第三話 闇の声(5)
眠っていたカームは、悪寒がすると同時に目を覚ました。
跳ね上げるように上体を起こし、肩で息をする。
どうしてこんなに呼吸が乱れているのか分からない。
落ち着かせようとするが、この何ともいえない気配が、体に緊張を強いる。
「カーム?」
ベッドの上から動く気配がすると、寝ぼけ眼のフィリスが覗き込んできた。
「なに? 一体どうしたの?」
「気配がした」
そうカームは呟いた。
半ば無意識に、だけど感じていたのだ。
「気配?」
「これは……」
頭が冷静になっていき、次第に冴えてくる。
そして、この身の毛もよだつ感覚の正体に思い至ったカームは、すぐにベッドから下りた。
「ちょっと、カーム! 一体どうしたの?」
ネグリジェ姿のフィリスが、カームの様子にただ事ではないと感じ取り、すぐにベッドから下りてくる。
窓の外は夜で、いつの間にか眠ってしまっていたのだと、今さらになって気がついた。
服も制服のままで、体は汗臭い。
だが、そんな些末なことなど、いま感じていることに比べれば、意識にすら引っかからない。
部屋を出るカームに、フィリスがついていく。
「どこへ行くつもりなの?」
「……上」
気配が上から感じる。
つまり、下級生のフロアだ。
「カーム、いい加減に説明して!」
小声で、しかし苛立ちを含んだ声で、フィリスが叫ぶ。
肩を掴まれたカームは、肩越しに振り返り、ひと言だけ簡潔に呟いた。
「上の階から、闇の気配がする」
「――ッ! あなた、分かるの?」
「そうらしいわね。何となくだけど、そう感じるのよ」
再び歩き始めると、肩に乗っていたフィリスの手がするりと落ちた。
フィリスは何も言わず、カームの後に続いた。
そうして、二階、三階とのぼり、そして四階に辿り着いた。
「やっぱり……」
予想はしていたが、当たってほしくはなかった。
四階は一年生のフロア。
つまり、午後に話していたことが、現実となってしまったことになる。
ここまで来たら、もう迷わなかった。
自体は一刻を争う。
目が覚めてしまうほどの、闇の気配。
どうして自分がそれを感じ取ることができたのかは分からないが、むしろ僥倖だ。
「フィリス、エラとクリスの部屋は?」
「エラは、たしか一番奥よ」
よりにもよって一番遠い場所とは。
何だか胸騒ぎがするのだ。
闇の気配は、ただそれを感じるだけでなく、そこから感情のようなものが流れ込んでくるのだ。
闇は、悲しみ、怒り、後悔、喪失――などどいった負の感情そのもの。
その感覚が、流れ込んでくるのだ。
そして――
(助けてっ!)
気配に混じって感じていた感情から、最後に明確な声が聞こえた。
一番奥の部屋に辿り着いたカームは、声をかけることもしなければノックもせず、問答無用でドアを破った。
「クリス! エラ!」
夜の闇のなか、その光景はカームを、そして後ろにいたフィリスをも驚愕させた。
月明かりに照らされる二人の影。
だが、それは最悪の光景で――クリスが、エラの首を絞めていたのだ。
後ろで息を呑む声が聞こえる。
だが、それよりも先に、カームは行動に移していた。
部屋の中へ飛び込む。
夕刻前のソラとの特訓ではめっぱなしにしていた黒い手袋が、カームに味方した。
「火よ!」
カームは、燭台の燃え尽きたロウソクへと手を向けた。
そこに残る火のエレメントを呼び寄せ、指と指とを擦り合わせる。
瞬間、部屋をオレンジ色に照らすようにしてカームの左手に炎が燃え上がった。
「ハッ!」
そのまま左手をクリスに向かって振るうと、その左手で燃えていた炎が、クリスに向かって投げ飛ばされた。
迷いのない、素早いカームの動きに、フィリスは理解するよりもただ目を状況を追うことしかできず、まったく反応ができなかった。
だが、クリスはそれに対し、即応するかのように動いた。
エラを掴んでいた手を持ち上げ、その体を盾にするかのように炎へと向けたのだ。
「クッ!」
焦ったのは一瞬。
カームはすぐに黒い手袋をした手を握りしめた。
それに呼応するかのように炎がエラの背中にぶつかる寸前に消失したのだ。
エラの背中には、その残滓である火の粉がぱらぱらと当たるだけで済んだ。
「それなら――!」
力尽くでクリスを確保しようと前に出たカームに対し、クリスがずっと掴んでいたエラをそのまま投げ飛ばしてきたのだ。
「なっ!」
真っ正面から迫ってくるエラの体を、カームは抱きしめるようにして受け止め、そのまま床に倒れ込んだ。
体を横にしてエラを床に寝かせる間にクリスが窓枠に足を乗せ、そして――
「ここは四階――!」
フィリスの驚きの声が途中で止まる。
クリスは、まるで分かっているのか分かっていないのか、それすらも判断できないような意思のない表情で、外へと飛び下りたのだった。
「フィリス、エラをお願い。それから、学長とソラを!」
それだけ言って、カームは立ち上がると同時に開かれた窓へ向かって走った。
「何を――」
するつもり、とフィリスは言いたかったのだろう。
だが、カームはそれよりも先に行動で示した。
「火ノ鳥!」
両手を胸の前に、手のひらを合わせるようにして構え、その間に炎の塊を発生させると、そのまま走る勢いを止めず、窓枠に足をかけ、跳んだ。
そして、両手を頭上に掲げ、炎が火ノ鳥となり、カームは飛んだ。
視線を下に向けると、クリスはどうやって着地したのか分からないが怪我もなく、そのまま校舎から離れるようにして走って行った。
(一体、どこへ……?)
上空から、視線を先へと向ける。
(あれは……)
その先に、まるで大地が口を開けているかのような、裂け目が見えた。
それは、夜のせいか、それとも裂け目の深さのせいか――どこか闇を思わせる暗さを醸し出していた。
少しずつ高度を下げながら、そのあとを追うカーム。
こうやって空中から見ると、改めて規格外だと思い知る。
通常、自然界における大地の裂け目は、巨大で深く、壮大だ。
だが、目の前の裂け目は、局所的で、だからこそ恐ろしいのだ。
そんな限定的な裂け目を生み出せるほどの地のエレメントが使われていたことに、今さらながら鳥肌が立つ。
闇との大戦における最終局面――四英雄と闇の使徒との死闘で、地使い同士の戦いは、大陸を耕したとも言われている。
大地が隆起、あるいは陥没し、そこら中に裂け目が発生し、まともな足場すらなかったと言われるほど。
それが当たり前のようにして死闘を繰り広げる光景が、のちにアビゲイル・ワイゼンスキーに【破断】という最高位を与えたのだ。
そして、それと同等のことを、クリスはやったのだ。
闇によって引き出された力だとしても、その力を潜在的に有していなければ、闇であろうと力を行使することはできない。
もし、そんなクリスが闇の使徒に肉体を奪われてしまったら、自然区どころかイリダータ・アカデミーは潰され、アルコイリスさえも崩壊させられてしまうかもしれない。
そして、最悪の状況――闇との、二度目の大戦が勃発してしまう。
さっきのクリスは普通じゃなかった。
まるで、クリスではない誰かが、クリス自身の意に反してエラの首を絞めているように見えたのだ。
そして、クリスの意思ではないこと、それはつまり、クリスの肉体が闇にすでに奪われてしまっていることになる。
(もう、すでに手遅れだったの?)
気持ちが焦る。
クリスが更地に出ると、そこで立ち止まった。
不審に思いながらも、このまま高度を下げながら近づく。
その直後――真下から迫り来る気配に咄嗟に体を捻った。
そのカームの真横を、先の尖った――まるで槍のように隆起した土が通り過ぎ、火ノ鳥の片翼を奪った。
「――ッ!」
着地にそなえて高度を下げていたのが幸いし、カームは火ノ鳥を消し、そこから落ちるようにして着地した。
「クリス?」
すぐ後ろに着地したカームは、その少女の名前で問いかけた。
「行かないと……」
クリスがゆっくりと振り返る。
「呼んでるんです……」
「え?」
眉を寄せるカームに、クリスが続ける。
「お母さんや……お父さん……村のみんなが……私を……呼んでるんです」
まるで幽霊のように頭を下げるクリス。
「お前も……こっちに来いって……自分だけが生き残って……」
頭をかかえるクリスが、次第に声を大きくする。
「行かないと、私……私が……みんなを、殺した……だから、私も行かないと……みんなの元に――!」
両手で頭を抱え、耐えるように体を震わせるクリス。
「そうすれば、楽になれるって――! これ以上、苦しまずにするって――!」
「クリ、ス……?」
態度が一変するクリスに、カームは警戒をあらわにした。
「声が聞こえるんです」
「……誰の?」
「声が……囁くんです」
「……何て?」
「闇に身を委ねれば、全部忘れられる。だから、あの裂け目まで行けば、私は嫌なことを全部忘れられるんです。記憶も、この力も、私は……いらない!」
「あなた……!」
その言葉に、カームは頭に血がのぼった。
「だから、邪魔しないでください」
「――ッ!」
考えるよりも早く、体が反応した。
しかし、それでも遅かった。
クリスの体から黄のオーラが溢れ出す。
だが、その黄はどこか暗く見え――
(足が動かない!)
まるで張り付いたかのように、カームは地面から足を離すことができなかった。
今日、ソラから学んだばかりだった。
地使いの戦いは、まず大地を支配することから始まる。
クリスから気配を感じた瞬間、カームは自分の足下を守ろうと展開しようとした。
だが、それを簡単に押し退け、まるで赤子の手を捻るかのように支配権を奪われてしまったのだ。
「邪魔するなら……」
クリスが右手をカームへと向ける。
それに呼応し、カームの足下が砂状となり、捕食するかのように足首まで沈んでいく。
「死んでください」
クリスが開いた手を握り潰すかのような勢いで閉じる。
その瞬間――
「――ッ! あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
体の中を通して、足の骨が粉々に砕かれる音と感触が脳へと響いた。
カームの両足が、大地によって潰されたのだった。




