないように慎重に皿を運んできたソラが、ハッと気づいたような表情をし、それからそっと皿を枕元に置き、再びアビーの手を掴んだ。
その手は、ほんのわずかだが冷たくなっていて、
「アビー」
その手を胸元へと寄せ、それから顔を伏せ、アビーの胸元へと埋めた。
アビーの匂い。
だけど、そこからいつも感じていた鼓動は、もう感じられない。
その事実に、ソラは泣きそうになり――ぐっと堪えた。
アビーが、笑っていたから。
最期の瞬間を、アビーは笑顔で迎えた。
いつも優しかったアビーの、いつもと変わらない、穏やかな笑み。
約束した。
アビーとの、最期の約束。
「アビー」
体を起こし、正面からちゃんとアビーと向き合い、
「今までありがとう……おやすみ」
そう言って、ソラはとびっきりの笑顔を贈った。
ぼろぼろと、涙を流しながら――それでも決して、笑顔を崩さぬように。
その寝室の壁の向こう、外壁に背中を預けるようにして、楓が三角座りをして、両膝の間に顔を埋めていた。
そして、かつての戦友であり、親友でもある数少ない友の死に、涙していた。
※
傍から見て、それは異様とも言える光景だった。
相対する二人――ソラとクリス。
そして、その二人から発せられるオーラによって形を成すアビーとベヒモス。
お互いに地使いとして黄のオーラを発していたが、ソラから発せられるオーラから成るアビーは光のように輝いている一方で、クリスから発せられるオーラから成るベヒモスは闇のように暗かった。
見る者が見れば、闇との大戦を彷彿とさせる二人の対峙。
「アビー」
驚きと嬉しさと――色んな感情が一度に表面化して、何と言っていいのか分からないソラに、
『ソラ……私も言いたいことはあるけど、今は目の前に集中しましょう』
オーラによって形作られるアビーが微笑む。
「分かった。アビー、力を貸して」
『ええ』
その返事を胸に、ソラはクリスに向き合った。
クリス自身に意識はなく、その肉体はすでにベヒモスによって支配されている。
「アビー、クリスから闇を切り離せる?」
『ベヒモスの本体は、あの裂け目の底に眠っている。だから、あれはまだ不完全な状態なの。だから、あの子のところまで近づければ、どうにかできるわ』
「じゃあ、ボクがアビーの脚になればいいんだね」
『ええ、お願い。その代わり、私がソラの腕になるわ』
ソラとクリスとの間にできた巨大な地割れ。
底は暗く、深い。
今のクリス――いや、クリスの力を得たベヒモスは、アビーと同等の力を手に入れている。
その相手に接近しろとアビーは言う。
普通なら戸惑ってしまうだろうが、ソラは何の迷いもなく了承した。
ソラには、その方法があるから。
『よもや汝が現れるか』
地割れの向こうで、ベヒモスの声が低く響き渡る。
『お互い様ね。あなたが出てきた以上、私も出ないわけにはいかない。身内の不始末は、身内で片づけるものだから』
その言葉に、ソラは内心で「え?」と思った。
だが、今の二人の間に言葉を挟むことなどできず、黙っていることしかできなかった。
『あの時、コレの暴走によって、汝は命拾いした』
『そうね。もしかしたら、あの時の私では、あなたに敵わなかったかもしれない。そのせいで、村の人たち全員があなたによって殺され、クリスの母親であり私の親友でもあったエレンも、あなたに殺された。それも、クリスの目の前で』
『我が植え付けた闇の因子に、コレは耐えきれなかった。それで力を暴走させ、その力で己の母を殺したのだ』
『それは違う。あの子の母親は――エレンは、クリスが暴走した力で自分を巻き込もうとしたのを守るために犠牲になった』
『それが真実だったとしても、それはもはやコレには届かぬ』
『ソラ、私の声は、クリスには届かない。だから、私の知っていること全部、ソラに預けるわ。だから――』
アビーから流れ込むもの――それは、記憶の欠片だった。
『クリスを救ってあげて』
真実を知ったソラが、力強く頷く。
「分かった」
クリスに向けて、構える。
それを感じ取ったのか、ベヒモスもまたクリスの肉体を操作し、応じる。
『【恒河沙】の真の力――その身で思い知るがいい』
クリスを大仰に両腕を広げる。
それと同時に、クリスの背後の大地が砂状となり、そこからワームが五匹現れた。
(でかいっ!)
一匹当たりの大きさが尋常ではない。人ひとりなど簡単に呑み込んでしまう。
一匹出すだけでも【ジオマスター】級なのに、それを五匹。しかも完全に支配下においている。
『来るわよ』
アビーが告げると同時、空に向かって伸びていた五匹のワームが、首をもたげるようにソラを捉え、呑み込まんとばかりに突撃してきた。
真っ正面から突っ込んできた一匹目の突撃を、風のエレメントによって瞬時に背後へ下がり躱す。
そのまま地面に突っ込んだワームによる衝撃と振動に体勢を崩しそうになる。
そこを突くように二匹目、三匹目が左右から襲いかかってきた。
『させない』
ソラよりも早く、アビーが両手を左右に伸ばし、土の壁を盛り上がらせた。
その壁は、迫り来るワームに比べれば簡単に破壊されてしまいそうな薄さだったが、ワームがぶつかった瞬間、崩れたのはワームの方だった。
(凄い!)
分かっていたことだが、極限の状況におけるアビーの強さに、ソラは感嘆した。
アビーの土の壁は、崩せない。
それは、四英雄であるルカの炎、ミュールの水龍、そして楓の刀であろうとも破ることはできなかったのだ。
特に、楓がアビーの土の壁を斬ることができなかった瞬間の表情は、後にも先にも見ることのない、初めての敗北を味わったようなものだったと聞いている。
それから、楓はアビーに対してひと目置くようになった。
その楓ですら敗れなかった壁は、【恒河沙】の力を持ってしても破ることはできなかった。
『今よっ!』
その声をきっかけに、ソラは風のエレメントで局地的な追い風を発生させ、走った。ソラとクリスとの距離が瞬く間に縮んでいく。
『小癪な!』
クリスの手がソラに向けられる。
それに呼応して、残る二匹のワームが頭上から落ちてきた。
月を遮り、影が差す。
精確無比にソラに向かって落ちてくるワームを、しかしソラは紙一重で左、右と躱し、すべてのワームを凌いだ。
避けるための横移動を止め、そこからまたクリスに向かって接近する。
『呑まれよ!』
クリスが両手を地面につけると、前方の大地が砂状となり、津波のように飛び上がり、接近するソラを呑み込もうとする。
「こんなものでっ!」
ソラは右手に緑のオーラを纏わせ、
「止められると思うなぁぁぁ!」
下から上へと腕を振り上げた。
圧倒的な質量と密度を持ってソラを呑み込む砂の津波に、ベヒモスも潰したと確信した。
だが、ソラの風のエレメントの師が東雲楓であること。
そして、その凄まじさを文字どおり目の当たりにすることになった。
目の前の砂の津波が、まっすぐに縦に斬れたのだ。
『なっ!』
そして左右に弾かれるようにして分かたれる砂の津波。
その向こうには、勢いそのままに跳んでいるソラの姿があった。
「クリスーーーッ!」
ソラは両腕を上げることすらできず、クリスとの距離を縮め、そして――
「目を覚ませーーーっ!」
勢いそのままに一切の遠慮も手加減もなく頭突きをかましたのだった。




