第二話 目覚める力(8)
ログハウスの裏に作られたベンチに腰かけていた楓は、光源のない夜空に瞬く星々を見上げながら、その横で自分の太股に顔を埋め、ずっと泣き続けているアビーの頭を撫で続けていた。
「うぅ……う……」
「アビーはあいかわらず泣き虫だな」
「だ、だって、私、今日、ずっと、ソラに厳しくして……絶対に、嫌われてる」
言葉の合間合間にしゃくり上げるアビー。
「そんなことないって」
「ほ、本当に?」
まるで懇願するように顔を上げるアビーが、涙を流して洟を啜る。
「まぁ、怖がられているだろうけど」
「うぅ、やっぱり」
楓の言葉に再び顔を埋めるアビー。
「でも、決めたんだろ? ソラにために、あえて厳しくするって」
「うん」
「この調子で、明日も大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫。だって、ソラのためだから」
「嫌われても?」
「うん」
「無視されても?」
「う、うん」
「一緒にお風呂に入ったり、添い寝してくれなくなっても?」
「……うん」
「アビーって呼んでくれなくなっても?」
「う、うぅ」
落ち込むアビーの金髪を梳くように、愛おしげに撫でる。
「すまん」
ぽつりと楓が呟く。
「……気にしないで。私はこの先長くない。だから、ソラに嫌われても、私はあの子を導いてあげたい。そのために、私は残りの人生を捧げる」
「アビー」
どうにもやりきれない表情を浮かべる楓とは対照に、そう呟くアビーは覚悟を決めている者の表情で、まるで達観したかのように穏やかだった。
太股に顔を埋めていたアビーがくるりと体を回し、膝枕をするように仰向けになる。
「綺麗な星空」
「ああ」
「もうずっとここで暮らしてるけど、こんなにも綺麗な星空でさえ、当たり前になると、意識しなくなってしまうものなのね」
「それが平和……日常、なのかもね」
「私たちが……ううん、あの大戦で戦ったみんなで掴みとったもの……」
アビーが宙へと手を伸ばし、星を掴むように握り込む。
闇との大戦で多くの命が失われた。
それは、こうして見える夜空に瞬く星の数をも超えるかもしれない。
その犠牲の上で訪れた、平和。
アビーも楓も、大切なモノを失った。
だから、この平和までをも失うわけにはいかない。
そのためならば、残り少ないこの命を賭す覚悟が、アビーにはある。
「楓、約束して」
「約束?」
「うん。あの子のこと、最後まで見守ってあげて」
「アビー……分かった」
そう言って楓は、宙に伸ばしたアビーの小指に自分の小指を絡めた。
「これは?」
「私の国では、約束を交わすときに、こうやって小指と小指とを絡めるんだ」
「へぇ、いいわね。こういうの」
ふふっ、と微笑むアビー。
「守るよ、絶対に。ソラも、この約束も」
「うん」
そうしてしばらくお互いに無言で夜空を見上げ、
「冷えてきたから、戻ろう」
「そうね」
アビーが体を起こすのを手伝い、杖を持たせる。
ドアを開け、アビーを通す。
寝室に入ると、ソラが背中を向けるようにして眠っていた。
六歳になったソラの背中は小さく、頬や腕、足など剥き出しになった部分に見える擦過傷が、痛々しい。
そして、それを自分がしたことの結果なのだと思うと、胸が締めつけられる。
それを見たアビーが顔を悲しげに歪めるも、その肩に楓が手を置くと、分かってる、と言うように頷いて見せた。
ソラの背中越しに、楓の手を借りて横になったアビーがそっと寄り添う。
「ソラ、大好きよ」
その小さな背中に、そっと語りかける。
「愛してるわ……誰よりも……いつまでも……」
そのアビーの背中を、楓がじっと見つめている。
ソラの背中に語り続けるアビーの背中は、子どものように小さく震えていた。
アビーが目を覚ますと、ソラの背中は消えていた。
「ソラ……?」
その事実に意識が一気に覚醒し、体を起こす。
「楓! ソラが――」
腰を捻って後ろを向くと、楓もまた姿を消していた。
「なんで……どうして……」
嫌な考えが頭を過ぎるも、頭を振って否定する。
だけど――考えてしまう。
昨日の自分は、控えめに言っても厳しすぎた。
ソラはまだ六歳だ。
そんな幼い歳の子に、アビーは大人でも逃げ出しかねないほどの指導を施した。
それはすべてソラのためを思ってのこと。
だが、その思いが本人に伝わるとは限らない。
(もしかして……)
クリスはすぐに杖を掴み取り、ひとりで立ち上がる。
いつもはソラが手を貸してくれていた。
その当たり前のことが失われ、それだけで悲しくなってしまう。
「ソラ! ソラ!」
寝室を出てダイニングキッチンに向かうも、そこも無人だった。
朝食を用意した様子もない。
「いや……」
無意識に言葉が漏れる。
「ソラ……楓……いるんでしょ?」
縋るような、怯えた子どものような弱々しい声音。
「返事をして、ソラ……ソラ……」
圧倒的な静寂。
まだ夜明け前の薄暗い空間に、ただひとり立つことの孤独。
考えないようにしていた。考えたくなかった。
(私は……私は……)
見捨てられたの?
「いやぁっ!」
考えないようにしていたことを頭に思い浮かべてしまった瞬間、アビーはそれを否定するかのように叫び、両手の杖を足代わりに玄関へと向かった。
(ソラ! 楓! 行かないで!)
焦りで思うように前に進めず、それがさらに焦りを募らせる。
(私を見捨てないで!)
昨日のことで、ソラは自分を嫌ってしまったのだ。
だから、出て行ってしまった。
楓だけ起こして、二人だけで、自分を置いて――
外に通じるドアへと向かう。
(ソラ! ソラ! ソラ!)
手が使えないため、体当たりをするようにしてドアを開ける。
「ソラァァァッ!」
夜明け前の大自然を前に、喉が潰れんばかりに叫んだアビーは、
「え……?」
目の前の光景に、呆然としてしまった。
「あと十周!」
「えぇ、あと一周って言ったのにぃ~」
ソラが走っていた。
「口答えしない! 五周追加!」
「楓の鬼ぃ!」
遠くの緩やかな丘の上に楓が立ち、その周りをソラがぐるぐると走っていた。
「最高の褒め言葉だ! ご褒美にもう五周追加してやろう!」
「ん~~~!」
もうこれ以上は喋らないとばかりにソラが口を手で塞ぎながら走る。
目の前の光景に理解が追いつかず、ただ見ていることしかできなかった。
「よ~し、そろそろ夜明けだな。そこまでだ、ソラ」
「はぁ、はぁ、はぁ」
ソラが足を止め、膝に両手をついて、呼吸を整える。
「初日にしては上出来だ」
丘を駆け下りる楓が、ソラへと近づく。
「でも、走ってるだけでいいの?」
「それはどういう意味だ?」
「筋肉を鍛えたりしないの?」
「ソラ――お前はまだ六歳だ。子どもだ。そもそも鍛えるほどの筋肉がない。やるだけ無駄だ。むしろ体を壊しかねん。今のお前に必要なのは、どんなに限界まで体を酷使したとしても息が上がらない肺活量を鍛えることと、子ども特有の体の柔軟性を保つことだ。筋肉を鍛えたいなら最低でもあと十年は待て。そして鍛えるにしても、しなやかな筋肉を身につけろ。ただ硬い筋肉は柔軟性の邪魔になるだけだ。なんの役にも立たん。分かったか!」
「う、うん」
捲し立てるように言う楓に、ソラが圧倒されたように体を仰け反らせる。
「そろそろ戻るぞ。アビーが起きたときにお前がいないと心配する」
「うん、そうだね」
そう言って、二人してログハウスへ戻ろうし――
「あっ」
アビーと目が合った。
「ソラ……楓……」
アビーはいまだに呆然としていた。
「アビー!」
ソラが走る勢いで駆け寄り、玄関と地面との間にある階段の手前で止まる。
「アビー、おはよう」
「……ソラ……あなた、何を…・・」
挨拶を返すこともできず、ソラに問いかける。
「えっとね、本当は秘密の特訓ってことで、内緒にしておきたかったんだけど、楓には見つかっちゃったから、指導してもらってたんだぁ」
ソラが振り返ると、そこにゆっくりとした足取りで追いついてきた楓がいた。
「昨日、アビーに地のエレメントを教えてもらって、気づいたんだ。ボクには体力が足りないんだって」
「え?」
「だから、こうやって毎朝、体を動かして鍛えれば、アビーの特訓にも付いて行けるんじゃないかって思ったんだぁ」
「それ……じゃあ……」
ぽつりと呟くアビーに、「ん?」とソラが首を傾げる。
「私のことが嫌いになって、出て行ったわけじゃないのね」
「えぇ?」
「見捨てられたわけじゃ……ないのね」
「ア、アビー! 泣かないで」
言われて、泣いているのだと気づいた。
杖を掴んでいるために涙を拭うことも、顔を隠すこともできない。
ソラの前では絶対に弱音は吐かず、母親らしくいると決めていた。
だけど、もう駄目だった。
気持ちが溢れ、決壊した涙を止めることなどできず、呼吸が苦しくなるほどの嗚咽が漏れる。
階段をのぼるソラが、一段下のところで止まり、アビーの腹部に抱きついた。
「アビーを見捨てるわけないよ。だって、ボクもアビーのことが大好きだから」
その言葉に、昨日の寝室でのことをが甦る。
そのときの呟きは、自分に言い聞かせるためでもあった。
だけど、届いていた。
ソラは起きていて、聞いていて、そして応えてくれた。
もう、何もいらない。
ソラさえいてくれれば。
「ソラァ!」
「ア、アビー、杖を離しちゃ、うわぁ!」
杖を手放してソラを思い切り抱きしめる。
その勢いにソラが耐えきれず、階段から地面に向かって倒れ込んだ。
ソラに覆い被さるようにして抱きつくアビーに、最初は「アビー、苦しいよぉ」と言っていたソラも、次第に何も言わず、アビーにされるがまま抱きつかれていた。
「ソラ……ごめんね。あんなに厳しくして。もう、あんな思いはさせないから」
「ううん、アビー」
アビーの胸の中でソラが頭を振る。
「昨日と同じでいい。むしろ、同じにして」
「ソラ、でも……」
「アビーは、ボクを思って厳しくしてくれてたんでしょ? だから、ボクはそれに応えたい。少しでも早く、一人前になりたいから……」
「ソラ……」
抱きついていた体を離し、起き上がる。
ソラもまた体を起こし、お互いに向かい合うようにして地面に座った。
「嫌いに、ならない?」
「ならない」
「無視、しない?」
「しないよ」
「一緒に、お風呂に入ってくれる?」
「ボクがいないと、大変だよ」
「添い寝も、してくれる?」
「ボクの方が、ひとりじゃ寂しいよ」
「これからも、アビーって呼んでくれる?」
「アビーはずっと、アビーだよ」
山の稜線から顔を出す太陽の光を背中に浴びるソラが、満面の笑顔を浮かべる。
その笑顔を、アビーは生涯忘れないだろう。
ソラの後ろに立つ楓にも見せたくない。
自分だけのソラの笑顔。
「そうと決まれば飯だ!」
今まで黙っていた楓が、二人の横を通り過ぎ、ログハウスへのぼっていく。
「はい、アビー」
「ありがとう、ソラ」
ソラの手助けで杖を手に立ち上がり、階段をゆっくりとのぼる。
朝食を終えれば、また厳しい特訓を始めることになる。
だけど、昨日は感じていた不安や恐怖はなかった。
だって、ソラは求めてくれているから。
だから、今のアビーにはやる気しかない。
三年だ。
三年でソラを一人前の地使いにしてみせる。
そして、そのときソラは地だけでなく、すべてのエレメントに対して応用できる制御力を身につけているだろう。
(それまでは保ってね、私の体……)
杖を使って歩く度に、日に日に悪くなっていることを実感する。
これだけは、ソラには秘密にしてある。
勿論、墓場まで持っていくつもりだ。
自分に向けてくれている笑顔を、曇らせるわけにはいかない。
絶対に、ソラから笑顔を奪わせはしない。
そう心に誓いながら、アビーはソラと共にログハウスへと戻るのだった。




