第二話 目覚める力(5)
コーデイとミュールに続いてソラとカームが保健室に入ると、ベッドにクリスが、その横にエラが椅子に座っていた。
エラの後ろにあるもう一台の空いたベッドにレイが腰かけている。
「クリス、目が覚めたんだね」
ベッドの上で上体を起こしているクリスが、「うん」と頷く。
だが、その表情は、どこか不安げに見えた。
そして何よりも、ソラたちが保健室に入ってくるなり、エラが椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、切羽詰まった表情で何かを訴えかけようとしていたのだ。
その尋常ならぬ雰囲気に、ミュールやコーデイもすぐに気づき、表情を険しくする。
「が、学長、あの、クリスが、大変なんです!」
エラが自身の胸を鷲掴みするようにおさえながら言う。
「落ち着きなさい、エラ・グリーン」
ミュールがエラの前まで移動し、その肩に手を置く。
ベッドの反対側では、コーデイが丸椅子に座り、目を覚ましたクリスの容体をチェックしている。
ソラとカームは、ベッドの足下側で並んで立っていた。
「落ち着いて、説明してちょうだい」
「は、はい」
「エラ、深呼吸だよ」
そう言って、ソラが自分から深呼吸をしてみせると、エラもそれに習って深呼吸をする。
「落ち着いた?」
「……うん」
深呼吸をさせ、それを相手に尋ね、自身に落ち着いたことを肯定させる。
そうすることで、人は落ち着くことができるのだ。
「クリス……目を覚ましたとき、自分のことが分からなくなっていたんです」
その言葉に、ソラはクリスを見やった。
コーデイの質問に答えているクリスは、どこも変わりないように見える。
「今は、思い出してるんです。だけど、さっきまで、クリスって呼んでも、それが自分のことだって分かっていなかったんです」
「そうなのね」
努めて冷静に、ミュールが頷いて見せる。
ここで、ミュールだけは絶対に態度を変えたり声を上げたりしてはいけない。
それは学長としての矜持と責務があるからだ。
それは、保健医のコーデイも同じで、最初と変わらないペースで、クリスを診ている。
一瞬の動揺すら見せない二人に、ソラは内心ですごいと思った。
ソラは、エレメントの強さならば、誰にも負けない自信がある。
だけど、それでもまだ十四歳で、心の成長に限っていえば、まだまだ子どもだ。
だから、ちょっとしたことでも喜ぶし、楽しめるが、その反面、こう言ったときにすぐに顔に出てしまうのだ。
隣に立つカームも、顔は崩さなかったものの、どことなく表情が険しくなっている。
「学長……クリスは……クリスは大丈夫なんでしょうか」
切実に訊ねるエラに、だからこそミュールも簡単には返せないでいる。
「クリス、今の気分はどう?」
ミュールの問いに、クリスは視線を左右に彷徨わせ、ぽつりと答えた。
「……怖い、です」
たったひと言だけ。
それだけで、クリスの気持ちが如実に伝わってきた。
「自分がクリス・ロックハートだと思い出した瞬間、忘れていたことが信じられなくて、なんで、どうして忘れてしまっていたんだろうって、恐ろしくなって……」
クリスが自分の膝を引き寄せ、三角座りになってブランケットに顔を埋めた。
エラがすぐに体を寄せ、「大丈夫だよ」と言いながら、背中をさする。
「眠っているとき、呼ばれてたんです。真っ暗な闇のなかで、誰かは分からないけど、でも、私はその声を知っていて、その声が私を呼んで、手招きして……」
涙を流し、嗚咽の混じえながらクリスが心の内を吐き出していく。
「私、どうなっちゃうの? あの手を掴んだら、もう戻れなくなるの? そんなの嫌だよ」
「大丈夫だよ、クリス。私が……私たちがついてるから」
「ううん。次に眠ったら、私、もう戻れなくなる。そしたら、私、消えちゃう」
エラにしがみつき、クリスがぼろぼろと涙を流す。
「ミュール」
ソラは、ミュールに呼びかけ、振り返ったその視線と視線とを交わす。
ミュールは言葉を発することなく、ただ頷いて見せた。
「クリス」
そう呼びかけ、ソラは一歩前に出た。
クリスが顔を上げ、エラもまたソラを見やる。
「キミのなかには今、闇がいるんだ」
「……闇?」
クリスが首を傾げる。
その隣で、エラがそれを言っていいのかと驚いたような表情をし、ミュールを見やるも、頷きを返され、黙っていることしかできなかった。
「十五年前の、闇と四大国同盟の間で起きた全面戦争。そのときの闇――【深淵】と呼んでいる存在の残滓が、クリスの心に取り憑いているんだ」
「な、なんで、どうして、そんなものが、私のなかに……」
得体のしれない存在が自分のうちにいることに、クリスは恐怖――というよりも嫌悪感をあらわにしていた。
「【深淵】は、人の心の弱い部分や負の部分に付け込んでくるんだ。そうやってどんどん宿主の心を侵食して、最後にはその宿主の心と体を支配してしまうんだ」
「じゃ、じゃあ……あの悪夢も、声も……」
「おそらく、クリスのなかの闇が、クリスを弱らせようとしているんだと思う」
「何で! 何で何でどうして!」
恐怖が肥大化し、クリスが錯乱しかかる。
「クリス、落ち着いて。ソラの話を最後まで訊いて」
エラが暴れるクリスを抑え、落ち着かせる。
「ソラ、どうにかできるのよね?」
落ち着くだけで精一杯のクリスに代わって、エラが訊ねる。
「できるよ。だって、ボクは一度、その闇に呑まれてしまったから」
「え……?」
クリスが驚き、顔を上げる。
それとは反対に、ソラは声を上げることもなく、淡々と語った。
「一ヶ月前の闘技場での出来事――あの時の火使いの四年生は、闇に心を付け込まれて、力を無理やり引き出されて、暴走したんだ。だけど、その闇は、本来なら存在しないはずなんだ。この世界のどこにも」
「だったら、どうして……」
クリスの疑問に、ソラは自分の胸に手を当てて見せた。
「闇は――【深淵】は、ずっとボクのなかにいたから」
「ソラの……なかに?」
「うん。その【深淵】が、一ヶ月前に目覚めてしまって、ボク自身、目の前でカームさんを傷つけられて、【深淵】に呑まれてしまったんだ」
「……今は、もう?」
「うん。【深淵】は変わらずボクの中にいる。だけど、今はまた眠っているんだ」
「どうやって、眠らせたの?」
クリスが、心なしか体を前のめりにする。
「カームさんが、助けてくれたんだ。【深淵】は、光に弱くて、だから、カームさんの炎の光で、【深淵】を封じてくれたんだ」
「じゃあ、私も……」
クリスの表情が期待に満ちる。
「うん。でも、あの時は必死で、それにカームさんも特殊な状態だったんだ。だから、あの時と同じ再現ができるかっていったら、難しいと思う」
「そう、なんですか?」
見開かれた目が、ソラからカームへと移る。
「ええ。あの時の私は、私自身が、炎となっていた。つまり、エレメントと完全にひとつになった状態だったの。だけど、そんなこと、二度もできるとは思えない。あの時は、私も瀕死の状態で、ただただソラを助けたい一心で、理性なんて働いてなかった。正直、あの時のことは、よく覚えていないのよ」
申し訳なさそうに話すカームに、それでもクリスは顔を伏せ、誰をも責めることなく、ただどうすることもできないことが分かり、耐えるように泣いていた。
「クリス、絶対に助ける。その方法を、ボクやカームさん、ミュールやコーデイ先生が見つけ出す。だから、その間、クリスには気を確かに持っていてほしいんだ」
「どういう、こと?」
顔を伏せながら、クリスが訊ねる。
「さっきも言った通り、闇は心を支配しようとするんだ。クリスは、悪夢を見て、声が聞こえて、すごく不安だった。その正体が分からず、どうしていいのか分からず、ずっと不安だった。その不安に、闇は付け込んでくる。だから、その正体が闇であることを知ったクリスなら、気持ちで抵抗できるはずだよ」
「気持ち、で?」
「うん。絶対に負けないっていう、気持ち。悪夢に負けず、声に刃向かって、絶対に心を渡さないって、強い気持ちを持ち続けること。これが、いまできることなんだ。あとは、独りではいない方がいいかな。独りだと、悪い方へ悪い方へ考えがいっちゃうから、できる限り、誰かの傍に……」
クリスが顔を上げ、エラを見やる。
その不安げな眼差しに、エラはふっと優しい笑みを浮かべ、
「私が、傍にいる。クリスを独りになんてさせない」
「ありがとう、エラ」
互いに抱き合い、泣きじゃくるクリスの背中を、エラが何度も撫でる。
「クリスとエラは、落ち着いたら寮に戻って休みなさい」
口を挟まずにいたミュールが、今後のことを話し始めた。
「この件に対しては、私とコーデイ先生とで、対策を練ります。ソラとカームも、何か思いついたら遠慮なく私かコーデイ先生に話すこと。いいわね?」
「はい」
二人で同時に返事をし、見つめ合う。
絶対に、クリスから闇を解き放ってみせる。
闇の根源である【深淵】は、ソラの中に眠っている。
だとすれば、クリスの中で暗躍する闇は、また別の存在ということになる。
それを突き止めて、絶対にクリスを助けるのだ。
「どうにも気分が暗くなってしまったわね」
カームが全員に聞こえるように言い、レイを見やる。
まさか自分に視線を向けられると思っていなかったのか、レイ自身も驚いていた。
「みんなでお茶でもしましょうか。レイ、先にカフェテラスに行って、席を取っておいてくれるかしら」
「は、はい!」
直立不動でレイが立ち上がる。
「ちなみに、今日だけは私が奢ってあげるから、遠慮せず注文しなさい」
「あ、ありがとうございます」
レイが頭を下げ、そして保健室を出て行く。
「ソラとカーマインは残ってくれるかしら。別件で話があるの」
ベッドをおりたクリスに、エラが寄り添う。
「エラ、クリス。先に行ってて。レイひとりにすると、何でもかんでも注文しそうだから」
「そうね。見張ってなきゃね」
ソラとエラが顔を見合わせ、共通の親友に対して、笑い合う。
「あら、遠慮しなくていいのよ?」
あえてそんな台詞を言うカームは、どこか意地悪な表情を浮かべていた。
そうしてエラとクリスが保健室を出ると、ソラとカームはミュールへと視線を向けた。
「それで、学長。私たちに話とは?」
カームの問いかけに、ミュールは口を開かず、ただソラの前に立った。
「どうしたの? ミュール」
さすがのソラもたじろいでしまう。
「ソラ、私に隠し事をしてない?」
そう言って、まっすぐに、じっとソラを見据えるミュール。
「か、隠し事?」
何のことか、と誤魔化そうとしたソラだったが、
「ソラ……私は、楓やアビーに比べて、あなたの傍にいる時間がすごく短かった。だから、私のことを、信用できないかもしれない。だけど私は、それでもソラの母親でありたいと思っているの。だから――」
「そんなことないよ!」
言葉を遮るように、ソラは声を荒げた。
「ミュールだって、楓やアビーと変わらない、ボクの大好きな人だよ」
「それなら、話してちょうだい。私は、ソラの口から言ってほしいの」
膝を付き、視線を合わせるミュールの慈しむような眼差しに、ソラはついに折れ、白状することにした。
ちらっ、とカームを横目で見やり、そして口を開いた。
「ごめんなさい。実は、腕が動かないんだ」
その言葉に、ミュールは動じず、しかし、カームが息を呑む声が聞こえた。
「まさか、あの時の地割れを止めたとき、なの?」
カームの言葉に、ソラは頷いた。
「見せてみて」
離れた場所で黙っていたコーデイが、さすがに見過ごすわけにはいかないと思ったのか、ソラの隣まで近づき、垂れ下がった腕をそっと掴んで見せた。
「痛みは?」
「動かそうとすると、酷く痛みます」
コーデイは、ソラの両手をそれぞれの手で掴むと、青のオーラをほのかに漂わせた。
水使いは、四大国の中でも医療に長けており、それは、人の体の約三分の二が水で構成されていることを、昔から知っているからだった。
それによって、体に異常が起きた場合、水のエレメントを使って、体内の水を精査し、異変のある箇所を調べることできるのだ。
水の国には専門の学校もあり、コーデイはその学校の卒業生でもある。
四大戦争時代も、班を組んで出動する際の医療担当として従事していた。
その時に組んでいた班のひとりが、ミュールだったのだ。
その縁で、ミュールが学長になった際、保健医にコーデイを直にお願いしに行ったのだった。
ミュールが認めるコーデイの実力は折紙付きで、ソラの腕に力が入らない原因が、クリスのエレメントとぶつかりあった際に、反発して返ってきた過剰なエレメントに、腕の筋肉が断裂されてしまったことだと診断を下した。
「とにかく安静にして、絶対に腕を使用しないこと。そうすれば、一週間ほどで動かせるようになるわ。ただし、無理して動かせば、その分長引くから、そのつもりで」
「はい」
素直に返事をするソラに、ミュールが呆れるように溜息をつく。
「まったく、怪我をしたのなら素直にそう言いなさい」
「だ、だって――」
「だってじゃないわよ!」
そう言ったのは、ミュールではなく、カームだった。
「カ、カームさん?!」
驚くソラに、構わずカームが詰め寄る。
「キミ、そうやって隠して、いざという時に腕が使えないことに気づいたら、周りに迷惑をかけるのよ。分かってる?」
「ご、ごめんなさい」
「だいたい――!」
しゅんと項垂れるソラに、それでもカームはさらに噛みつかん勢いで言おうとするも、
「私にくらい……言ってくれてもいいじゃない……」
「……カームさん」
声を萎ませるカームに、ソラはひたすら申し訳なく思った。
「だって、私とキミは、パートナーなのよ。心配くらい、させなさいよね」
柔く笑むカームに、ソラがまた俯き、「ごめんなさい」と呟いた。
「次からは、絶対に言います。カームさんにも、ミュールにも……」
「ソラは、まだ子どもで、でも男の子だから、見栄を張りたかったのよ」
ミュールが口元に笑みを浮かべながら言い、カームへと視線を向けると、
「カーマイン――あなたはソラにとって、つまりそういう存在なのよ」
「――っ!」
ミュールの言葉に、カームが顔を赤くする。
ソラもまた、ミュールの言っていることの意味に気づき、体が熱くなっているのを感じた。
お互いに顔を向け合いながらも、俯き、視線を合わせられずにいると、「あらあら、二人とも、まだまだ子どもね」とミュールが小さく笑った。
「と、とにかく」
カームはわざとらしく咳払いをしてから
「約束して、ソラ。次からは、絶対に隠し事はしないって」
「はい。もう、二度とカームさんには、隠し事はしません」
「ありがとう、ソラ。ごめんね、無理に言わせたみたいで。でも、やっぱり不安なのよ。それに、ちょっと寂しかったから」
「ボクの方こそ、ごめんなさいです。変な意地張って、きっと、カームさんにいいところを見せたくて、弱いところを見せたくなかったんだと思います」
「確かに……私は、どこかでキミのことを完璧な人間だと思っていたのかもしれないわね。でも、キミだってまだ十四歳なのよね。私よりも年下で……」
「ボクも、カームさんは、年上で、すごく頼りがいがあって、かっこよくて、初めて見たとき、こんな完璧な人が存在するんだって、見惚れてしまってました」
「あの時の私、思いっきりキミのことを見下してたわ」
「そうだったんですね」
そう言って、お互いに笑い合う。
その光景を、ミュールが微笑ましく見つめていた。




