第三話 闇の声(4)
そこは、闇だった。
上も下も分からない。
左も右も分からない。
そもそも、方向という感覚自体が、あやふやなもになって、自分というものさえ曖昧に感じていた。
まるで、自分が闇と解け合い、同化してしまったような、妙な感覚。
――力を求めよ。
また、あの声がした。
目の前――という感覚さえ曖昧だが――に、闇よりも尚、深い闇の靄が現れる。
それが、頭の中で聞こえていた声の主だと、直感で分かった。
(あなたが私に語りかけてきた人なの?)
人であるかどうかさえ分からない。
――然り。汝の力を解放した者なり。
(なんで、どうして私に付きまとうの? 私の力を解放して、どうするつもり?)
――汝らが話していたとおり、その器を我がモノにするため。
確信に近い、だけど憶測で話していたことが、元凶によって現実となる。
全身がゾッとするような感覚に襲われたクリスは、今こうして闇の中にいることの恐ろしさを実感した。
――汝の器は、我が器。万が一のための代替品。
(私が、あなたの……代わり?)
――然り。我と同じ血族であり、その適合性は他の類を見ない。その力は、我やアビゲイル・ワイゼンスキーすらも凌駕する。
(私に、そんな力なんてない!)
――否。汝こそ、我やアビゲイル・ワイゼンスキーですら到達できなかった地使いの極致である【恒河沙】を継ぐ者。
(【恒河沙】……?)
――然り。無数の砂を自在に操る力。汝はその後継者なり。
(でも、私は力を扱えない。そのせいで、多くの人を傷つけた)
――確かに。その力の暴走ゆえに、村は滅び、血脈も絶えた。
(え?)
声の言っていることが、クリスには理解できなかった。
――記憶を失っているのであろう。暴走して覚えていないとはいえ、あれは凄惨であった。だが、あの力こそが、汝の本当の力。思い出させてやろう。
その瞬間、頭の中に手を突っ込まれ、掻き回されるような酷い頭痛がした。
そして視界が暗転し、遠く昔の記憶の中へと落ちていった。
それは、一瞬の光景。
だけどクリスには、その一瞬の光景が、すべてを伝えているだと分かった。
クリスにとっての最初の記憶。
女性と並び立ち、無数の墓石を前にしていた――あの記憶。
だが、その一瞬の光景は、それよりも前のものだった。
墓石が死体に代わり、自分がその死体の中心に立っている――ただそれだけの違い。
だが、その違いが真実を告げていた。
クリスの周りには、まるでそれ自身が意思を持っているかのように砂の塊が触手のように地面から生え、辺りを窺っているようだった。
まるで、生存者がいないか、探っているように――。
周りの死体は、どれも体が歪に曲がり、また押し潰されたかのように変形していた。
人としてありえない形に、生理的な吐き気さえ込み上げてくる。
だけど、そんなことよりも、今のクリスにとって重要なのは、これを誰がやったのか。
そして、それはあまりに一目瞭然だった。
村の唯一の生き残り。
だがそれは、裏を返せば、殺戮者当人であるということ。
つまり、村の人たち全員を殺したのは、クリス本人だったのだ。
(うそ……)
闇の中へと戻ってきた感覚。
だけど、そんなこともうどうでもよかった。
それよりも、突き付けられた真実が、クリスの胸を抉っていた。
――汝の幼い体と心に、【恒河沙】の力が耐えきれず、暴走したのだ。孤児院でも同じことをしたのであろう。それも、心を律することができずにいたがため。
(そんな……私が……)
――記憶を失っているため、実感が持てぬであろう。だが、事実である。汝が力を制御できなかったために、一族全員――両親すらもその手にかけたのだ。
(――っ! 私が、お母さんお父さんを……)
――然り。親殺し。血族殺し。汝は、償いきれぬ罪を犯した。
(あ……ああ……じゃあ、私はどうしたら……)
――我がその力を律して進ぜよう。
(……どうやって?)
衝撃のあまり、頭が回らなくなっていたクリスに、闇が囁く。
その、心の隙を付け込むような甘い囁きに、クリスは耳を傾けてしまっていた。
※
物音に気づいたエラは、ベッドの上でいつの間にか眠ってしまっていたことに気づいた。
体を起こし、隣にいたはずのクリスがいないことに気づいて辺りを見渡すと、彼女はベッドを下り、窓に向かって立っていた。
何をしているのだろうか?
そんな疑問に応えるように、クリスが留め具を外し、両開きのドアを両手で押すようにして開いた。
「クリス?」
彼女が何をしようとしているのか理解できず、エラは声をかけた。
だが、クリスは反応を示さず、開けた窓から吹き込む風を体に受けながら、ただ外を見ていた。
月明かりに、クリスの鮮やかなブロンドが輝く。
夜風でなびくウェーブのかかった髪が、水面の波に反射する月明かりのようで、エラの視線を奪う。
そして、クリスはまるでそうすることに疑問すら持たないような動きで、窓の縁に手を置き、そして足をかけようとしたのだ。
「クリス!」
エラは驚き、声を荒げた。
それでもクリスは反応せず、すぐに二段ベッドから下りたエラは、クリスの手首を掴んだ。
「クリス、何をするつもりなの!」
振り返らせるようにして掴んだ手首を引っ張ったエラは、それによって振り返ったクリスと視線を交わし、絶句した。
対面したクリスは、焦点の合わない視線で、エラを見ていた。
そのクリスからは、まるで生気が感じられず、どこか人形のように感じられた。
「呼んでるの」
「え?」
クリスの口から、彼女の声なのに、彼女のものではないような言葉が発せられる。
「行かなきゃ」
「……どこに?」
「私を呼んでるの。行かなきゃ……行かなきゃ……」
まるで夢現な表情に、同じことばかり呟くクリスに、エラはゾッとした。
「クリス、目を覚まして! また悪夢を見たの?」
クリスの両方の二の腕を掴み、目を覚まさせようと揺さぶる。
「悪夢? ……そう、私は今……夢の中にいるの。早く、醒めないと。私が、私でいられなくなる……」
クリスが踵を返し、再び窓の方へ振り返ろうとする。
それを、エラは必死で止めた。
「駄目、行っちゃ駄目よ、クリス! お願い、正気に戻って!」
懸命に叫び、呼びかける。
だが、クリスはまったくそれに対して反応を示さずにいた。
「邪魔……しないで……」
クリスが振り返ろうとする動きを止め、エラへと顔を向ける。
「クリ、ス……?」
さっきからまったく表情を変えない――いや、表情のないクリスと視線があい、エラは思わず一歩引いてしまった。
「邪魔するなら……」
クリスの右手が持ち上がり、その手がゆっくりとエラへと伸ばされ、
「消えて……」
その言葉と同時に、エラは首を掴まれ、呼吸ができなくなった。
「――ッ!」
掴んでいた二の腕を離し、自分の首を絞めるクリスの手首を掴んで引き剥がそうとするが、まるで固定されているかのようにびくともしなかった。
「私の悪夢から……消えて……!」
クリスの目が見開かれ、本気で消そうとしているのが、首を絞める指に力が加わることから感じられた。
パニックに陥っていたエラは、何も考えることができず、ただ腕を引き剥がそうとすることにしか頭が回らなくなっていた。
だが、それすらも首を絞められていることによる呼吸ができない恐怖と、頭がぼーっとしていく感覚に、視界がぼやけ、思考が停止してしまっていた。
「――リ――ゥ……」
引き剥がそうと掴んでいた手をクリスへと伸ばし、
「――」
その指先がクリスの頬に触れる寸前に、事切れたようにぶらりと垂れ下がった。
エラ自身に体を支える意思が失われ、全体重がクリスが首を閉める手へと集中する。
ぐったりとしたエラを眼前に、クリスが一瞬、動きを止める。
その逡巡の刹那――
「クリス! エラ!」
ドアが壊れる勢いで開かれ、カームが飛び込んできたのだった。




