第一話 悪夢の始まり(7)
保健室に入ると、コーデイに事情を説明し、まずはエラの傷の手当てをすることになった。
部屋の奥はカーテンで仕切られるようになっているため、その向こうでコーデイにエラが手当を受けている。
クリスはベッドで横になるように言われていたが、横になれば眠ってしまうと言って拒否し、ベッドに座る形となっていた。
その反対側で同じようにベッドに座るソラとレイ。
何を話していいのかも分からず、沈黙が流れる。
レイも、クリスを責めようとは思っておらず、じっとエラの手当が終わるのを待っていた。
ここにいる誰ひとりとして、クリスを責めたりはしない。殴られた本人でさえ――いや、本人こそがクリスの状況を誰よりも理解している。
カーテンの開く音に、顔を上げる。
カーテンを開けたコーデイの横に立つ、エラ。
その頬は真っ赤に晴れ上がり、氷を包んだ布を押し当てていた。
唇の口角も切れており、口を開いたときに傷が開かないようテープが貼られている。
「傷は、酷いのか?」
レイが駆け寄り、状況を訪ねる。
「だいひょーふ」
口を少しだけ開けて呟くエラ。
きっと、『大丈夫』と言ったのだろう。
「心配ないわよ、キミ」
コーデイがレイの肩を叩く。
「頬は腫れてるけど、二、三日で戻るはずよ。口の中が切れてるから、喋ったり、食事をするのが少し辛いかもしれないけど、それも一週間ほどで塞がるわ」
「そっか……お前のつっこみが一週間もないのは、辛いな」
「おあじめにああせてあえようかしら?」
睨むつけるエラに、レイが何を言っているのか分からないと言った風にソラに視線を向けてくる。
「えっとね、きっと『同じ目に遭わせてあげようかしら?』って言ってるんだと思う」
その言葉に、エラがうんうんと頷き、レイが「なんで分かるんだよ」と呆れている。
「あ、あのっ!」
そこに、今まで黙っていたクリスが声を上げる。
黙るレイに、エラがクリスへと体を向ける。
「ごめんなさい、エラ……」
クリスは頭を下げ、
「本当に……ごめんなさい」
頭を下げ続けるクリス。
その後頭部に、エラがそっと手を添える。
「きいしてないわよ」
「クリス……エラは気にしてないって言ってるよ」
「でも……」
クリスはそれでも顔を上げようとはしなかった。
まるで自分を恥じているようで、顔向けができないといった様子だ。
ソラには、クリスとエラの気持ちが分かる。
エラは、クリスがずっと悪夢で辛い思いをしていることを知っている。
だから、自身が受けた傷さえ、仕方がないと思っている。
こんな傷なんかよりも、クリスはもっと苦しんでいるだろうと思っているから。
クリスは、後悔している。
ずっと悪夢のことを自身の内に抱え、誰にも打ち明けずにいた。
保健室に行こうというエラの忠告も受けず、そのせいでこんな事態を招いてしまった。
だから、何としてでも解決しなければならない、と。
「クリス、ちょうどいい機会だから、コーデイ先生に相談してみようよ」
ソラは、クリスの丸くなった背中に手を添え、そっと促した。
「エラも、その方がいいと思うよね?」
確認すると、エラが大きく一度だけ頷いて見せた。
「一体、何の話かしら?」
自分の名前が出され、コーデイが声を上げる。
「ほら、クリス」
ゆっくりと顔を上げるように促すソラ。
それでも無理やりにはせず、あくまで自分の意思で顔を上げさせた。
クリスが不安げに、エラを見やる。
エラがうんと頷いて見せると、クリスはまるで対峙するかのような、挑むような顔つきでコーデイを見上げる。
「せ、先生……実は……」
そして、クリスは訥々と語り始めた。
「毎日、同じ悪夢を、ねぇ」
顎に手を当て、脚を組んだ状態で、コーデイが唸る。
そのまま数秒、視線の焦点が外れるのを見たソラは、コーデイが深く思考していることを感じ、黙っていても声をかけずに待っていた。
あのレイでさえも、それを感じ取り、茶々を入れずに黙り込んでいる。
こういう場面で空気を読めるから、レイは憎めない。
クリスはエラに付き添われるようにベッドに隣り合って座り、その向かい側にコーデイが椅子に座っている。
ソラとレイは、ベッドを挟んだ向かい側で立ち、エラとクリスの背中を見守っていた。
「もう一度、確認をさせてちょうだい」
組んでいた脚を戻し、少し前のめりになるコーデイ。
「見る悪夢は、いつも同じ?」
「はい。一ヶ月前から見るようになった夢は……」
「毎日、欠かさず?」
「はい」
「それは、夜のベッドで寝たときだけじゃなくて、授業中に転た寝してしまったときでも?」
「……はい」
授業中に、という部分に罪悪感を抱いているのか、クリスの返事が遅れる。
「一ヶ月前からと言っていたけど、正確は日付は覚えてる?」
「……【ガーネット】本戦での暴走事件のあとだったと思います」
それを訊いたコーデイの表情がかすかに動くのを、ソラは見逃さなかった。
「他になにか、気になったことはない?」
「……いえ」
「分かったわ。ありがとう」
クリスが再び俯き、それを心配したエラが、気を紛らわそうと声をかける。
エラとクリスの視線が逸れた瞬間、コーデイがソラを見たような気がした。
だが、それは勘違いだったかもしれないと思わせるほどに自然で、気が付いたときにはコーデイは考え込むように目を伏せていた。
「少し調べてみるわ」
そう言って、コーデイが顔を上げる。
「クリス、午後の実技は大丈夫そう?」
「はい、実技は体を動かしているので、座学よりはマシです」
「じゃあ、午後は授業に出て、終わったらまた保健室まで来てちょうだい」
「はい、よろしくおねがいします」
クリスの返事は弱々しい。
元気がない。
眠い。
そう言った身体的な弱さというよりも、まるで精気がないのだ。
悪夢を見る度に、まるで命そのものを奪われているような感じ。
このまま悪夢を見続ければ、眠ったまま目を覚まさず、空っぽの器となってしまいそうで、ソラは怖かった。
なぜならそれは、一ヶ月前の円形闘技場でソラが感じた、あの【深淵】に支配されていたときのそれと同じだったからだった。
「クリス、きっと先生がなんとかしてくれるわ。それまでの辛抱よ」
昼食時。
クリスの事情を重く見たエラが、保健室を出たあとも付きっきりで彼女を励ましていた。
「……うん」
クリスは、心ここにあらずといった様子で、それでも拒絶することはなかった。
というよりも、ソラから見て、クリスの目に、エラが映っていないように見えた。
人の多いところは避け、食堂ではなく外の東屋まで移動することにした。
昼食の買い出しは、ソラが引き受けた。
その間、レイとエラがクリスに付き添っている。外へと出る三人の背中を見送るソラ。
この、どうしようもない状況。
眠たい――眠りたい。
だけど、眠れない――眠りたくない。
それがどれほどの負担となるか、ソラには想像もできない。
睡眠は、人が生きる上で必要なことだ。
昔、楓との修行で、風のエレメントを使っての抜刀術の速さを競う際、「絶対に勝てると確信するまで抜くな」と言われたことがあった。
当然、当時の(今もだが)ソラが楓に抜刀術の速度で勝てるはずもなく、その無理難題に丸五日間、刀の柄を握り、抜刀する構えのまま過ごしたのだ。
食事、睡眠、排泄すらも思考から斬り捨て、ただ目の前の相手を斬る。
その確信が得られるまで、ソラは思考をフル回転させ、あらゆる状況を想定、空想上で何回、何十回、何百回と楓に斬りかかり、すべて返り討ちにあったのだ。
太陽が昇り、燦々と光を降り注ぎ、時には雨を降らせ、夜には冷え切った空気がソラを心身共に疲弊させ、追い詰めていった。
それでも、楓が構えを解かない限り、ソラもまた構え続けていた。
それは一種の我慢比べであり、相当な負荷が心身共にかかっていた。
構えを解けば楽になるのに、解いたが最期、楓に斬られ、命が終わる。
この修行はつまり、ソラが楓を斬るための修行ではなく、楓が構えを解くまでの間、何が何でも耐え続けるという、苦行以外の何ものでもない、ただただ忍ぶだけの修行だったのだ。
だが、ソラはそれを理解しても尚、楓を斬ろうとする意志を捨てなかった。
そして、六日目の朝。
背中から昇る太陽が一瞬――本当に一瞬、雲間から差し込んだ朝日が楓の顔に当たったのだ。
それと同時、ソラは思考すら勝る本能と反射によって、抜刀していたのだった。
だが、それは楓も同じで、例え太陽の光で目をやられようとも、すべての風が楓に味方しており、迎え撃つ形で抜刀した楓の刀は、直前に体の前にねじ込ませたソラの刀にぶつかり、それごと空高くへと吹き飛ばしたのだった。
並の刀ならば簡単にソラごと真っ二つにしていただろう。
だが、ソラが使っていた刀は、楓からの授かり物で、大戦時には楓と共にあったものだ。
その確信が、ソラの体を繋ぎ止めていた。
それでも、ぶっとばされたソラはそのまま湖へと落ち、同時に意識を失ってしまった。
気が付けば楓にログハウス内で介抱されており、「よくやった」と褒められた。
そして、堪え忍んだ五日間と同じ日数だけ、楓にこれでもかと言うほどに甘やかされたのだった。
しかし、それはソラ自身の望んでいたことだ。
どれだけ辛くても、それが自分のためになるのならば、自分のためになることをしてくれているのだという確信があったから、受け入れられた。
だが、クリスは違う。
今、クリスの身に起きていることは、彼女自身は望んでいないこと。
それは恐怖以外のなにものでもない。
どうすれば、その恐怖に立ち向かうことができるのだろうか。
それもこれも、原因が分からなければ、解決策も思いつかない。
とにかく今は、コーデイの心当たりが当たりであることを祈るしかない。




