第一話 悪夢の始まり(6)
食堂での朝食を終えたソラたちは、午前の座学を受けるため、教室に向かっていた。
隣を歩くレイとエラは、相変わらず仲がいいのか悪いのか、言い争っているような口調なのだが、気が合うように会話が絶えないのだ。
そうして教室のドアをレイが開け、中に入ろうとしたところで、向こう側の廊下からこっちに向かって歩く少女の姿が見えた。
肩と同じくらいの長さで、軽くウェーブのかかったブロンドの髪が揺れている。
そう揺れているのだ。
頭を左へ右へとふらふらさせながら、千鳥足にも近い足取りで歩く少女は、一見して普通ではなかった。
近づくにつれ、揺れは酷くなり、ついにはバランスを崩してた。
「危ないっ!」
少女を注視していたからすぐに対応できたソラが、倒れる少女を抱きかかえる。
だが、ソラ自身も体格が小さいために受け止めきれず、背中から廊下に倒れてしまった。
「大丈夫か、ソラ!」
遅れて気づいたレイとエラが駆け寄ってくる。
「この子が急に倒れそうになったから」
打ちつけた背中の痛みを感じながら、少女の後ろから顔を出したソラは状況を説明した。
ソラを下敷きにする形でうつ伏せに眠る少女を、レイがそっと引き離す。
「クリス……クリスじゃない!」
レイが引き離した少女を倒れないよう支えたエラが声を上げる。
「知り合いか?」
訝しげな表情でエラを見やるレイ。
「はぁ? クラスメイトでしょ? 知らないの?」
「いや……正直、記憶にない」
そう言って、今一度少女を見やるレイ。
はぁ、と溜息を吐くエラだったが、今回はソラもレイに同意だった。
クラスメイトの名前と顔は、だいたい覚えているが、目の前の少女はまだ覚えていなかった。
「この子、私と寮で同室なのよ」
「だったら、お前が知ってるのは当然だろ」
「そんなことないわよ……って言いたいけど、確かに、この子、影が薄いのよね」
「何気にお前が一番酷いな」
ぼそっと呟くレイだったが、確かにソラも思った。
そう言われてこれまでの二ヶ月を振り返ると、確かに彼女のことは知っていた。
だが、名前を知らないため、記憶として印象に残らなかったのだ。
会話するどころか、顔を合わせたこともない。
「ん……」
気を失ったかのように目を瞑っていたクリスが、目を覚ます。
「クリス、大丈夫?」
どこか夢現な目をするクリスに、エラが声をかける。
「エラ……?」
「そうよ」
「あれ……私……なんで……」
どうやら、自分に起きた状況が理解できていないらしい。
「クリス――あなた、廊下で急に倒れたのよ」
「そう……なの?」
「ええ、ソラが直前で受け止めてくれたから大事には至らなかったけど、そのまま倒れてたら、頭を打ってたかもしれないのよ」
呆れたように溜息を吐くエラに、クリスが何度も頭を下げる。
「ごめんなさい」
「それを言うなら、ソラに。それと、助けてもらったんだから、そこは『ありがとう』でしょ?」
クラスメイトであるはずなのに、随分とエラが年上のお姉さんに見える。
「あ、あの……ありがとう、ソラ。庇ってくれて……」
そう言って、クリスの向きをかえ、正面からソラに向かって頭を下げた。
「無事でよかった。あまり、無理はしないでね」
「うん」
「教室まで、手を貸すよ」
ソラは、クリスの傍らにしゃがみ込むと、腕を差し出した。
「そんな、私はここで少し休んで行くから、先に……」
「こんな状態のクリスを見過ごせないよ。だったら、ボクもここで休もうかな」
「あの、えっと……」
戸惑うクリスが、エラを見上げる。
「言葉に甘えた方がいいかもね。こういうときのソラが強情だから」
その言葉に背中を押されたのか、クリスは戸惑いながらもソラの腕に掴まり、ゆっくりと立ち上がり、一緒に教室に向かうのだった。
急に倒れたクリスを心配して、ソラたちは席を同じにした。
左から、ソラ、クリス、エラ、レイ、となっている。
ちなみに、クリスの隣にレイを置かなかったのは、エラの判断によるものだった。
「クリス、やっぱり保健室に行った方がいいんじゃ……」
エラが心配げにクリスの顔を覗き込む。
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
クリスが笑って返す。
だが、ソラにだって分かる。
クリスが笑顔をつくっていることくらい。
それでも、クリス自身がこう言っている以上、口出しはできない。
やおら予鈴が鳴り、一学年の教養担当であるルイス・バンフィールドが教壇に上がる。
ルイスは、ソラたち一年と同じで、今年からイリダータの教員となった新米教師だ。
かなり真面目で、内容も堅い。
退屈で眠ってしまう生徒もいるが、ソラにとっては、この世界のなんたるかを教えてくれる先生であり、尊敬もしている。
ソラは生まれてからイリダータ・アカデミーに入学するまでの十四年間、世俗から隔絶された環境で育てられた。
育ててくれたのは、三人の女性。
その誰もが産みの親ではないが、育ての母親として、ソラに惜しみない愛情と、そしてエレメントの扱い方を享受してくれた。
ソラは類い希なるエレメンタラーとして、齢十四で、水、風、地――三つのエレメントをマスターしていた。
だが、その反面、それだけに徹底していたため、この世界に関する知識がまったくといっていいほどないのだ。
だから、他の生徒にとっては聞いたことのあるような話題でも、それらすべてがソラにとっては初耳で、新鮮なことで、そしてそういった知識への興味が貪欲なソラは、ルイスの座学が楽しみで堪らなかった。
そんな熱心な生徒に触発されてか、ルイスの方も、懇切丁寧にソラへの教育を惜しまなかった。
時には白熱し、二人だけで話し合うこともある。
ちなみに、その時も授業中で、後々、学長に呼び出されて注意されたとの噂もある。
「みなさん、おはようございます」
ルイスの挨拶に、各々が返す。
そして、午前の座学が始まった。
※
眠気がクリスを襲う。
だが、クリスは眠ることを頑なに拒んだ。
なぜなら、眠ればあの、いつもの悪夢を必ずといっていいほど見てしまうからだ。
この一ヶ月、ずっと見続けてきた。
いや、それは見るというよりも、見せつけられているような意図が感じられた。
だが、そんなことができるはずもなく、それ故に原因が分からず、それがさらにクリスを苦しめていた。
眠りたい。
眠って楽になりたい。
だけど、眠れば絶対に悪夢を見る。
大勢の人たちを自分の手で殺害した夢。
それだけでも衝撃的なのに、その自分がまるで楽しんでいるかのように愉悦に表情を歪め、笑っているのだ。
そんなものに耐えられるはずもなく、クリスは日に日に心身共に蝕まれていった。
保健室に行ったところで、何の解決にもならないのは目に見えている。
休むように言われ、そこで眠り、またあの悪夢を見る。
そこで少し眠れたとしても、眠気は消えず、むしろクリスに眠れと訴えかけてくる。
眠るまいと気を張るも、その意識すらも狩りとられ、次第に頭が船を漕ぎ、その時の自分のいる場所や状況に関わらず、唐突に落ちてしまうのだ。
食事中でも、シャワーを浴びているときでも、そして廊下を歩いているときでも。
もし、誰もいない廊下で倒れていたら、体を廊下に叩きつけても気づかず、眠り続けていただろう。
そして、悪夢で目覚めるのだ。
さっきはソラに抱えられ、エラに呼びかけられたから、なんとか目を覚ますことができた。
だけど、眠気は覚めない。
むしろ、それがきっかけになって、ずるずると引きずり込まれていく。
頭が揺れ、意識が朦朧とし、自分で自分をコントロールできなくなり――
――我を求めよ。
暗闇のなか、眼前から伸びてくる闇そのものと化した手がクリスの顔を掴もうとし、
「いやっ!」
払いのけた手に、激痛が走った。
その痛みに意識が戻り、現実が目の前に現れる。
「エラ!」
頬をおさえて長机に突っ伏すエラ。
その体が何かに耐えるかのように震えている。
すぐに隣に座っていたレイが、エラの顔を覗き込む。
「え……私……」
右手に残る痛み。
その手の甲が、真っ赤に腫れていた。
「どうしたんですか!」
ルイスが教壇から下り、最前列に座っていたソラたちの長机の前まで駆け寄る。
「ルイス先生、クリスとエラを保健室まで連れて行ってもいいですか?」
呆然とするクリスの隣で、ソラが対応する。
一体何が起きたのか分からず――だけど、手の甲の痛みと、うずくまるエラに、なんとなく察していた。
自分が、エラの頬を、右手の甲で叩いたのだと。
いや、叩いたなんて生易しいものではない。
この痛みは、そんなものではない。
むしろ、殴ったという方が近いかもしれない。
「わ、分かったわ。ソラ、レイ、二人をお願いね」
ルイスの声に、男二人が頷く。
「行こう、クリス」
呆然とするクリスの肩を、ソラがそっと触れる。
レイは、頬をおさえるエラを立たせて、ゆっくりとした足取りで教室を出て行った。
それに続くように、クリスもまた、ソラに引っ張られるようにして教室を出た。
「……あの……私……一体……」
不安で堪らなくなり、隣を歩くソラに問いかける。
「覚えてないの?」
その言葉に、クリスは頷いて見せた。
「クリスはね、授業中に眠りそうになってたんだよ。それで、エラがまた悪夢を見たら可哀想だからって、起こそうとしたんだ。そしたらクリスが、叫び声を上げて、肩を揺らしていたエラを払いのけたんだよ。その手が、エラの顔に当たって……」
そう言って、前を歩くエラとレイを見やるソラ。
「私……なんてことを……」
後悔に胸が潰されそうになり、クリスは俯いた。
エラは、クリスにとって唯一の理解者だった。
同学年で、何の取り柄もなく、エレメントの素質もない自分。
口べたで、積極性がなく、会話らしい会話すらしたこともない。
だけど、エラは違った。
寮の同室というのもあったが、それでも、クリス自身、気の合わない相手であれば、同室の子であろうと話すことはしない。
エラは、何というか、懐にするりと入り込んでくるのだ。
うまく会話を盛り上げ、気がつけば、自分のことを話していた。
そうやってお互いのことを知り、理解し合った。
エラとだけは、自分から声をかけることができる。
何気ない日常の会話も、エラとだけだ。
だけど、エラには仲のいい友達がいる。
エラを含めた三人のグループだが、その二人が男子というのが、クリスを驚かせた。
そのことを訊くと、エラ自身、同姓とはあまり気が合わないらしい。
どうにも態度が上からになってしまい、嫌われてしまうというのだ。
信じがたい話だと思ったが、エラは実際、ソラとレイ以外とは話さず、常に行動を共にしていた。
そんなエラが、どうして自分のような目立たない、何の取り柄もない存在と話してくるのか訊いたら、「クリスといるときは、気張らなくていい。素の自分でいられる。傍にいて、ほっとするの」と言って、照れくさそうに笑ってくれたのだ。
そんな、自分にとって唯一とも言える友達であるエラを、傷つけてしまった。
本当なら謝らなければならないのに、それさえもできない臆病な自分。
悪夢を見るようになってからも、ずっと気にかけてくれていた。
今回だって、悪夢を見ないように起こそうとしてくれた。
その手を――払いのけてしまった。
エラの懇意を、拒絶してしまったのだ。
それが、何よりも辛く、クリスを苛んだ。




