第三話 闇の声(3)
これは、夢で見た、過去の記憶。
地使いになるための特訓が始まってから、もうすぐ三年。
その日も自主的に朝練をし、アビーが朝の支度を終えて出てくるのを外で待っていた当時九歳のソラは、ログハウスから出てきたアビーがいつもよりどこか違って見えた。
それを口にすると、
「ちょっとおめかしをしてみたのよ。どう?」
そう言ってはにかむアビーは、まるで少女のように無邪気で、ソラは「きれい」ではなく「かわいい」と口にしていた。
服装も、いつもの簡素なワンピースではなく、裾や袖に細やかレースがあしらわれたものを着ていた。
「ソラ、今日は一日、私とデートしましょう」
「でーと?」
首を傾げるソラに、アビーが微笑み、杖をつきながら近づく。
「一緒にお出かけしましょう、って意味よ」
「いいの?」
ソラの言う『いいの?』は、『自分と?』と言う意味ではなく、『特訓は?』はという意味だった。
それを理解していたアビーはくすりと笑うと同時に、思えば特訓漬けの毎日だったと改めて思っていた。
「いいのよ。それに、これもある意味は特訓のひとつ……ううん、私からの最期の授業ってところかな」
「さいご……」
思えば、アビーは自身の死期を悟っている節があった。
まるで、その日を逆算して、あらゆる計画を立てていたかのように。
「行こっか」
「うん!」
杖をついて進むアビーの歩調に合わせて歩くソラ。
四方を頂に雪を冠する山脈に覆われた秘境の地。
ゆるやかな丘をのぼり、色とりどりの草花の中につくられた轍を並んで歩く。
そうやって丘の一番上に辿り着くと、そこでアビーは足を止めた。
「いい風」
アビーが目を閉じ、涼しい風を正面から受ける。
長く美しい金髪が揺れている。
「アビー?」
ソラが声をかけるまで、アビーは一言も口を開かず、ずっと風を受け続けていた。
「ソラ」
目を開け、隣に並び立つソラを見下ろす。
「私たちは自然と共に生きている。あの山をつくったこの大地も、草花を揺らす風も、あの湖の水も、料理やお風呂に欠かせない火も、朝の太陽の光も、夜の新月の闇も――すべてが自然のもので、私たちはそこで共に生きている」
「うん」
「私たちのエレメントは、その自然の力を借りているだけ。長い、長い時間をかけて、人間と自然とが共存し、自然はエレメントという形で人間に自分たちを扱うことができる力を与えてくれた」
「うん」
「だから、それを自分の力だと勘違いしてはいけないの。人の心には二つの面がある。良い人もいれば、悪い人もいる。強い人もいれば、弱い人もいる。謙虚な人もいれば、傲慢な人もいる。慈愛に満ちた人もいれば、どこまでも残酷になれる人もいる。そして力は、それらを極端にしてしまう」
「……」
当時九歳のソラは、まだその部分を理解しきれていなかった。
「ソラ――あなたには、力がある。それを、誰もが羨み、妬み、時にはソラ自身を傷つけるかもしれない。それでも、決して力を自分のため――恨みを晴らすため、自慢するため、相手を傷つけるため、そんな風には使ってはいけない。エレメントは、自然が私たちに与えてくれた、恵みの力なの」
「恵み……」
「そう。エレメントは自然から恵まれた力。だから、その力を得た私たちもまた、誰かに恵みを与えなければならない。だから、力ありし者は、誰かのために恵をもたらす存在なの。与えられた力には、必ず意味がある。それが分かれば、その力――エレメントは必ず応えてくれる。私たち人間とエレメントは、決して一方通行な関係ではない。お互いに分かり合えば、理解し合えば、必ず『声』が聞こえる」
「声……?」
「ええ、そうよ。エレメントの声が聞こえるの。私たち人間も、人間という括りのなかで個性を持ってる。それはエレメントも同じ。だから、耳をすませて。そうれば聞こえる。そして、エレメントの声が聞こえたなら、その名を呼んであげて。そうすれば、エレメントは必ずその人の力になってくれるわ」
「アビーも聞こえたの?」
「ええ。聞こえたわ。私だけじゃない。楓も、ミュールも、ルカも、それに……」
アビーが顔を上げ、遥か遠くの空を見上げる。
その思いを馳せる表情を、幼かったソラには、ただ空を見上げているようにしか見えなかった。
だけど、今なら分かる。
四英雄の五人目。
ソラの産みの親であり空使い――ノア。
アビーはきっと、彼女のことを思い出していたのだ。
「ソラ」
アビーがもう一度、ソラを見下ろす。
その表情はなぜか悲しげだった。
「私は、今までずっと厳しく接してきた。でも、それは――」
「分かってるよ」
ソラはすぐに言葉を遮り、杖を握るソラの手を両手で包むように掴んだ。
「ずっと感じてたよ。アビーの優しさ」
「ソラ……」
アビーが目を見開き、その目尻か、つぅ――とひと筋の涙が流れた。
まるで本人も気づいていないような、それは静かで、そして綺麗な涙だった。
「アビー、泣かないで」
「え?」
指摘されて初めて、アビーは自分が泣いていることに気づいたようだった。
そして、気づいた瞬間、感情が決壊したようにぼろぼろと涙が溢れ出した。
宥めようとするも、どうするこもできず、あわあわするソラに、
「ありがとう、ソラ」
涙を流しながら笑顔を見せるアビーに、ソラも満面の笑みで返した。
アビーが落ち着けるように手を貸しながら座らせ、その隣にソラも腰を下ろした。
「ソラ」
呼ばれ、顔を上げるソラに、
「あなたは、私の自慢の息子よ」
そう言って、アビーがソラの肩に腕を回し、自分へと引き寄せる。
風が吹き、花吹雪が舞う。
それを目で追うように、ソラとアビーが空を仰ぐ。
アビーと見たこの光景は、今でもソラの心に刻まれている。
アビーは見守ってくれている。
こうやって、夢の中で会える。
そして、いつもソラを導いてくれるのだ。
※
「ふぅ~、気持ちよかった。ソラ、空いたぞ……って」
濡れた髪の毛を拭きながらレイが洗面所を出ると、ベッドに飛びこんでそのまま眠ってしまったかのように、制服姿のままでソラが突っ伏していた。
「なんとまぁ、幸せそうな顔して……寝かせておいてやるか」
顔を覗き込んだレイは、思わず笑ってしまった。
十四歳の少年そのままに、あどけない表情で眠りこけていた。




